2026/5/29
中根金作、足立美術館庭園に込めた「昭和の美学」とは

庭師の中根金作さんについて知りたい。どういう人なのか?日本庭園の系譜や潮流を知りたい。
キュリオす
日本庭園の歴史的変遷を辿りながら、作庭家・中根金作の生涯と功績を紹介。特に足立美術館庭園に代表される、伝統と革新を融合させた作風と、現代に受け継がれる庭園文化の課題に迫る。
日本庭園の歴史は、古代からの自然信仰と大陸文化の影響が複雑に絡み合いながら形成されてきた。飛鳥時代には、中国大陸や朝鮮半島から造園文化が伝来し、海に見立てた池に蓬莱山を模した中島を配する「蓬莱型庭園」が主流であったという。蘇我馬子が初めて導入したとされる「島庄遺跡」などにその痕跡が見られる。 仏教の伝来とともに、仏教世界の中心である須弥山を象徴する立石が据えられるなど、宗教的な意味合いが加わっていった。
平安時代に入ると、貴族文化の隆盛とともに庭づくりがブームとなる。 寝殿造の邸宅に広大な庭園を築き、池泉を中心とした「寝殿造庭園」や、極楽浄土を表現する「浄土式庭園」が盛んに造られた。この時代には、日本最古の作庭指南書とされる「作庭記」が著され、日本庭園の様式が体系化された。 作庭記には、遣水は悪気を流すため東から西へ流すべきであるといった具体的な指針や、屋敷の四方にふさわしい樹木を植え四神具足の地とすべきといった思想が記されており、その後の作庭に多大な影響を与えた。
鎌倉時代には、貴族中心の世から武士中心の世へと移り変わり、禅宗が伝来するとともに、禅寺の庭園が数多く作られた。 龍門瀑と呼ばれる力強い滝石組など、豪快な作風が好まれた時代である。室町時代は日本庭園の黄金期とも称され、禅宗の影響を色濃く受けた「枯山水」という新しい様式が誕生した。 石組みで山や滝を、白砂で水流を表現する枯山水は、禅の精神性を強く反映したものであり、夢窓疎石のような高僧が作庭家としても活躍した。 西芳寺や天龍寺の庭園は、その代表例として今に伝えられている。
安土桃山時代から江戸時代にかけては、戦国大名や豪商たちが競って庭園を造り、庭園文化が広く定着した。 不老不死を願う鶴亀蓬莱の石組みや、書院造の住宅様式と一体となった書院式庭園が数多く造られた。 また、千利休によって侘び茶が大成されると、茶室に至る「露地」という新たな庭園意匠が出現した。 飛石、蹲、灯籠といった要素が配置された露地は、茶の湯の精神性を庭園空間に凝縮したものであり、小堀遠州のような武将茶人が作庭家としても名を馳せた。
明治・大正時代に入ると、廃藩置県によって大名の力が衰え、西洋文明の流入とともに庭園文化も変革期を迎える。海外貿易で富を得た商人や政府高官が新たなパトロンとなり、小川治兵衛(植治)のような作庭家が活躍した。 借景や流れ、軽やかな配石、広々とした芝生を取り入れた植治独特の作庭手法は、近代日本庭園の潮流を形成した。同時に、西洋の整形式庭園の影響を受けた新宿御苑のような庭園も現れ、日本庭園の多様性が増していく。
このような日本庭園の豊かな歴史が息づく昭和の時代、中根金作は1917年(大正6年)に静岡県磐田市に生まれた。 静岡県立浜松工業学校図案科を卒業後、一時外資系企業に就職し図案を描いていたが、造園への興味を抱き、東京高等造園学校(現・東京農業大学造園科学科)に進学する。 彼にとって決定的な転機となったのは、1942年(昭和17年)の京都への修学旅行であった。講義や書物から得た知識がいかに空虚なものであり、実際に空間に庭を造形する技術が不足していることを痛感し、卒業後は京都で植木職として現場修行を積むことを決意する。 この経験が、中根の後の作庭家としての揺るぎない基盤となるのだ。
京都での現場修行を経て、1943年(昭和18年)に京都府園芸技手として任用された中根金作は、戦後、京都府文化財保護記念物係長として数多くの古庭園の保存修理に携わることとなる。 鹿苑寺(金閣寺)の鏡湖池の修理(1956年)はその代表的な仕事の一つであり、西芳寺、平等院、醍醐寺三宝院、栗林公園などの名園の根本修理にも尽力した。 これらの経験を通じて、彼は古庭園の持つ歴史的価値や、そこに込められた先人の思想、そして伝統的な作庭技術の精髄を深く学ぶことになった。文化財の保護に携わることは、単に古いものを守るだけでなく、その本質を理解し、現代に活かすための重要なプロセスであったと言えるだろう。
1965年(昭和40年)に京都府を退職し、翌1966年(昭和41年)に中根庭園研究所を設立した中根は、本格的に作庭家としての道を歩み始める。 彼は生涯にわたり、国内外で300を超える庭園を作庭したとされ、その功績から「昭和の小堀遠州」と称されるようになる。 この呼称は、彼が小堀遠州のように多様な庭園様式に通じ、伝統を踏まえつつも革新的な美意識をもって作庭を行ったことへの最大級の評価である。
