2026/7/16
祇園祭の四条傘鉾は、なぜ子供たちの踊りを中心に据えるのか?117年の空白を経て蘇った物語。

祇園祭の四条傘鉾について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
祇園祭の四条傘鉾は、応仁の乱以前から存在しながらも、明治期に一度途絶えた。117年の時を経て復元されたこの傘鉾は、滋賀の民俗芸能をルーツに持つ子供たちの踊りを中心に据え、祭りの原初的な姿を今に伝えている。
喧騒の四条通に開く大きな傘
京都で最も賑わう四条通。その西洞院を少し西へ入ったあたりに、祇園祭の期間中、ひときわ異彩を放つ一基が現れる。巨大な車輪を持ち、天を突くような「真木」を立てた他の鉾とは明らかに趣が異なる。それが四条傘鉾(しじょうかさほこ)だ。一見すると、大きな赤い傘に鮮やかな垂りをつけただけの簡素な姿に見えるかもしれない。だが、この傘こそが、祇園祭の山鉾が現在の豪華絢爛な曳山形式へと進化する前の、最も古い形態の一つを今に伝えている。
多くの人が抱く祇園祭のイメージは、数トンもの重量がある鉾が「ギギッ」と音を立てて辻回しを行う勇壮な姿だろう。しかし、祭りの原層を掘り下げていくと、そこには「歩く芸能」としての姿が浮かび上がる。四条傘鉾は、一度は歴史の表舞台から完全に姿を消しながらも、100年以上の時を経て現代に蘇った。なぜ、京都の町衆はこの小さな傘を、わざわざ現代の喧騒の中に呼び戻したのだろうか。
そこには、単なる伝統の維持という言葉では片付けられない、土地の記憶と執念が隠されている。大きな鉾が立ち並ぶ四条通において、あえて「傘」という形を守り続けることの意味。そして、その傘の下で繰り広げられる子供たちの踊りが、かつて京都から全国へ散らばっていった文化の、いわば「里帰り」であるという事実は、あまり知られていない。この傘が再び開かれるまでには、117年という、気が遠くなるような空白の時間が横たわっていた。
117年の沈黙を破った町衆の執念
四条傘鉾の起源は古い。応仁の乱(1467〜1477年)以前の記録にすでにその名が見え、室町時代の「くじ取り次第」にも登場する。明応9年(1500年)の記録では、13番目に「かさはやし」として巡行していたことが記されている。当時の祇園祭において、こうした傘の形態は決して珍しいものではなかった。むしろ、現在の巨大な鉾の多くも、かつてはこうした傘や、あるいは人間が担ぐ程度の小さな「山」から始まったと考えられている。
しかし、四条傘鉾の歩みは平坦ではなかった。江戸時代の元治元年(1864年)、幕末の動乱に伴う「元治の大火(蛤御門の変による火災)」によって、京都の街は焦土と化し、多くの山鉾が焼失した。四条傘鉾もその被害を免れなかったが、その後、一度は巡行に復帰している。だが、明治維新という大きな社会変革の波が押し寄せた。明治5年(1872年)、京都府による祭礼の簡素化政策や、町内の経済的困窮、さらには巡行路の電線敷設といった都市化の波に押され、四条傘鉾はついに巡行を断念することになる。
ここから、四条傘鉾にとっての長い「休み鉾」の時代が始まる。道具類は散逸し、町内には傘の骨組みやわずかな懸装品が残るのみとなった。祇園祭の歴史において、100年を超える中断は、事実上の消滅を意味してもおかしくない。実際、四条通という京都随一の繁華街に位置しながら、その町内に祭りの実体がない状態が4世代以上にわたって続いたのだ。
転機が訪れたのは昭和50年代後半のことだった。1985年(昭和60年)、町内の人々による並々ならぬ努力によって、まずは傘本体が再興された。この年はまだ、路上に飾るだけの「居祭(いまつり)」としての復活だったが、114年ぶりに四条傘鉾の名が祇園祭の公式な記録に刻まれた瞬間だった。そして3年後の1988年(昭和63年)、巡行に欠かせない「踊りと囃子」が復元され、ついに117年ぶりに都大路を歩く姿が蘇った。
この再興劇を支えたのは、古い絵画資料や文献の徹底した調査だった。京都市内に残る「洛中洛外図屏風」などの絵画には、かつての四条傘鉾の姿が描かれている。それを手がかりに、失われた装飾品を一つひとつ新調していった。117年という空白は、単に古いものを修理するだけでは埋められない。それは、一度死んだ文化に、現代の技術と情熱で再び命を吹き込む、文字通りの「創造的復元」だったのである。
滋賀から里帰りした「風流」の拍子
