2026/6/7
富山城、佐々堤、そして富山の薬売り:戦国・江戸時代の富山を辿る

富山の歴史について詳しく教えて欲しい。戦国・江戸時代。
キュリオす
戦国時代の富山城攻防と佐々成政による治水事業、江戸時代に加賀藩の分家として成立した富山藩が「富山の薬売り」を全国に広めた歴史を辿る。水との格闘が都市と産業の礎を築いた。
戦国時代の越中国は、一貫した支配者のもとにあることは稀であった。室町時代には畠山氏が名目上の守護を務めたものの、実権は守護代である椎名氏、神保氏、遊佐氏といった国人衆が分割して掌握していた。特に富山城は、天文12年(1543年)頃に越中西部を治める神保長職が、東部への進出を目論んで築城したと伝えられる。この城は、旧神通川といたち川の合流点に位置し、その水流を天然の要害とした「浮城」の様相を呈していたという。
しかし、この地の平穏は長く続かない。越中は、隣接する越後の上杉氏、甲斐の武田氏、そして加賀の一向一揆といった強大な勢力に挟まれ、常に戦乱の渦中にあった。永禄3年(1560年)には上杉謙信が富山城を攻略し、神保長職は一時的に増山城へ逃れることとなる。謙信の死後、天正6年(1578年)には織田信長の勢力が越中へ侵攻し、神保長住が富山城に入城するなど、支配者は目まぐるしく交代した。
この越中統一に乗り出したのが、織田信長の重臣である佐々成政である。成政は天正8年(1580年)に織田軍の主力として富山へ進軍し、天正11年(1583年)頃には越中一国をほぼ掌握した。彼は富山城を本拠とし、城下町の整備に着手したとされる。成政の治世において特に注目されるのは、常願寺川の治水事業である。度重なる氾濫に苦しんだ常願寺川に、長さ約150m、幅約140mに及ぶ「佐々堤」を築き上げ、領民の生活安定に努めたという。 しかし、本能寺の変後、成政は柴田勝家、そして徳川家康と同盟を結び、天下人へと台頭する豊臣秀吉と対立する道を選んだ。この決断が、成政の運命を大きく左右することになる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉方の前田利家と越中・能登・加賀の国境付近で激戦を繰り広げ、厳冬の立山連峰を越えて徳川家康に援軍を求める「さらさら越え」という逸話も残されている。 しかし、家康からの確たる支援を得られず、天正13年(1585年)には秀吉自らが10万の大軍を率いて富山城を包囲。成政は降伏し、越中を追われることとなった。 成政の転封後、越中一国は前田利家とその嫡子利長が領するところとなり、近世加賀藩の礎が築かれることになる。
佐々成政が越中を去った後、この地は前田家の支配下に入った。慶長2年(1597年)には加賀藩第2代藩主となる前田利長が富山城に入城したが、翌年には金沢へ移り、慶長10年(1605年)に隠居した際に再び富山城を居城とした。この時期に富山城は大規模な改修を受け、近世城郭としての体裁を整えることになる。しかし、慶長14年(1609年)の大火で城は焼失し、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となった。
富山藩が正式に成立するのは、それから四半世紀後の寛永16年(1639年)のことである。加賀藩第3代藩主前田利常が隠居するにあたり、次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石の分封を幕府に願い出て認められたのである。利次の母が徳川秀忠の次女・珠姫であったことから、富山前田家は松平姓を許され、外様大名ながらも準御家門に準じる家格を与えられた。 富山藩の当初の領地は、越中国婦負郡の大部分と新川郡の一部、そして加賀国能美郡の一部という分散した形であった。利次は当初、婦負郡百塚に新城を築く計画であったが、財政難により断念し、富山城に居を構えることを決める。万治2年(1659年)には加賀藩との領地交換により、富山城周辺の新川郡舟橋・水橋を藩領とし、飛び地であった加賀国能美郡を返上することで、領地を神通川流域に集約した。これにより、富山町は越中における唯一の城下町として整備が進められることになる。
