2026/6/23
甲府城の天守はなぜ上がらなかった? 豊臣・徳川時代の政治的意図と石垣の謎

甲府城について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
甲府城は豊臣秀吉が徳川家康を牽制するために築かせた。その後、徳川幕府の西の要衝となったが、壮大な天守台に天守が上がらなかった理由は諸説ある。本記事では、石垣や出土品からその政治的意図と城の変遷を辿る。
石垣が語る、甲斐の国の変遷
甲府駅の南口に立つと、まず目に飛び込むのは、駅前の広大な敷地にそびえる石垣の連なりだ。かつて甲府城が威容を誇ったこの場所は、今や「舞鶴城公園」として市民に開かれている。しかし、この城の歴史をたどると、単なる地域のシンボルではない、戦乱の時代が生んだ複雑な意図が見えてくる。なぜ、武田氏滅亡後の甲斐の地に、これほど大規模な近世城郭が築かれる必要があったのか。そして、その天守台に、なぜ天守が上がらなかったのだろうか。目の前にある石垣は、その問いへの手掛かりを静かに提示している。
豊臣が築き、徳川が継いだ地の記憶
甲府城の築城は、天正10年(1582年)に武田氏が滅亡した後の甲斐国の激動期に始まる。武田氏が長きにわたり支配したこの地は、織田信長の領国となった直後、本能寺の変によって再び空白地帯と化した。その後、徳川家康が甲斐を領有し、家臣の平岩親吉に一条小山(現在の甲府城跡)の縄張りを命じたとされるが、本格的な築城には至らなかったようだ。
転機が訪れたのは、豊臣秀吉が天下統一をなし遂げ、徳川家康を関東に移封させた天正18年(1590年)以降のことである。秀吉は、関東に封じた家康を牽制するため、その西方に位置する甲斐国を重要な戦略拠点と見なし、甥の羽柴秀勝、次いで腹心の部下である加藤光泰に甲府城の築城を命じた。しかし、秀勝は短期間で転封となり、本格的な工事は加藤光泰の時代に始まったとされる。光泰が文禄の役で病没すると、浅野長政・幸長父子が甲斐に入り、築城工事を引き継いで、本丸・二の丸を中心とする主要部が文禄3年(1594年)頃にはほぼ完成したと考えられている。
この時期の甲府城は、豊臣政権下における「純粋な豊臣系城郭」として、徳川家康を封じ込める最前線の役割を担っていた。発掘調査では、浅野家の家紋瓦に加え、金箔や朱が施された瓦、豊臣家の家紋瓦が出土しており、当時の城が豪華な装飾を施されていたことがうかがえる。これは単なる防御施設ではなく、豊臣政権の権威を示す政治的な意味合いも強かったのだろう。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、甲斐国は再び徳川氏の支配下に入った。甲府城は今度は江戸城の西を守る重要な拠点となり、将軍家の一門が城主を務める特別な城として位置づけられた。徳川義直(家康の九男)、徳川忠長(二代将軍秀忠の次男)、徳川綱重、徳川綱豊(後の六代将軍家宣)といった徳川一族が歴代城主となり、その重要性が示された。
宝永元年(1704年)には、五代将軍徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保が甲府藩主となり、その子吉里へと続く約20年間、甲府城と城下町は最も整備され、大きく発展した。しかし、享保9年(1724年)に柳沢氏が大和郡山へ転封されると、甲斐国は再び幕府直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下に置かれた。その後、享保12年(1727年)の大火で本丸御殿や銅門などが焼失し、その壮麗な姿は次第に失われていったとされる。
明治維新後の明治6年(1873年)には廃城令により城内の建物は全て取り壊され、城域の一部は鉄道敷地や県庁舎、勧業試験場などに転用されることになった。広大な城郭は、時代の波に飲まれてその姿を大きく変えざるを得なかったのだ。
政治的意図と地形が織りなす縄張り
甲府城がこの地に築かれた背景には、当時の緊迫した政治情勢と、甲府盆地の地理的条件が深く関係している。一条小山と呼ばれる独立した丘陵地を利用した「平山城」として築かれた甲府城は、甲府盆地の北部に位置し、要衝である甲州街道を守る上で極めて重要な地点であった。
