2026/6/27
伊賀焼の「破格の美」は、土と炎の偶然が生むのか?

伊賀焼について詳しく知りたい。どういう特徴があるのか?
キュリオす
伊賀焼の独特な肌合いやビードロ釉は、古琵琶湖層の土と高温焼成によるもの。桃山時代の茶陶から現代の土鍋まで、その特徴と信楽焼との違いを辿る。
炎と土の呼応、伊賀焼の肌理
伊賀の山里に足を踏み入れると、どこか素朴で力強い気配が漂っている。豊かな緑と、その中に点在する瓦屋根の集落。ここでは古くから「伊賀焼」が育まれてきた。陶器の表面に現れる焦げや、溶け流れたガラス質の「ビードロ釉」、そしてざらりとした土の肌合い。これらを見ていると、作為的な美しさとは異なる、炎と土が織りなす偶然の景色に引き込まれる。なぜ伊賀の地で、これほどまでに野趣に富んだ焼き物が生まれたのか。その特徴は、単なる偶然ではなく、この土地の持つ自然条件と、人の手が加わった歴史の積み重ねによって形成されてきたものだろう。
桃山茶陶の時代まで
伊賀焼の歴史は古く、奈良時代にまで遡るとされる。この頃は主にすり鉢や壺、甕といった日常雑器が焼かれていた。三重県伊賀市丸柱や槙山周辺の窯跡からは、初期の陶器片が発見されている。伊賀焼がその個性を確立し、日本陶磁史において重要な位置を占めるようになるのは、室町時代末期から桃山時代にかけての「茶陶」の隆盛期である。
天正12年(1584年)に伊賀領主となった筒井定次、そしてその後を継いだ藤堂高虎、高次の時代には、茶の湯文化の指導者であった古田織部らの影響を受け、豪放で力強い茶陶が盛んに焼かれるようになった。 これらは「古伊賀」と総称され、水指や花入などが主な作品であった。この時代の古伊賀は、作為的に歪ませた形や、ヘラで施された波状の文様、格子状の押し型文様、そして焼成中に偶然に生じる焦げや灰かぶり、緑色のビードロ釉といった意匠が特徴的である。 これら破格の美意識は「織部好み」とも評され、茶人たちに高く評価された。 作家の川端康成もノーベル賞受賞講演で「わび・さび」を代表する焼き物として古伊賀を取り上げ、その美しさを絶賛している。 古伊賀の作品の中には、現在でも国の重要文化財に指定されているものや、多くの美術館・博物館に収蔵されているものがある。
しかし、桃山時代が終わると伊賀焼の生産は一時衰退する。 その後、18世紀中頃の江戸時代に藤堂藩の支援を得て、日常雑器を中心に再び丸柱で焼き物が作られ始めた。 この時期には弥助や定八といった陶工が活躍し、現在の伊賀焼の基礎が築かれたのだ。
古琵琶湖層の土と「七度焼」
伊賀焼の持つ独特の表情は、その土と焼成方法に深く根ざしている。伊賀地方の土は、およそ400万年前、現在の琵琶湖が伊賀の位置にあったとされる「古琵琶湖」の湖底に堆積した地層から採掘される。 この古琵琶湖層の粘土には、植物や微生物の化石など、有機物が豊富に含まれている点が特徴だ。
この土を高温で焼成すると、土中の有機物が燃え尽き、細かな気孔が無数に開く「ポーラス(多孔質)」な状態になる。 この多孔質性が、伊賀焼の優れた耐火性と蓄熱性をもたらす。特に土鍋においては、火から下ろした後も熱が冷めにくく、じっくりと食材に熱を伝えることができるため、調理器具として非常に適していると評価されている。 日本で土鍋にできるほどの高い耐火性を持つ陶土は、伊賀の土のみと言われるほどである。
また、伊賀焼の焼成には、大量の薪を燃料とする登り窯が用いられる。 窯の中で高温で長時間焼かれることで、薪の灰が器の表面に降りかかり、溶けてガラス状になることがある。これが青緑色の「ビードロ釉」と呼ばれる自然釉である。 さらに、炎の当たり具合や灰の付着によって、器肌に黒い焦げや「灰かぶり」、あるいは「石はぜ」と呼ばれる小石が弾けてできる跡など、多様な「窯変」が生じる。 これらの景色は、一見すると偶然の産物に見えるが、熟練した陶工は、灰の落ち方や炎の通り道を想定し、意図的にこれらの表情を引き出すように焼成を行うという。 「伊賀の七度焼」という言葉が示すように、高温で何度も焼成を繰り返すことで、土は硬く引き締まり、力強い肌合いが生まれる。 しかし、この過程で窯の中で壊れてしまう作品も多く、完成品として取り出せるものはごくわずかだ。
信楽との対比、隣接する個性
伊賀焼の産地である三重県伊賀市と、滋賀県の信楽町は地理的に隣接しており、ともに古琵琶湖層から採れる陶土を使用している。 このため、初期の伊賀焼と信楽焼は、擂鉢や甕、壺といった日用雑器を中心に、作風に大きな差はなかったとされる。 しかし、桃山時代以降、両者は異なる道を歩み、独自の個性を確立していった。
信楽焼は、奈良時代に須恵器の技術を持つ渡来人によって瓦や土管が製造されたことに始まるとされ、開窯以来、一貫して日用雑器を主体として焼き続けてきた歴史を持つ。 その土は荒く、小石が多く混ざり、焼き上がりの肌はより粗い印象を与える。 自然釉の緑色は黒味を帯びるものが多いとも言われる。