四条傘鉾が巡行に復帰する際、最大の課題となったのが「踊り」の復元だった。傘鉾は、ただ傘が歩くだけではない。その傘を先導し、あるいは取り囲むようにして踊る「棒振り囃子(ぼうふりばやし)」があって初めて、一つの完成された芸能となる。しかし、明治初期に途絶えた踊りの型を正確に覚えている者は、町内には一人もいなかった。
ここで救世主となったのが、滋賀県竜王町にある瀧樹(たき)神社だった。この神社には、室町時代から伝わるとされる「ケンケト踊」という民俗芸能が今も残っている。調査を進める中で、このケンケト踊こそが、かつて京都で流行し、全国へ広まっていった「風流(ふりゅう)」と呼ばれる芸能の直系であることが判明した。江戸時代、四条傘鉾の棒振りは壬生村(現在の京都市中京区)の人々が奉仕していたと言われているが、そのルーツを辿ると、室町時代に京都から地方へ伝播し、奇跡的に滋賀の地で守り継がれてきた型に突き当たったのだ。
四条傘鉾の保存会は、瀧樹神社の協力を得て、このケンケト踊をベースに囃子と踊りを再構成した。これは単なる模倣ではない。京都で生まれた文化が地方へ疎開し、数百年を経て再び京都の都心へと「里帰り」を果たした、文化の壮大な循環である。現在、巡行で踊りを披露するのは、町内に縁のある子供たちだ。赤熊(しゃぐま)と呼ばれる赤い被り物を頭に載せ、棒を巧みに操りながら、太鼓や鉦(かね)、笛の音に合わせて力強くステップを踏む。
この踊りの構成は、棒振り2人、鉦2人、太鼓2人、ササラ2人の計8人を1組とする。子供たちが懸命に踊る背後では、大人の「影囃子」が演奏を支える。子供たちが主役となるこの形式は、四条傘鉾の大きな特徴の一つだ。他の山鉾の多くが、大人の囃子方を中心とする中で、この小さな踊り手たちの存在は、祭りの原初的な「清め」の役割を強く印象づける。
傘鉾の頂上に目を向けると、そこには花瓶に立てられた若松と、3本の「赤幣(あかへい)」が飾られている。この赤幣は、四条傘鉾にしか見られない独特の装飾だ。傘から垂れ下がる「垂り(さがり)」には、染色家・鈴鹿雄次郎の手による「麗光鳳舞之図」や、格調高い「早雲寺文台裂(そううんじぶんだいぎれ)」が用いられている。簡素な構造の中に、室町時代の雅さと、地方で磨かれた力強いリズムが同居している。それが四条傘鉾という装置の正体である。
綾傘鉾との対比に見る「傘」の流儀
祇園祭には、四条傘鉾のほかにもう一基、傘の形態を持つ「綾傘鉾(あやがさほこ)」が存在する。この二つを比較することで、四条傘鉾の個性がより鮮明に見えてくる。どちらも応仁の乱以前からの古い形式を伝える傘鉾だが、その復元の経緯や細部の意匠には興味深い違いがある。
まず、目に見える大きな違いは傘の数と装飾だ。綾傘鉾は2つの傘が巡行するのに対し、四条傘鉾は大きな1つの傘を中心に据える。また、傘の頂上(鉾頭)の飾りも異なる。綾傘鉾が金色の鶏を戴くのに対し、四条傘鉾は前述の通り、若松と赤幣を飾る。この「松」を立てるという行為は、神の依代(よりしろ)としての機能を象徴しており、大型の曳山である「岩戸山」などが松を立てるのと構造的な共通点を持っている。
さらに決定的な違いは、踊りの担い手である。綾傘鉾の棒振りは、主に大人の男性が担当し、力強く、時にはアクロバティックな動きを見せる。一方、四条傘鉾は徹底して子供たちが主役だ。この違いは、それぞれの保存会が復元の際にどの時代の、どの資料を重視したかという選択の現れでもある。四条傘鉾は、子供たちが踊ることで町内の絆を深め、次世代へ文化を繋ぐという教育的な側面も強く意識して再興された。
また、大型の「鉾」との比較においても、傘鉾の特殊性は際立つ。長刀鉾に代表される曳鉾は、高さ20メートルを超える巨大な真木を立て、その上に神霊を宿す。これはいわば「天から神を呼ぶ」ための垂直の装置だ。対して傘鉾は、傘そのものが神の動座(移動する座)であり、その周囲で囃し立てることで疫病を追い払うという、水平方向のエネルギーに満ちている。
学術的には、こうした傘鉾の形態は「風流拍子物(ふりゅうひょうしもの)」の系譜に属するとされる。疫神を鎮めるために、派手な装飾を施した作り物(傘や山)の周りで、賑やかに囃し踊りながら移動する。この「ハヤス(囃す・生やす)」という行為そのものが祭りの本質であり、巨大な車輪で曳かれるようになる前の、より身体的で動的な祭りの姿が、この小さな傘には凝縮されている。四条傘鉾が「古い形態」と呼ばれるのは、単に制作年代が古いからではなく、祭礼が持つ原始的な機能、すなわち「踊ることで場を清める」という構造を、そのままの形で残しているからだ。
