2026/6/8
柴山潟の湖底から湧き出す湯、片山津温泉の開発秘話

片山津温泉について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
石川県加賀市の片山津温泉は、柴山潟の湖底から湧き出す源泉を持つ。江戸時代初期の発見から明治時代の埋め立て工事を経て温泉街が形成され、湖畔の景観と共に発展してきた。その開発の困難さと、現代における再生の取り組みを紹介する。
石川県加賀市、柴山潟のほとりに片山津温泉は広がる。湖面が日に七度色を変えるというその風景は、訪れる者の目を飽きさせない。しかし、この温泉地の魅力は、ただその景観にあるだけではない。湖底から湧き出すという特異な源泉、そしてその開発にまつわる困難と、それを乗り越えてきた人々の営みにこそ、片山津温泉の深層が横たわっている。なぜ、水底から湧き出る湯に人々はこれほどまでに執着し、一大温泉地として形成していったのか。その問いを胸に、まずはその始まりの地を辿ってみたい。
片山津温泉の発見は、江戸時代初期に遡る。承応2年(1653年)、当時この地を治めていた大聖寺藩二代藩主、前田利明が鷹狩りに柴山潟を訪れた際、水鳥が群れる水面に湯気が立ち上るのを目にしたという。これが湖底に温泉が湧出している証であり、片山津温泉の起源とされる出来事である。
利明公はこの温泉の開発を試み、藩費を投じて何度も工事を行った。しかし、湯源が湖底にあるという特殊な環境は、当時の土木技術では極めて困難な課題であった。水中の湯源を安定的に確保することは叶わず、開発は難航を極めたのである。その後も幾人もの手によって開発の試みは続けられたが、技術的な壁と資金の問題から、本格的な温泉地としての利用には至らなかった。
転機が訪れたのは明治時代に入ってからである。1876年(明治9年)に、柴山潟の一部を埋め立てる大規模な工事が始まった。約3万本の松材が使用され、約1ヘクタールに及ぶ人工島が造成された。この人工島に湖岸から橋が架けられたことで、ようやく人々が温泉に入浴できる環境が整えられたのである。翌1877年(明治10年)には片山津初の温泉旅館が開業し、1882年(明治15年)には源泉の安定的な確保に成功、ここに正式な開湯を迎えることとなる。
こうして、湖底に眠っていた湯は、人々の尽力によって陸上に引き上げられ、温泉街として発展を遂げていく。明治から昭和にかけて、片山津温泉は京阪神や中京地方からの団体旅行客を主な客層として、北陸有数の歓楽温泉へと成長した。特に北陸自動車道が開通した1980年(昭和55年)には年間151万人もの温泉客が訪れるピークを迎える。湖畔という開放的な立地は、山間部の温泉とは異なる魅力を持ち、多くの人々を惹きつけたのだ。
片山津温泉の源泉は、柴山潟の湖底から湧き出すという点で特異である。その泉質は「ナトリウム・カルシウム塩化物泉」と分類され、無色透明でありながら高い塩分濃度を持つ。口に含むと醤油ほどの塩辛さを感じるとも言われるほどだ。
この塩化物泉は、入浴後も肌に塩分が付着し、汗の蒸発を防ぐことで高い保温効果をもたらす。そのため「湯冷めしにくい湯」として知られ、特に冷え性に悩む人々から支持されてきた。神経痛、筋肉痛、関節痛、慢性皮膚炎、疲労回復など、幅広い効能が期待されている。源泉温度は72.5℃と高温であり、毎分400リットルという豊富な湧出量を誇る。
片山津温泉の地理的条件も、その発展に深く関わっている。柴山潟は、霊峰白山を遠望できる景勝地であり、その湖面が時間や天候によって七色に変化すると言われる「彩湖」としての顔を持つ。このダイナミックな景観は、山間部の温泉地にはない開放感を温泉客に提供してきた。湖畔に旅館が立ち並ぶことで、客室や露天風呂からこの「七色の湖」と白山を望むという体験は、片山津温泉ならではの魅力となっている。
しかし、湖底からの湧出という条件は、開発初期の困難さだけでなく、現代においても独特の課題を提示している。高張性という泉質は、温泉成分が濃厚であることを意味するが、同時に配湯設備の維持管理にも相応の工夫が求められる。片山津温泉では、各旅館に源泉を共同配湯するシステムが整備されており、安定した湯の供給を支えている。この共同配湯所は、温泉を守護する薬師如来が祀られた舞台のような建物として、温泉街の中心に位置している。
加賀温泉郷には、片山津温泉の他に山代、山中、粟津といった名湯が点在する。これら四つの温泉地はそれぞれ異なる個性を持つことで知られている。片山津温泉を特徴づけるのは、やはりその「湖畔」という立地である。