豊臣秀吉が家康を関東に封じ込めた後、その西の備えとして甲府城を築かせたことは、単なる防御施設の建設以上の意味を持っていた。それは、関東の徳川家康に対する豊臣政権の「力の誇示」であり、甲斐国を介した東国への影響力を確保するための戦略的な一手であった。甲斐は、豊臣政権にとって家康を監視し牽制する最前線であり、物資流通にも厳しい監視がなされていたという。
城郭の構造も、この戦略的な意図を色濃く反映している。甲府城の縄張りは、本丸を中心に、天守曲輪、稲荷曲輪、数寄屋曲輪、鍛冶曲輪といった複数の曲輪が階層的に配置された「梯郭式」の平山城である。特に注目されるのは、築城期に整備されたとされる高さ10メートル級の「野面積み」の石垣が城内各所に良好に残されていることだ。自然石をそのまま、または割って積む野面積みは、当時の最先端の石垣技術であり、豊臣系大名が導入した西国系の築城技術が用いられた証左ともいえる。
また、甲府城には大きな「天守台」が存在するにもかかわらず、天守が実際に建てられていたかどうかについては、長らく研究者の間で議論があった。しかし、天守台の下から天守の屋根を飾る鯱瓦の破片が出土し、その大きさから推定される鯱の存在が、天守が建っていた可能性を強く示唆している。金箔瓦の出土と合わせ、たとえ天守が短期間で失われたとしても、当初は壮大な天守が計画され、あるいは一時的に存在したことで、豊臣政権の権威を象徴する役割を担っていた可能性は高い。
江戸時代に入ると、甲府城の役割は一変する。徳川幕府にとって甲府は、江戸の西の守りとして、また徳川一門の重要な拠点として位置づけられた。甲府城は、江戸へと続く甲州街道の要衝であり、西国からの脅威に備えるための重要な軍事拠点であり続けたのだ。城主が将軍家の子弟や有力な譜代大名に限定されたことも、その重要性を物語っている。
権力の象徴と実用性の狭間で
甲府城の歴史と構造を他の城郭と比較すると、その特異な性格がより明確になる。例えば、武田氏の居館であった「躑躅ヶ崎館」や、戦国末期に築かれた「新府城」は、土塁と堀を主体とした山城や居館であった。これに対し、甲府城は、高石垣を多用した近世城郭であり、防御力だけでなく権威を示す「見せる城」としての性格が強い。これは、織豊政権期に全国各地で築かれた大規模城郭、特に徳川家康を牽制するために築かれた会津若松城や駿府城、掛川城などと共通する特徴を持つ。これらの城は、当時の最新技術を投入し、広大な石垣や壮麗な天守を備えることで、豊臣政権の圧倒的な力を示そうとしたものだった。
しかし、甲府城には他の近世城郭と比較して、顕著な違いも存在する。それは「天守の不在」という点である。天守台は立派に残されているものの、確固たる文献史料によって天守の存在が証明された例は少ない。これは、同時期に築かれた名古屋城や大阪城、あるいは江戸城といった、政権の中枢を担う大規模城郭が、その威容を象徴する巨大な天守を築いたのとは対照的である。
この天守の不在は、甲府城が置かれた特殊な政治的状況を反映していると解釈できる。甲府城は、豊臣政権下では対徳川の最前線であり、徳川政権下では江戸の西の守りという、常に「前線基地」としての役割が求められた。そのため、城主が頻繁に入れ替わり、また幕府直轄地となる期間も長かった。居城としての機能以上に、軍事・政治的な実用性が重視された結果、象徴としての天守よりも、強固な石垣や曲輪配置といった防御機能が優先されたのかもしれない。あるいは、築城途中で政権が交代したため、天守の建設が頓挫した可能性も考えられるだろう。
また、甲府城は江戸時代を通じて、将軍家一門や有力譜代大名が城主を務める「親藩の城」としての性格が強かった。これは、他の大名が治める城とは異なり、幕府の中央集権的な支配体制の中で特別な位置を占めていたことを意味する。例えば、同じく徳川親藩の城である水戸城や和歌山城と比較すると、甲府城はより直接的に江戸の防衛ラインの一部として機能し、その戦略的な重要性が常に意識されていたと言える。
