マタギの猟犬から巨大な闘犬、そして理想の日本犬へ、秋田犬の姿はどのようにして作り変えられたのか?

立ち耳と巻き尾の奥にある違和感
秋田県大館市にある秋田犬会館の受付では、毛並みの豊かな秋田犬が出迎えてくれる。くるりと背中に巻いた尻尾、ピンと立った三角形の耳、そしてどこか遠くを見つめるような落ち着いた目元。体重が30キログラムから50キログラム近くにもなる大型犬でありながら、その佇まいには独特の静けさがある。忠犬ハチ公の逸話と相まって、私たちはこの犬を「古来より日本に受け継がれてきた伝統的な姿」として自然に受け入れている。
だが、他の日本犬と並べてみたとき、ある疑問が浮かぶ。小型の柴犬や中型の紀州犬、四国犬と比べて、秋田犬だけが際立って巨大なのだ。奥羽山脈の険しい山道を駆け巡り、クマやイノシシを追っていたマタギの猟犬が、最初からこれほどの巨体を持っていたのだろうか。
会館の3階にある博物室へ足を踏み入れると、古い写真が展示されている。そこに写る明治や大正の犬たちは、耳が垂れていたり被毛の模様が異なっていたりと、現代の私たちが知る秋田犬とは大きく異なる風貌をしている。知っているはずの姿が急に像を結ばなくなる。私たちが「日本の伝統」と呼ぶあの凛とした立ち姿は、一体いつ、どのような理由で形作られたのだろうか。
クマを追う山犬から土俵の闘犬へ
秋田犬の歴史を過去へと遡ると、最初に登場するのは東北地方の山岳地帯で狩猟に用いられていた「マタギ犬」である。マタギと呼ばれる狩猟民とともに熊や鹿を追っていたこれらの犬は、山中を俊敏に動くための適度な体格を持つ中型犬、あるいは中型よりやや大きい程度の山岳猟犬であったとされる。寒冷な気候に耐える密生した二重構造の被毛と、獲物に対峙する強い胆力を備えていたが、この時点では現在の秋田犬のような際立った大型犬ではなかった。
犬たちの姿が大きく変貌し始める最初の転機は、江戸時代の藩政期に訪れる。秋田藩の支藩であった佐竹西家(小場家)が治める大館地方において、武士の士気を高め精神を鍛錬する目的で闘犬が奨励されたのである。村々の強い犬が集められ、闘犬としての性能を高める選別が行われた。この地域で育てられた強靭な犬たちは、当時「大館犬」と呼ばれていた。
明治時代に入ると、この闘犬熱は一般庶民の間にも急速に拡大した。明治後期には「より強く、より大きく」という欲望から、交配の方向性が一激変する。海外から輸入されたマスチフやグレートデンといった大型洋犬、さらには四国から持ち込まれた土佐犬との交配が積極的に進められたのである。体格は一気に大型化したが、その代償として日本犬本来の特徴であった鋭い立ち耳は垂れ、尻尾の巻き方は崩れ、顔つきや皮膚のたるみには洋犬の影が強く残ることとなった。
治安維持を理由として1909年(明治42年)に闘犬禁止令が出されたものの、一度進んだ混血化の波は止まらなかった。大正時代を迎える頃には、大館周辺の犬たちは純粋な日本犬としての面影をほとんど失い、絶滅の危機に瀕していたのである。
この危機感に対して、大正末期から昭和初期にかけて大きな反転運動が巻き起こる。明治以来の過度な西洋崇拝に対する反動や、固有の文化遺産を保護しようとする思想が高まる中で、大館の有志たちが立ち上がった。1927年(昭和2年)5月、当時の大館町長であった泉茂家らによって「秋田犬保存会」が設立される。全国的な知名度を高めて保存運動を推進するため、名称は「大館犬」から「秋田犬」へと改められた。