例えば、山代温泉は開湯1300年の歴史を持ち、総湯を中心に旅館や商店が囲む「湯の曲輪(ゆのがわ)」と呼ばれる独特の街並みが特徴だ。北大路魯山人ゆかりの地としても知られ、古総湯のような歴史的な共同浴場が街歩きの中心となる。山中温泉は、鶴仙渓の渓谷美に囲まれた自然豊かな環境が魅力であり、松尾芭蕉が称えたとされる景観の中で静かに過ごすことを求める客層に支持される。粟津温泉はさらに古く、開湯1300年とも言われる歴史を持つ静かな温泉地で、落ち着いた雰囲気を好む人々に選ばれる。
これら山間の温泉地が、歴史ある街並みや深い渓谷の自然と結びついているのに対し、片山津温泉は柴山潟という広大な湖面がもたらす開放感と、その向こうにそびえる白山の雄大な眺望を最大の魅力とする。柴山潟の「日に七度色を変える」という現象は、刻一刻と表情を変える水辺の風景を演出する。これは、固定された山並みや渓谷の景色とは異なる、動きのある自然美と言えるだろう。
また、片山津温泉は加賀温泉郷の中では「最も新しい温泉地」と評されることがある。この比較的新しい歴史は、伝統に縛られすぎない柔軟な開発を可能にした側面もある。近代的な建築を取り入れた共同浴場「総湯」の存在は、その象徴と言えるだろう。他の温泉地が古き良き湯治文化や文人墨客の足跡を重視する一方で、片山津は水辺のレジャーや現代的なリフレッシュを前面に出すことで、独自の立ち位置を確立してきた。
昭和55年(1980年)にピークを迎えた片山津温泉の観光客数は、その後、旅行形態の変化やバブル崩壊などの影響を受けて減少傾向に転じた。かつて北陸最大級を誇った大型旅館が廃業に追い込まれるなど、温泉街は厳しい局面を迎えることとなる。
しかし、この衰退に対し、地元は再生への取り組みを進めてきた。加賀市は廃業した旅館の跡地を整備し、温泉街の中心にある共同浴場「総湯」を刷新。世界的な建築家・谷口吉生氏が設計を手がけたガラス張りの「片山津温泉 街湯」は2012年4月にオープンし、温泉地の新たなシンボルとなった。この総湯には「潟の湯」と「森の湯」の二つの浴室があり、それぞれ柴山潟の湖面や周囲の木々を眺めながら入浴できる開放的な空間が提供されている。
温泉街では、柴山潟の景観を活かした取り組みが積極的に行われている。湖畔には全長716メートルの遊歩道や一周約7キロメートルのサイクリングロードが整備され、散策やアクティビティが楽しめる。夏には湖上花火大会が開催され、湖面に映る花火が片山津の夜を彩る。また、屋形船の運行や、湖上に浮かぶように建つ「浮御堂」への散策も、水辺の温泉地ならではの体験として提供されている。
さらに、片山津は「雪は天から送られた手紙である」という言葉を残した物理学者・中谷宇吉郎の出身地でもあり、「中谷宇吉郎 雪の科学館」も観光スポットの一つとなっている。温泉文化だけでなく、科学や自然に触れる機会を提供することで、多様な観光客の誘致を図っているのだ。観光客数はピーク時からは減少しているものの、水辺の回遊ルートの整備や情報板の多言語化など、外国人観光客への対応も進められている。
片山津温泉を巡って見えてくるのは、自然の恵みを享受しつつも、その特異な条件ゆえに、常に人と自然との間でせめぎ合いを続けてきた歴史である。湖底に源泉が湧くという事実は、温泉発見のロマンを生んだ一方で、その開発には膨大な時間と労力、そして技術的な挑戦が伴った。前田利明公の時代から明治期に至るまで、幾度も開発が試みられながらも実現しなかった背景には、水中からの湧出という困難があった。
しかし、その困難を乗り越えて人工島を造成し、温泉街を築き上げた明治の人々の決断と技術は、現代の片山津に「湖畔の温泉地」という他にない個性を残した。山間の温泉地が、古くからの湯治文化や、渓谷の奥深さと結びついて発展してきたのとは対照的に、片山津は広大な柴山潟という水辺の景観をその核に据えている。
かつて歓楽街として賑わった時代を経て、現代の片山津温泉は、その水辺の魅力を再認識し、総湯や遊歩道などの公共空間を整備することで、新たな温泉地の姿を模索している。湖面に映る白山の姿や、日に七度色を変える柴山潟の移ろいは、単なる景観としてではなく、この温泉地が歩んできた、幾度もの開発の難航と再生の物語を静かに映し出しているようにも見える。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。