藩政の安定期に入ると、富山藩は財政基盤の強化に力を注ぐ。特に2代藩主前田正甫の時代、元禄3年(1690年)に「越中富山の薬売り」として全国に知られるようになる配置売薬業が本格的に奨励された。江戸城内で急病の大名に正甫が携帯していた「反魂丹」を与え、その効き目が評判となったことがきっかけであったという。 正甫は、度重なる河川の氾濫で逼迫していた藩財政を立て直すため、殖産興業政策として売薬業を育成。藩は「領外勝手」という異例の触れを出し、売薬商人たちに全国への行商を許可した。この際、「先用後利」という独自の販売システムが確立された。これは、先に薬を預け、次回訪問時に使用した分だけ代金を支払うというもので、医療が未発達だった時代において、人々の利便性を高め、富山売薬の普及に大きく貢献した。藩は「反魂丹役所」を設置して薬の品質管理や売薬商人の育成にも取り組み、富山の薬業の礎を築いたのである。
富山の歴史を紐解く上で、その地理的条件、特に「水」の存在は不可欠である。越中の国は、立山連峰を源とする神通川、常願寺川などの急流河川が、富山湾へと注ぎ込む扇状地の上に広がる。この豊かな水は、米作りに適した肥沃な土地をもたらし、古くから穀倉地帯としての価値を高めてきた。しかし、同時にこれらの河川は「暴れ川」としての顔も持ち、度重なる洪水は人々に大きな苦難を与えてきたのである。
戦国時代に佐々成政が常願寺川に「佐々堤」を築いたのは、まさにこの水害との闘いの象徴であった。氾濫を繰り返す河川を治めることは、領民の生活を安定させ、ひいては支配の基盤を固める上で喫緊の課題だったのである。成政がこの治水事業に自ら陣頭指揮を執ったという記録は、当時の為政者にとって、水との共存がいかに重要なテーマであったかを物語っている。
江戸時代に入り富山藩が成立してからも、この水との関係性は変わらなかった。富山藩は、宗家である加賀藩と同じく「十村制」という独自の農村管理・徴税システムを採用し、積極的に新田開発に取り組んだ。新田開発は、水利の整備と密接に結びついており、洪水対策と並行して進められた。享保年間には総石高が14万石近くに達するなど、その努力は一定の成果を上げた。
そして、この水の恵みと苦難が、富山藩独自の産業である「薬売り」を育む土壌となった。藩の財政は、水害対策の費用や参勤交代の負担などによって常に逼迫していた。そこで、2代藩主前田正甫が着目したのが、医薬による殖産興業だった。豊かな水は薬草の栽培に適し、また、水運を利用した薬の輸送も可能であった。さらに、配置売薬という「先用後利」のシステムは、現金収入の少ない農村部で、急な病気や怪我に備えるための生活必需品として広く受け入れられた。 これは単に薬を売るだけでなく、定期的な訪問を通じて顧客との信頼関係を築くという、現代のマーケティングにも通じる手法であった。藩が積極的に関与し、「反魂丹役所」を設けて品質を保証したことは、富山売薬が全国的な信用を獲得する上で決定的な要因となった。 河川の氾濫という苦難が、藩を新たな産業の育成へと向かわせ、それがやがて「薬都富山」の礎を築くことになったのである。
富山の戦国・江戸時代の歴史を他の地域と比較すると、その独自の文脈がより鮮明になる。戦国時代の越中が、上杉、武田、織田といった大勢力の狭間で激しい争奪戦の舞台となったことは、甲斐の信濃、近江、あるいは九州の薩摩・大友・龍造寺の三国志にも似た状況と重なる部分がある。しかし、富山の場合、佐々成政という一時期の支配者が、短期間ながらも大規模な治水事業を主導した点は特筆される。多くの戦国大名が軍事や領地拡大に注力する中で、成政が常願寺川の「佐々堤」に力を注いだのは、この地の水害の深刻さと、それが領国経営に与える影響の大きさを物語るものだろう。これは、例えば武田信玄が甲斐の釜無川に「信玄堤」を築いた事例と共通する、治水が為政者の重要な責務であったという認識を示すものだ。しかし、成政の治水が、彼の失脚と転封によってその後の評価が歪められた可能性も指摘されており、その功績が十分に語り継がれてこなかった側面があるのかもしれない。