一方、伊賀焼は桃山時代に茶陶としての需要が高まり、領主の筒井定次や藤堂高虎といった武将茶人の指導のもと、明確な作意を持った茶器が作られるようになった。 この点が、日用雑器を主としてきた信楽との大きな分岐点であった。伊賀焼は信楽焼に比べて硬く重みがあり、特に「古伊賀」の茶陶には「耳」と呼ばれる一対の取っ手が付いていることが特徴とされる。 「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」という言葉は、両者を区別する際の目安とされてきた。 また、伊賀のビードロ釉は、より鮮やかな緑色を呈すると評されることもある。
両者ともに土と炎が織りなす「窯変」を魅力とするが、伊賀焼においては、歪みや焦げ、ヘラ目といった作為的な意匠が強く意識され、破格の美意識が追求された。対して信楽焼は、より自然な窯変を重視し、土そのものの素朴な風合いを活かした作風が中心であったと言える。
現代の食卓と窯元
現代の伊賀焼は、桃山時代の茶陶の系譜を受け継ぎながらも、その優れた耐火性と蓄熱性を活かした日用食器、特に「土鍋」や「行平(ゆきひら)鍋」が主流となっている。 伊賀市丸柱地区には、江戸時代後期創業の「長谷園」をはじめとする多くの窯元が点在し、今も活発な作陶が続けられている。
長谷園には、天保3年(1832年)の創業から昭和40年代まで実際に使われていた「16連房旧登り窯」が現存しており、国の登録有形文化財にも指定されている。 この巨大な窯は、かつて15日から20日かけて焚き上げられ、膨大な量の薪が消費されたという。 現在の窯元では、伝統的な登り窯の技術を守りつつも、ガス窯や電気窯を併用し、現代のライフスタイルに合わせた製品開発にも力を入れている。 例えば、長谷園の「かまどさん」は、火加減いらずで美味しいご飯が炊ける土鍋として広く知られている。
伊賀焼の窯元では、茶陶から受け継がれた「使う人への心遣い」を大切にしながら、料理を引き立てる器づくりを目指している。 春には「新緑伊賀焼陶器市」、秋には「伊賀焼陶器まつり」が開催され、多くの人々が伊賀焼の魅力を求めて訪れる。 窯元によっては、作陶体験や絵付け体験ができる場所もあり、伊賀焼の土に触れる機会も提供されている。
炎が刻む「作為」の景色
伊賀焼の器を手に取ると、土の粗さ、焦げの深さ、そしてビードロ釉の流れるさまが、まるで自然が作り出したかのような景色を見せる。しかし、その背後には、茶の湯という特定の文化が求める美意識と、それを実現しようとした陶工たちの「作為」が存在する。
古伊賀の時代において、武将茶人たちは、作為的に歪ませたり、ヘラで紋様をつけたりすることで、器に人間的な手跡と力強さを与えた。そして、その器を高温の窯に入れ、薪の灰が降りかかり、炎が荒々しく器を焼き締める中で生じる「偶然」の窯変を、さらに「景色」として見立て、愛でたのだ。これは、自然の力を借りながらも、その偶然性を積極的に取り込み、美として昇華させるという、極めて意識的な営みであったと言える。
現代の伊賀焼が土鍋として広く用いられるのも、単に耐火性や蓄熱性が高いという機能的な側面だけでなく、炎が刻んだ焦げや土の表情が、食卓に素朴ながらも深みのある景色をもたらすからではないだろうか。伊賀焼の持つ「破格の美」は、土と炎という根源的な要素に、人の手が加える作為と、その結果生まれる偶然性が複雑に絡み合い、それぞれの時代で異なる形を見せてきた。その力強く、それでいてどこか静謐な表情は、今も器を使う人々の想像力を刺激し続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 伊賀焼(いがやき)の特徴 や歴史- KOGEI JAPAN(コウゲイジャパン)kogeijapan.com
- 伊賀焼の魅力 | 伊賀焼 – 伊賀焼振興協同組合igayaki.or.jp
- 伊賀焼の歴史 | 長谷園だより~土鍋のある暮らし~nagatanien.life
- 伊賀焼(いがやき)・古伊賀とは|破格な美意識とも呼ばれる陶器の歴史や特徴touji-gvm.com
- 伊賀焼 — Google Arts & Cultureartsandculture.google.com
- 伊賀焼とは。土鍋におすすめな理由を、特徴と歴史に知る | 中川政七商店の読みものstory.nakagawa-masashichi.jp
- 「伊賀焼」とは? 特徴や魅力、窯元や陶器市情報 – Narrative Platformnarrative-platform.com
- 「伊賀焼とは」をざっくりと紹介 - 遊水堂yusuikogei.com