日時計説のズレから見えてくる、大湯環状列石の知られざる構築目的とはどのようなものだったのか?

黒く滑らかな川原石が敷き詰められた台地で
秋田県鹿角市十和田大湯。大湯川の河岸段丘上に広がる台地に立つと、地面に埋め込まれた膨大な数の川原石が目に入る。大小の石が整然と円を描き、その中央には柱状の石が1本立っている。
これが万座環状列石と野中堂環状列石、ふたつを合わせて「大湯環状列石」と呼ばれる縄文時代後期の遺跡だ。万座は最大径52メートル、野中堂は最大径44メートル。日本国内で確認されているストーンサークルとしては最大級の規模を誇る。
かつてこの遺跡は「縄文人がつくった精密な日時計であり、天体観測のための施設である」と語られてきた。二つの環状列石の立石と、その周囲の配石を結ぶ直線が、夏至の日に太陽が沈む方角と重なるという説が長らく信じられてきたからだ。
だが、近年の測量データの再検証によって、この「日時計説」には見過ごせない方位のズレが存在することが明らかになりつつある。
天体観測機という綺麗な説明が揺らいだとき、目の前の巨石群はまったく別の表情を見せ始める。縄文人たちはなぜ紀元前2000年という時代に、これほど膨大な石をわざわざ遠くから運び、200年もの歳月をかけて円を描き続けたのだろうか。
昭和六年の発見から日時計説の再検証まで
大湯環状列石が歴史の表舞台に姿を現したのは、1931年(昭和6年)のことだ。地元の農民が開墾作業を行っていた際、地中から大量の川原石と縄文土器が発見されたのがすべての始まりだった。
本格的な調査への機運が高まったのは太平洋戦争のさなか、1942年のことだ。そして戦後の1946年(昭和21年)、雑誌『科学朝日』がこの発掘調査の成果を大きく報じたことで、大湯の名は一気に全国へ知れ渡ることになる。復興へ向かう日本社会において、古代の壮大なモニュメントの存在は大きな関心を集めた。
1951年から1952年にかけては、文化財保護委員会と秋田県教育委員会が主体となり、大規模な学術調査が実施された。この知見をもとに、1956年には国の特別史跡に指定されている。
この発掘ブームの中で生まれたのが、いわゆる「夏至の日没線説」だった。1956年、研究者の川口重一は、野中堂と万座のそれぞれの中心部にある「日時計状組石」と中央の立石を結ぶ軸線が、夏至の太陽が沈む方位と一致すると発表した。
当初はこの説に対して懐疑的な声もあった。しかし1994年、考古学者の小林達雄らによって再検討がなされると、天体観測説は一気に説得力を増し、教科書や広報物、メディアを通じて「縄文時代の日時計」というイメージが定着していった。
ところが、この通説に大きな転換が訪れる。2022年、研究者の平津豊による検証によって、1950年代の報告書に使われていた図面の方位表記自体に誤りがあったことが指摘されたのだ。
正しく修正された方位で計算し直すと、万座の日時計状組石が位置する方位は中心から289度であるのに対し、大湯環状列石が構築された紀元前2000年頃の夏至の日没方位は302度であった。その差は13度に及ぶ。天体観測の精密な標柱とするには、あまりにも大きな乖離が存在していたのだ。
天体觀測というロマンチックな物語が剥がれ落ちたことで、研究者たちは再び素朴な原点へと書き戻されることになった。天体を見るためでないとすれば、この集積は何のためのものだったのか。
四キロ先の川から運ばれた八千個の緑の石
大湯環状列石の構造を精査すると、そこには気の遠くなるような人の手作業の痕跡が残されている。
遺跡は万座と野中堂という約130メートル離れたふたつの区画からなる。万座環状列石には約6500個、野中堂環状列石には約2000個、合計で8000個を超える川原石が使われている。
使われている石の6割以上は、「石英閃緑ヒン岩(せきえいせんりょくひんがん)」と呼ばれる緑色を帯びた特定の岩石だ。この石は大湯の台地周辺では採れない。遺跡から東へ2から4キロメートルほど離れた諸助山の麓を流れる安久谷川、あるいはそれが注ぐ大湯川の川原から運ばれてきたことが地質学的に突き止められている。
最も重い石は200キログラムを超えており、コロや担ぎ棒のような単純な道具しか持たない時代に、川から台地の上まで急坂を曳き上げられたことになる。考古学的な推定では、これらの配石が完成するまでに200年以上の歳月が費やされたとされる。