ビルの谷間に響く、古の足音
現在の四条傘鉾町は、四条通という京都のメインストリートに面した、極めて都会的なエリアにある。周囲はオフィスビルや商業施設に囲まれ、かつての町衆の暮らしぶりを想像するのは容易ではない。こうした環境下で、100年の中断を経て祭りを復活させ、維持し続けることの困難さは想像に難くない。
祇園祭の山鉾行事は、かつては「寄り町(よりまち)」と呼ばれる周辺の町々からの支援制度によって支えられていた。しかし明治以降、その制度は崩壊し、各山鉾町は自力で保存会を運営しなければならなくなった。四条傘鉾の場合、再興にあたって最大の問題となったのは、道具を保管する「会所(かいしょ)」や、練習場所の確保だった。ビル化が進んだ町内で、巡行に必要な大量の装飾品を維持し、子供たちが集まって囃子の稽古をする場所を確保するのは、並大抵の苦労ではない。
それでも、宵山の夜に四条傘鉾の周辺を歩けば、そこには他にはない親密な空気が流れている。巨大な鉾が物理的な圧倒感で観客を魅了する一方で、四条傘鉾は、手が届くような距離で子供たちが踊り、囃子を奏でる。駒形提灯に照らされた傘の垂りが夜風に揺れ、鉦の音がビルに反響する光景は、現代の都市空間の中に、ぽっかりと室町時代の時間が口を開けているような感覚を抱かせる。
保存会の活動も、単なる伝統行事の再現に留まらない。近年では、SNSを活用した情報発信や、オリジナルグッズの展開など、現代的な手法で運営資金を募り、祭りの持続可能性を模索している。しかし、その根底にあるのは常に「町内の子供たちを祭りの中心に据える」という姿勢だ。一度は途絶え、誰も踊りを知らなかった町で、今では毎年、新しい子供たちが棒振りの稽古に励んでいる。117年の空白を埋めたのは、古い文献の記述以上に、こうした「人の身体を通じた継承」の積み重ねだった。
巡行当日、四条傘鉾は「くじ取らず」の山鉾などに続いて、都大路を進む。重さわずか400キログラム。数トンある曳山に比べれば、その存在はあまりに軽い。しかし、人力で運ばれ、子供たちの足取りとともに進むその姿は、祭りが本来、人の歩幅と、人の呼吸によって作られていたことを雄弁に物語っている。
祭りの原層を歩くということ
四条傘鉾を眺めていると、私たちが「伝統」と呼んでいるものの正体について考えさせられる。それは、一度も途切れることなく続いてきた強固な岩盤のようなものではない。むしろ、時代の荒波に洗われ、時には粉々に砕け散り、砂のように消えてしまいそうになる脆いものだ。四条傘鉾の場合、その砂は100年以上も風に吹かれ、人々の記憶の隅に追いやられていた。
しかし、その砂を再び集め、形を与え、命を吹き込んだのは、「自分たちの町に、かつてこの傘があった」という事実を誇りとした、名もなき町衆の意地だった。もし彼らが、現代の四条通にふさわしい「もっと豪華で大きな鉾」を作ろうとしていたら、それは単なるレプリカに終わっていただろう。彼らが選んだのは、簡素で、古く、そして再生が最も困難な「傘」という形だった。
この選択によって、祇園祭は一つの重要なパズルを埋め戻したことになる。巨大な曳山だけが並ぶ巡行は、確かに壮観だが、それは進化の「結果」だけを見ているに過ぎない。四条傘鉾がそこに加わることで、祭りはその「過程」を、すなわち、どのようにして人々が神を迎え、どのようにして疫病を払おうとしたのかという、祈りのプロトタイプを提示することが可能になった。
四条傘鉾の踊り手が子供であるという事実も、今では深い意味を持って響いてくる。117年の空白を経て再興されたとき、最初に踊った子供たちは、今や保存会を支える中核の世代となっている。かつて滋賀の神社から伝わったステップは、今や完全に四条傘鉾町の肉体の一部となった。文化は、一度死んでも、適切な「器」と「情熱」があれば、再びその土地の血肉として再生できる。
巡行の列が四条烏丸を過ぎ、河原町へと向かうとき、四条傘鉾の棒振りの子供たちが地面を蹴る音が聞こえる。それは、巨大な車輪がアスファルトを削る音よりもずっと小さく、しかし確かな、生命の鼓動だ。華やかな装飾や巨大な構造物に目を奪われがちな祇園祭において、この小さな傘は、祭りの本質が「歩くこと」と「踊ること」にあるという、極めてシンプルで力強い事実を、静かに、しかし鮮烈に示し続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。