保存会の地道な活動が実を結び、1931年(昭和6年)7月、秋田犬は日本の犬種として初めて国の天然記念物に指定された。指定を受けたのは優秀な9頭の個体であった。翌1932年には、東京の渋谷駅で亡き主人である上野英三郎教授を待ち続けるハチ公の逸話が新聞で大きく報じられ、1934年には渋谷駅前に銅像が建立された。秋田犬の名は忠誠の象徴として一気に全国へと浸透していった。
1934年頃からは秋田犬保存会による犬籍登録が開始され、1938年(昭和13年)には理想像を示す「秋田犬標準」が制定された。展覧会も開催されるようになり、純正化への道が軌道に乗りかけた矢先、太平洋戦争という最大の試練が襲いかかる。
戦況が悪化すると、深刻な食糧難の中で大型犬への風当たりは日増しに強まった。さらに防寒用軍用品として犬の皮や毛皮の提出が義務付けられ、軍用犬として唯一公認されていたジャーマン・シェパード・ドッグ以外の犬は捕獲と殺処分の対象とされたのである。愛好家たちは愛犬を救うため、あえてシェパードと交配させて軍用犬の振りをさせたり、山間部に秘かに疎開させたりして血を繋ぐ努力を重ねた。1945年(昭和20年)の終戦時に国内に残されていた純粋な秋田犬は、わずか十数頭に過ぎなかったと伝えられている。
わずか十数頭からの再構築
終戦直後の混乱期、絶滅の淵に立たされた秋田犬を蘇らせるため、保存会を中心に情熱的な復興作業が始まった。1947年(昭和22年)には展覧会が再開され、1949年からは会報『秋田犬』の発行がスタートする。1953年(昭和28年)5月に社団法人組織へ移行し、翌1954年には別組織であった秋田犬保存協会と一本化されて現在の保存会の基礎が固まった。
この復興プロセスにおける最大の課題は、戦時中の乱交配によって混入した洋犬の血を取り除き、日本犬本来の姿を取り戻すことだった。ブリーダーたちが指針としたのが、1938年に制定されていた「秋田犬標準」である。
秋田犬保存会が定める審査基準は、体高、毛色、骨格など約70項目に及ぶ。ジャパンケネルクラブの規定によれば、体高はオスの標準が67cm(許容範囲64〜70cm)、メスが61cm(許容範囲58〜64cm)とされている。被毛は太くまっすぐな表毛と、柔らかく密生した裏毛からなる二重構造(ダブルコート)を持ち、毛色は赤、虎(縞目)、白の3種類が基本とされる。白以外の毛色においては、顎の下から胸、腹、足の内側や尾の裏側が白くなければならないという「裏白(うらじろ)」の条件が厳格に求められる。
さらに審査において重んじられるのが、内面的な気質を表す独特の表現である。審査基準には「沈毅にして威厳を備え 悍威に富み、忠順にして素朴の感あり、地味な中に品位を持ち、感覚鋭敏にして、挙措重厚敏活共に備う」と明記されている。沈毅(ちんき)とは動じない落ち着き、悍威(かんい)とは強い気迫と精神力、忠順(ちゅうじゅん)とは飼い主への素直な従順さを意味する。単に容姿が整っているだけでなく、内から滲み出る品格と威厳が求められるのだ。
戦後の血統復元において、二頭の伝説的な名犬が決定的な役割を果たした。「金剛号」と「五郎丸号」である。
1940年代後半に登場した金剛号は、太い骨組みと堂々たる体格を持ち、展覧会を席巻した。「金剛系に非ずんば秋田犬に非ず」とまで評され、一世を風靡した。しかし金剛号には黒い顔立ちなど洋犬(マスチフ等)の影響が色濃く残っていたため、真の日本犬の姿を求める愛好家たちの間では異論も存在した。
そこで浮上したのが、より昔のマタギ犬に近い特質を持つ五郎丸号の血統であった。五郎丸号の血を引く個体同士の慎重な交配を重ねることで、洋犬特有の黒いマスクや皮膚のたるみが取り除かれ、立ち耳、巻き尾、三角の引き締まった目元という、理想的な日本犬の形質が固定化されていった。現在「秋田中興の祖」と称されるのは、この血統の力によるものである。