中根金作の作庭哲学は、「伝統の美と技術をしっかりと身に付け、それを基盤とした作庭を行うこと。決して昔の庭のコピーではなく、必要に応じていつでも伝統的な庭園を作り得る技術と感性を持つこと」という言葉に集約されている。 彼は、日本の自然風土と歴史文化を深く理解し、その土地固有の条件や建築物との調和を重視した。また、彼の庭園は単なる鑑賞のためだけでなく、訪れる人が回遊し、様々な角度から自然の景観や季節の移ろいを感じられるような空間設計が特徴的である。
彼の代表作として最もよく知られるのが、島根県安来市にある足立美術館庭園である。 1969年(昭和44年)から1972年(昭和47年)にかけて作庭されたこの庭園は、池泉庭園、枯山水庭園、苔庭、茶庭など、多様な様式が一体となって構成されている。 特に、雄大な借景を取り込んだ枯山水庭園は国内外で高く評価され、海外の日本庭園専門誌で長年「日本一の庭園」として紹介されている。 中根自身もこの庭園を「人生の中でも最も充実した会心の作」と語ったという。 足立美術館庭園は、自然の山々を巧みに借景として取り込み、一枚の絵画のように切り取ることで、庭園と周囲の風景が一体となった壮大な景観を生み出している。
他にも、京都の城南宮楽水苑(1954年~1960年) や、妙心寺退蔵院の余香苑(1963年~1966年) など、数々の名庭を手掛けた。城南宮楽水苑は、平安時代から伝わる曲水の宴を催すことができる庭園として知られ、古典的な趣を現代に再現している。余香苑は、禅寺の静寂な空間に、自然の雄大さを凝縮した枯山水と、四季折々の表情を見せる池泉回遊式庭園を組み合わせたもので、見る者に深い精神性を感じさせる。
中根の作庭活動は国内に留まらず、海外にも及んだ。1965年(昭和40年)のハワイ・ホノルル、メモリアルパーク日本庭園を皮切りに、マレーシア、ブラジル、オーストリア、シンガポール、アメリカなど、世界各地で日本庭園を設計・作庭した。 シンガポールのジュロン・タウン日本庭園「星和園」(1970年~1971年) や、アメリカ合衆国ボストン市のボストン美術館天心園(1984年~1987年) 、ジミー・カーター・プレジデントセンター日本庭園(1984年~1986年) などがその代表例である。特にボストン美術館天心園の作庭依頼は、美術館の選考メンバーが長期にわたり日本全国の著名な造園家の庭を見て回った上で決定されたという経緯があり、中根の国際的な評価の高さを示すものだ。 これらの海外での作庭は、日本の伝統的な美意識を異文化圏に紹介し、日本庭園の普遍的な魅力を世界に伝える役割を果たしたのである。
中根金作が「昭和の小堀遠州」と称された背景には、小堀遠州がそうであったように、彼は特定の様式に固執することなく、池泉回遊式庭園、枯山水、茶庭など、多様な庭園形式を高い水準で手掛けたという共通点がある。遠州が茶の湯を通じて武家文化と公家文化、禅の精神を融合させたように、中根もまた、古庭園の保存修理で培った古典への深い理解と、新たな時代における庭園のあり方への問いかけを、その作庭に反映させた。遠州が建築や工芸にも通じた総合的な美意識の持ち主であったように、中根もまた、造園学を体系化し、大阪芸術大学の学長を務めるなど、教育者としても後進の育成に尽力した。 彼の庭園は、単に美しいだけでなく、その背後にある思想や文化的な背景を深く感じさせる点で、遠州の作庭に通じるものがあると言えるだろう。
中根の作庭は、過去の模倣に終わらない。例えば、佐賀県武雄市の陽光美術館内にある慧洲園は、茶畑を富士山に見立てた築山として取り込むなど、その土地ならではの景観要素を大胆かつ独創的に取り入れている。 これは、古来より日本庭園が「自然を模倣し調和を追求する」という哲学を根底に持ちながらも、その時代や地域の特性を反映して独自のスタイルを形成してきた歴史の延長線上にある。 中根は、日本の自然が持つ多様な表情を庭園の中に再現する「自然の写し」としての庭園を追求し、見る者に深い感動を与える空間を創り出したのだ。
彼が生きた昭和という時代は、日本社会が戦後の復興から高度経済成長期へと大きく変貌していく時期であった。都市化が進み、人々の生活様式も変化する中で、伝統的な日本庭園のあり方も問われるようになった。多くの名庭園が維持管理の困難に直面し、閉園に追い込まれるケースも少なくなかったという。 また、庭園を造る機会自体が減少し、伝統的な作庭技術の継承も課題となっていた。
このような状況において、中根金作の存在は際立っていた。彼は文化財庭園の保護に尽力する一方で、新しい時代にふさわしい庭園の創造にも意欲的に取り組んだ。例えば、大阪万国博覧会日本庭園(1970年) の作庭は、国際的なイベントを通じて日本庭園の魅力を世界に発信する機会となった。また、故郷である静岡県湖西市新居町地区では、新居文化公園の池泉庭園や浜名川緑道・親水公園など、地域に根ざしたまちづくりデザインにも参画している。 これらの公共空間の整備は、かつての富裕層や寺社が庭園の主なパトロンであった時代とは異なり、より多くの人々が日常的に庭園の美に触れる機会を提供するものであった。