江戸時代に入ってからの富山藩は、加賀藩の支藩という立場にありながら、独自の経済政策を打ち出した点で興味深い。全国の多くの藩が米を主たる財源とし、特産品の開発も行っていたが、「越中富山の薬売り」は、その規模と全国的な展開において類を見ないものだった。例えば、東北の米沢藩が上杉鷹山の改革で織物産業を振興した例や、中国地方の長州藩が紙や蠟を奨励した例など、各藩が財政再建のために殖産興業に努めた事例は数多い。しかし、富山藩の売薬業は、「先用後利」という独自の商慣行と、柳行李を背負って全国を巡る行商という形態が特徴的であった。 このシステムは、現代のサブスクリプションモデルや訪問販売の原型とも言えるもので、医療が未発達な時代において、顧客の利便性を最優先した結果生まれた、極めて先進的なビジネスモデルだったと言えるだろう。
また、富山城が神通川の流路を防御に利用した「浮城」であったことは、水運の要衝としての地の利を物語る。水運は、江戸時代を通じて全国各地の物流を支えた重要なインフラであり、富山もまた北前船の寄港地として、あるいは飛騨街道の結節点として、人や物の往来が盛んな地域であった。 大坂廻米や飛騨登米といった形で年貢米が領外に搬出されたことからも、富山が単なる地方の藩ではなく、広域経済圏の中で一定の役割を担っていたことがわかる。 治水という困難な課題に直面しつつも、それを逆手に取るかのように水運と結びついた商業を発展させた富山の歴史は、自然条件と経済的合理性が複雑に絡み合いながら形成されてきた地方都市の一つの典型を示している。
現代の富山市街を歩くと、かつての神通川の面影は、松川としてその一部を残すのみである。富山城の北側を大きく蛇行して流れていた神通川は、明治時代から昭和初期にかけて行われた「馳越線工事」によって流路が直線化され、現在の姿へと大きく変貌を遂げた。 この大事業によって、富山市は長年の洪水被害から解放された一方で、旧河道は広大な廃川地となり、そこに県庁や市役所、主要なオフィスビルが建ち並ぶ、現在の富山市の中心市街地が形成されたのである。 歴史を遡れば、佐々成政が常願寺川に堤防を築いたのと同様に、富山の地は常に水との格闘の中で都市の姿を変えてきたことがわかる。
富山城址公園に立つ模擬天守は、戦後復興のシンボルとして昭和29年(1954年)に建てられたもので、現在は富山市郷土博物館として、この地の歴史を伝えている。 公園内に残る石垣や水堀は、江戸時代に富山藩主が居城とした富山城の遺構であり、かつての城郭の規模を偲ばせる。 城内には、富山藩10代藩主前田利保が嘉永2年(1849年)に完成させた千歳御殿の一部が残されており、江戸期の富山藩の建築文化を伝える貴重な存在である。
そして、江戸時代から続く「富山の薬売り」の伝統は、現代の富山県薬業へと脈々と受け継がれている。現在も富山県内には多くの製薬会社が立地し、「薬都」としての地位を保っている。 明治時代には藩の統制が解かれ、売薬業者は金融機関や水力発電、鉄道など、多岐にわたる産業へと資本を投じ、富山の近代産業の基盤を築いた。 株式会社広貫堂のように、江戸時代の売薬結社をルーツとする企業も存在し、その名称には2代藩主前田正甫の訓示「広く救療の志を貫通せよ」が込められているという。 かつて柳行李を背負って全国を巡った売薬さんたちの姿は、現代では見られなくなったものの、その精神と「先用後利」に代表される顧客本位の商法は、形を変えて富山の産業文化の中に息づいている。
富山の戦国・江戸時代を振り返ると、この地が常に「水」と深く結びついてきたことが浮き彫りになる。戦国期には神通川を天然の要害とした富山城が築かれ、佐々成政は常願寺川の治水に尽力した。江戸期には、度重なる水害による財政難が、奇しくも「富山の薬売り」という独自の産業を生み出す契機となった。
この水の記憶は、現代の富山市の姿にも明確な輪郭を与えている。明治期の神通川馳越線工事によって生まれた広大な廃川地が、現在の都市の中心部を形成している事実は、単なる地理的変化以上の意味を持つだろう。それは、自然の猛威とそれに対抗する人間の営みが、都市の骨格そのものを形成してきたという歴史的連続性を示唆している。
富山の歴史は、平野を潤し、時には脅かす水の流れの中で、人々がどのようにして生活の基盤を築き、産業を育み、そして都市の形を変えてきたのかを問いかけてくる。城下町としての富山、そして薬都としての富山。そのいずれもが、立山から流れ出る水と、それに抗い、あるいは寄り添ってきた人々の知恵と努力の結晶である。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。