つまり、私たちが現在目にする秋田犬の整った姿は、古代から変わらず存在していたわけではない。明治から昭和の激動の中で崩壊しかけた血統を、残されたわずかな個体から丹念に選び抜き、人為的に再構築することによって生み出された美なのである。
海を渡ったもうひとつの「アキタ」
日本国内で天然記念物に指定されている日本犬は、柴犬、紀州犬、四国犬、甲斐犬、北海道犬、そして秋田犬の6犬種である。この中で秋田犬は、唯一の大型犬種という特異な立場にある。
他の日本犬たちの多くは、地域ごとの狩猟犬として中型あるいは小型の体格をそのまま保持しながら保存されてきた。たとえば柴犬は、小動物や鳥を追う小型狩猟犬としての骨格を維持したまま現代に至っている。これに対し秋田犬は、「中型のマタギ犬」を土台にしながら「闘犬化による大型化」というプロセスを経た後に、「大型の体格を保ったまま日本犬標準の容姿へ還元する」という極めて複雑な歴史を辿った。
この歴史の歪みがもたらした最も際立つ対比として挙げられるのが、海を渡った「アメリカン・アキタ」の存在である。
終戦直後の1940年代後半、日本に駐留していた進駐軍(GHQ)の米兵たちは、秋田犬の堂々たる体格と愛らしい姿に魅了され、数多くの個体を母国へ持ち帰った。このときアメリカへ渡った犬たちの多くは、当時日本で圧倒的な人気を誇っていた「金剛号」の血統を汲む個体であった。すなわち、マスチフやジャーマン・シェパード・ドッグの影響を受けた、ガッチリとした体躯と黒い顔立ち(ブラックマスク)を持つタイプである。
アメリカのブリーダーたちは、この重厚でたくましい姿を好み、独自に交配と改良を重ねていった。日本では五郎丸号の登場以降、洋犬的な特徴を排除して「立ち耳・巻き尾・素朴な日本犬らしさ」への回帰が進んだのに対し、アメリカでは逆のベクトルが働いたのである。より大きく、胸幅が広く、頭部が重厚な犬種としての固定化が進められた。
その結果、日米で「アキタ」と呼ばれる犬の姿は大きく乖離することとなった。長らく血統登録を巡る議論が続いたが、現在では国際畜犬連盟(FCI)をはじめとする主要な畜犬団体において、日本の「秋田犬(Akita)」と「アメリカン・アキタ(American Akita)」はまったく別の独立した犬種として公認されている。
同じ東北の山村に源流を持ちながら、一方は日本国内で「理想の日本犬」として削ぎ落とされ、他方は異国で「パワフルな大型犬」として誇張されていった。伝統犬と呼ばれる存在の容姿が、それを育む人々の文化的価値観や美意識によってどのように書き換えられるかを示す、典型的な比較例と言えるだろう。
理想の血を繋ぐ現場の重み
秋田県大館市字三ノ丸に立つ秋田犬会館は、1977年(昭和52年)に秋田犬保存会の創立50周年を記念して建設された。1階には本部事務所、3階には国内の犬種団体として唯一の博物室が置かれ、骨格標本や歴代の名誉章犬の写真パネル、パノラマ展示などが整然と並んでいる。
保存会が主催する最大の行事が、毎年5月3日に隣接する桂城公園で開催される「春季本部展」である。全国各地から200頭近い秋田犬が集結し、年齢に応じた部門ごとに、約70におよぶ評価項目に基づいて個体審査と比較審査が行われる。最高賞である「名誉章」は年にわずか2〜3頭、該当なしの年もあるほど厳格な基準で選出される。出陳される犬たちは、ハンドラーと呼ばれる専門の引き手とともに輪を描き、審査員の前で「沈毅にして威厳を備えた」姿勢を保ち続ける。