彼は、庭園を単なる過去の遺産としてではなく、現代社会においても生き続ける「生きた文化」として捉え、その価値を再構築しようと試みたのである。その意味で、中根金作は、伝統を深く理解しつつも、現代的な課題に果敢に挑んだ、革新的な作庭家であったと言えるだろう。
中根金作が築き上げた庭園は、彼が逝去した1995年(平成7年)以降も、その多くが現代に生き続けている。彼の設立した中根庭園研究所は、長男である中根史郎氏、そして3代目となる中根行宏氏、直紀氏へと受け継がれ、その造園哲学と作庭手法は連綿と継承されている。 彼らは、古庭園の調査・保存修理に加え、現代的な課題である自然環境や自然景観の復元のための計画・設計にも取り組むなど、中根金作の遺志を継ぎながら、現代のニーズに応じた活動を展開している。
例えば、足立美術館庭園は、現在も「海外の日本庭園誌で10年以上1位を守り続けている」 と言われるほど、その美しさが国際的に評価され続けている。多くの観光客が訪れ、庭園の維持管理には多大な労力が費やされているが、その質の高さが来場者増に繋がり、結果として庭園のクオリティ維持に貢献している側面もある。 また、中根が作庭に携わった旧新居町の緑地公園は、地域住民が継続的に手入れを行い、庭園ガイドツアーなども開催されているという。 これは、中根が地域に深く根ざす場づくりを行った結果であり、庭園が人々の生活に息づいている証左と言える。
しかし、現代の日本庭園が直面する課題は少なくない。全国各地に数多く存在する日本庭園の多くが、維持管理の困難に直面し、毎年人知れず閉園に追い込まれる庭園もあるという指摘がある。 日常的な管理には国からの補助がほとんどなく、所有者が費用を捻出せざるを得ない現状は、特に個人所有の庭園にとって大きな負担となっている。 また、庭師や造園業界全体の後継者不足、日本国内での新規作庭の機会の減少、そして日本庭園そのものに対する価値意識の低下なども、喫緊の課題として挙げられている。 庭園は他の文化財とは異なり、日々変化していく「生きた空間」であるため、継続的な手入れが不可欠なのだ。
中根金作の残した仕事は、これらの課題に対する一つの示唆を与えている。彼は単に美しい庭を造るだけでなく、その庭が地域や人々にどのように受け継がれ、活用されるかという視点も持っていた。文化財の保護を通じて伝統を継承する一方で、公共空間の作庭を通じて、より多くの人々が庭園文化に触れる機会を創出したのである。彼の庭園が今も多くの人々に愛され、手入れされ続けているのは、その作庭が単なる造形美に留まらず、その土地や人々の暮らしに深く根ざしていたからではないだろうか。彼の生涯と作品は、現代の日本庭園が直面する維持と継承の課題に対し、伝統への深い敬意と、時代に合わせた柔軟な発想の重要性を教えてくれる。
中根金作という一人の庭師の生涯と作品を辿ると、日本庭園が単なる空間の造形物ではなく、歴史と文化、そして自然が織りなす「時間の層」を内包していることが見えてくる。彼は、飛鳥時代から続く造園の系譜を深く学び、平安時代の「作庭記」に記された思想や、室町時代の枯山水、江戸時代の回遊式庭園といった多様な様式を自身の血肉とした。その上で、激動の昭和という時代において、失われゆく古庭園の保存に尽力し、同時に現代的な感性で新たな庭園を創り出した。
彼の作庭は、過去の模倣に終わらない。足立美術館庭園がそうであるように、その土地固有の自然景観を巧みに取り込み、周囲の環境と一体となった壮大な「借景」を創り出す手腕は、伝統的な作庭技術の深い理解と、現代的な視点の融合によって生まれたものだ。また、海外での作庭活動は、日本庭園の美意識が国境を越え、普遍的な価値を持つことを証明した。彼は、日本の風土に育まれた庭園文化を、異文化圏の人々にも理解できるよう、その本質を抽出し、再構築する役割を担ったのである。
「昭和の小堀遠州」と称された中根金作の仕事は、庭師という存在が、単なる職人ではなく、歴史家であり、哲学者であり、そして未来の景観を創造する芸術家であることを示唆している。彼の庭園は、一見すると静かで完成された風景に見えるが、その中には何世紀にもわたる日本人の自然観、美意識、そして人々の営みが凝縮されている。庭に立つとき、私たちはその空間の美しさだけでなく、その背後にある深い時間の層と、それを現代に繋ぎ止めた一人の庭師の確かな手仕事を感じ取ることができるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。