大湯環状列石の基本的なユニットは、数個から数十個の石を楕円形や円形、四角形に組み合わされた小さな「組石(配石遺構)」だ。万座には100基以上、野中堂には60基以上の組石が存在し、それらが内外二重の同心円状に並べられている。
発掘調査により、これらの組石の真下からは、副葬品を納めた竪穴の土坑墓が相次いで検出された。つまり、ひとつひとつの小さな石組は個人の墓標であり、万座や野中堂という巨大なストーンサークルは、数百に及ぶ墓が集合した「大規模な共同墓地」であったのだ。
また、環状列石の周囲からは、墓以外の遺構も大量に見つかっている。
列石の外周を取り囲むように、4本あるいは6本の柱穴を持つ「掘立柱建物跡」が同心円状に配置されていた。これらは平面が亀甲形をした独特の建築で、床下に生活痕跡がないことから、住居ではなく葬送儀礼や保管のための特殊な建物と考えられている。
さらに周囲からは、日常生活で使われる土器だけでなく、特別な道具が大量に出土した。深鉢や片口土器(大湯式・十腰内式土器)をはじめ、土偶、鐸形土製品、キノコ形や動物形を模した土製品、石棒などだ。
中でも特筆すべきは、人体を象形したとされる長方形の「足形付土版」である。
愛称「どばんくん」として知られるこの土製品は、表面に目や口、あるいは数を示すとされる1から6の穴が穿たれている。2022年、レプリカ作成の過程でCTスキャン撮影が行われたところ、口の穴から底部の穴へと内部を一直線に貫通する空洞が存在することが発見された。縄文人が人間の消化管の構造を意識して造形していた可能性を示す資料として、大きな話題を呼んだ。
これらの精巧な品々は、大湯が単なる埋葬の場にとどまらず、死者を送り出し、生者の無事や豊穣を祈るための「共同の祭祀場」であったことを雄弁に示している。
集落の解体と巨大なモニュメントの出現
なぜ縄文時代後期(紀元前2000年〜紀元前1500年頃)という時代に、これほど大規模な集団墓地兼祭祀場が必要とされたのだろうか。その背景には、当時の社会構造の大きな変動があった。
縄文時代前期から中期にかけて、人々は「環状集落」と呼ばれる形態で暮らしていた。中央の広場や墓域を囲むように竪穴住居が円形に並び、ひとつの集落の中で生活と埋葬が完結する自己完結型の社会である。
しかし縄文時代後期に入ると、地球規模の気候寒冷化が進行する。気温の低下は山菜やナッツ類、野生動物などの食料資源の減少を招いた。これにより、従来の巨大な集落を維持することが困難になり、人々は数世帯単位の小さな村々に分かれ、広い地域へ分散して暮らすことを余儀なくされた。
集落が小規模化し散開したとき、人々が必要としたのが「複数の村々をつなぐネットワークの拠点」だった。
中央の広場にあった墓地や祭祀の空間が集落から独立し、居住域から離れた場所に巨大なモニュメントとして再構築された。各集落から人々が集まり、共同で作業を行い、祖先を祀る。大湯環状列石は、離れ離れになった村同士の結びつきを維持するための「集落を超えた聖地」として誕生したのだ。
このような円環状のモニュメントを築く動きは、同時期の東日本各地に広がりを見せている。
例えば、同じ秋田県北秋田市にある伊勢堂岱遺跡は、4つの環状列石が集積した縄文後期の遺跡であり、大湯と非常に近い構造を持つ。青森県の小牧野遺跡では、石を雛壇状に積み上げる独特の配石技法で巨大な環状列石が作られた。
石だけではない。素材を変えた同種のモニュメントも存在する。
北海道千歳市のキウス周堤墓群は、土を高く掘り上げて巨大なドーナツ状の堤を築いた「環状土籬(かんじょうどり)」であり、最大のものは外径74メートル、壁の高さが5メートルにも及ぶ。また、石川県のチカモリ遺跡や富山県の桜町遺跡では、クリの巨木を半円割にして環状に並べた「環状木柱列(ウッドサークル)」が見つかっている。
石、土、木。使われた素材は地域の環境によって異なるが、「円環を描いて聖なる空間を区切り、集団の記憶を定着させる」という設計思想は共通している。
その中でも大湯環状列石が異彩を放つのは、特定の川から200年間にわたって同じ種類の石を運び続け、8000個もの石で緻密な二重の輪を作り上げたという、時間的・労力的な集積の凄まじさにある。
分断する県道と四千年前の風景
現在、大湯環状列石を訪れると、現代のインフラと古代遺構が奇妙に交錯する光景を目にする。