しかし、この保存運動の足元では厳しい現実が進行している。保存会の会員数は、昭和47年(1972年)頃のピーク時と比較して約3割程度にまで減少している。
その背景にあるのは、大型犬を飼育することの極めて高いハードルである。秋田犬は体格が大きく体力も豊富なため、朝夕それぞれ1時間以上の運動が欠かせない。ダブルコートの毛は抜けやすく、日々の入念なブラッシングや徹底した犬舎管理が必要となる。食事代をはじめとする維持費もかさむため、かつてのように専属の飼育係を雇って多数の犬を維持できた時代とは環境が大きく異なる。個人ブリーダーの高齢化と後継者不足は深刻な問題である。
さらに近年では、海外での「AKITA」ブームに伴う新たな課題も生じている。ロシアのプーチン大統領へ贈呈された「ゆめ」や、フィギュアスケートのザギトワ選手に贈られた「マサル」などをきっかけに世界的な知名度は急上昇したが、海外での登録比率は低く、偽血統書が出回ったり独断的な交配が行われたりする事態も報告されている。
地元・大館市では、大館能代空港での定期的な出迎えイベントや、地域おこし協力隊による飼育支援など、伝統の血を地域の未来へと繋ぐ模索が続いている。
理想像を彫り出す営みとして
「秋田犬はいつ頃からいて、なぜこれほど大きく凛としているのか」という最初の疑問に戻るとき、私たちはひとつの事実に突き当たる。
秋田犬は、太古の昔からそのままの姿で秋田の山奥に生き続けてきた「古代の生き残り」ではない。マタギの狩猟犬という起源を持ちながらも、藩政期から明治にかけての闘犬熱による洋犬との混血、大正期の保存運動、そして太平洋戦争での絶滅寸前の危機という、時代の波に何度も飲み込まれてきた。
私たちが今日、展覧会の会場や街角で目にする秋田犬の立ち姿は、戦後の愛好家たちが「あるべき日本犬の美」を追い求め、残されたわずか十数頭の個体から丹念に削り出し、再固定化した造形物である。立ち耳や巻き尾の美しさも、重厚な体格も、すべては歴史の過ちと混乱を乗り越えようとした人間の情熱によって選び取られたものなのだ。
大館の秋田犬会館3階にある博物室には、歴代の名誉章犬たちの写真とともに、昭和初期に活躍した作出功労犬たちの写真が飾られている。初期の犬たちの洋犬がかった風貌と、現代の洗練された立ち姿を比べるとき、そこに浮かび上がるのは単なる犬の品種改良の記録ではない。
それは、時代ごとに人間が抱いた欲望や美学、そして失われかけた自国の伝統を取り戻そうとした静かな執念の軌跡である。秋田犬の凛とした背中には、そうした人々と犬とが共に歩んだ重密な時間が、変わらぬ毛並みとなって宿っている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 秋田犬①秋田犬って、どんな犬? | なんも大学nanmoda.jp
- 秋田犬保存会 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 闘犬として作出された秋田犬 「変容」が語る苦難の歴史│秋田犬新聞akitainu-news.com
- 【獣医師が解説】秋田犬の性格は?飼い方のポイントや、かかりやすい病気についても解説! | ワンペディアwanpedia.com
- 秋田犬 – 公益社団法人 日本犬保存会nihonken-hozonkai.or.jp
- 秋田犬 – 大館神明社例祭余興奉納行事-秋田県大館市の伝統文化odate-shinmei.com
- 秋田犬の歴史まとめ!天然記念物?元闘犬なの?凶暴? | petandco株式会社petand.co.jp
- 保存会概要 – 公益社団法人秋田犬保存会akitainu-hozonkai.com