このように、甲府城は豊臣政権の対徳川戦略の最前線として築かれ、その後、徳川幕府の西の要衝として機能し続けた。その構造と運命は、日本の近世城郭の中でも独特の立ち位置を示しており、権力の象徴と実用性の間で揺れ動いた時代の様相を映し出している。
現代に蘇る石垣の城
甲府城の跡地は、明治時代に廃城となり、その多くが失われた後、明治37年(1904年)に「舞鶴城公園」として一般に開放された。現在、JR甲府駅の南側に広がるこの公園は、市民や観光客にとって憩いの場となっている。
園内には、築城当時の姿を伝える壮大な石垣が随所に残されている。特に、本丸の東端に残る天守台は、その高さと広さで訪れる者を圧倒する。天守台からは甲府盆地を一望でき、遠くには富士山や南アルプスの山々が望める景観は、「関東の富士見百景」にも認定されている。
平成に入ってからは、甲府城跡の整備事業が本格的に進められてきた。発掘調査の成果と歴史資料に基づき、失われた建物の一部が木造で忠実に復元されている。例えば、稲荷曲輪に位置する「稲荷櫓」は平成16年(2004年)に、本丸南正面の「鉄門(くろがねもん)」は平成25年(2013年)に、それぞれ復元された。これらの復元された門や櫓は、当時の堅固な城郭の姿を現代に伝え、訪れる人々に歴史を肌で感じる機会を与えている。
しかし、城域の全てが公園として残されているわけではない。かつて20ヘクタールにも及んだ広大な城郭は、明治以降の都市開発の中で、JR中央線の線路や山梨県庁、防災新館などの公共施設、そして市街地の一部へと姿を変えている。一部の石垣はコンクリート積みや間地積みへと改変された箇所も見られ、本来の姿から変化した部分も少なくない。それでも、残された石垣や復元された建造物は、甲府城が果たした歴史的な役割や、甲府のまちの発展にどのように関わってきたのかを再認識させる貴重な存在である。
公園内には観光ボランティアガイド「甲府城御案内仕隊」が活動しており、訪れる人々に甲府城の歴史と見どころを無料で案内している。かつての軍事拠点であり、政治の中心であった城は、今や地域の歴史と文化を伝える開かれた場所として、その姿を変えながら存在し続けているのだ。
見えない天守と残された石垣の問い
甲府城の物語は、単に一つの城の興亡を語るだけではない。それは、戦国の終焉から江戸時代へと続く日本の政治構造の変遷を映し出す鏡のようなものだ。豊臣秀吉が徳川家康を牽制するために築かせたという初期の目的から、徳川幕府の西の要衝としての役割へと転換した経緯は、中央政権の力の動きに地方がどう翻弄され、あるいは適応していったかを示す具体的な事例である。
特に印象的なのは、壮大な天守台が存在するにもかかわらず、天守が実際に建っていたかどうか、あるいはどのような姿であったのかが、いまだ明確でないという点だろう。これは、他の多くの城がその威容を誇る天守を再建、あるいは想像で補完する中で、甲府城が持つ「見えない天守」という特性を際立たせている。金箔瓦や巨大な鯱瓦の破片といった考古学的発見が、かつての壮麗さを想像させる一方で、確かな記録の不在は、この城が常に流動的な政治状況の中で、その姿を確立しきれなかったことを示唆しているようにも思われる。
甲府城は、完成された美しさや永続性を追求するよりも、むしろその時々の政治的・軍事的な要請に応えるための「機能」として存在したのではないか。関東の徳川家康に対する警戒、江戸の西の防衛、そして将軍家一門の居城としての役割。これらは全て、特定の時代における必要性から生まれたものであり、その役割の変化とともに城の性格も変容していった。
現代の舞鶴城公園に残る石垣の連なりは、そのような激動の歴史を静かに見つめてきた。野面積みの荒々しさと、その上を覆う現代の緑、そして遠くに見える富士山の姿は、過去と現在が交錯する甲府の風景を象徴している。この城は、見えない天守の問いを投げかけながら、今もなお、訪れる人々に歴史の深淵を問い続けているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。