2021年7月、大湯環状列石は青森・岩手・秋田・北海道に点在する他の遺跡とともに「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産としてユネスコ世界文化遺産に登録された。1956年の特別史跡指定から半世紀以上を経て、国際的な価値が認められたことになる。
史跡内には案内板や看板がほとんど置かれていない。現地を訪れる人が、余計な視覚情報に邪魔されることなく、大湯川沿いの台地と背後の山々が織りなす縄文時代そのままの地形と空気を体感できるように配慮されているためだ。隣接するガイダンス施設「大湯ストーンサークル館」で事前の知識を得た上で、静かな台地へ足を踏み入れる設計になっている。
しかし、その静寂のただ中を一本のアスファルト道路が貫いている。
万座環状列石と野中堂環状列石のちょうど中間を、秋田県道66号(十二所花輪大湯線)が走っており、路傍には電柱が立ち並ぶ。1931年の発見以前から地域住民の生活道路として使われてきた道であり、二つの重要な環状列石は現代の道路によって物理的に切り裂かれているのだ。
世界遺産の登録に際し、ユネスコの諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)からは、この県道と電柱について「遺跡の景観と一体性を損なう不適切な構造物」として撤去と迂回が強く勧告された。
これを受け、鹿角市と秋田県は2021年から航空測量などを開始し、遺跡の外側を迂回する新ルートの建設と県道移設に向けた協議を進めている。4000年前の聖域の姿を完全に取り戻すための作業が、現代の手によって今なお進行中なのだ。
日時計の幻影を越えて見えてくるもの
「天体観測のための日時計」という物語は非常に分かりやすく、魅力的だった。古代人が高度な天文学知識を持ち、太陽の動きを正確に計測していたというストーリーは、いつの時代も人々の知的好奇心を刺激する。
しかし、その計測軸に13度の誤差が存在したという事実は、私たちに「別のリアリティ」を見せつける。
大湯環状列石の真価は、天文機器としての精度にあったのではない。寒冷化という環境の激変によって分断された人々が、共通の祖先が眠る台地に集まり、数百メートル先、数キロメートル先の川岸から200キログラムの石を総出で運ぶという、極めて具体的で泥臭い協働作業そのものにあったのだ。
1個の石は、亡くなったひとりの人間の墓標に過ぎない。しかし、その石を置き、また次の世代が石を置き、特定の緑の石を選び取って並べ続ける営みが200年間繰り返された結果、8000個の石による巨大な円環が立ち現れた。
そこにあるのは、天体を正確に測る理論ではなく、過酷な時代を生き抜くために共同体の絆を物理的に刻み込もうとした縄文人たちの累積された時間そのものである。
精密な時計という洗練された解釈を剥ぎ取ったあとに残るものは、何世代にもわたって石を運搬し重ね続けた、途方もない身体的な痕跡だ。十和田大湯の静寂な台地に敷き詰められた緑の石は、今もその確かな重みを保ったまま、足元に沈黙している。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 大湯環状列石 / 大湯ストーンサークル館 | 旅するかづの/鹿角公式観光サイトexplorekazuno.jp
- 大湯環状列石 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 大湯ストーンサークル館(秋田県鹿角市)|東北の観光スポットを探す | 旅東北 - 東北の観光・旅行情報サイトtohokukanko.jp
- 特別史跡 大湯環状列石/大湯ストーンサークル館 | 観光・体験スポット | アキタファンakita-fun.jp
- 大湯環状列石とは/鹿角市city.kazuno.lg.jp
- Oyu Stone Circles | Search Details | Japan Tourism Agency,Japan Tourism Agencymlit.go.jp
- 世界遺産 文化遺産オンラインonline.bunka.go.jp
- 国特別史跡 大湯環状列石・ストーンサークル館|舌状台地の上に立地する2重の円環による2つの環状列石を主体とする祭祀遺跡oyustonecircles.explorekazuno.jp