2026/6/14
札幌はなぜ「五州第一の都」を目指し、計画都市として発展したのか

札幌の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
明治政府が北方防備と国力増強の拠点として札幌に「五州第一の都」の構想を描いた経緯を辿る。計画都市としての成り立ち、地理的優位性、産業育成、交通インフラ整備が、わずか150年で主要都市へと押し上げた要因を解説する。
整然とした街並みが語りかけるもの
札幌の街を歩くと、整然と区画された道路と、その両側に並ぶ近代的なビル群が目に飛び込んでくる。碁盤の目のように広がる市街地は、日本の多くの古都が自然発生的に発展してきたのとは一線を画す。この秩序だった風景は、計画都市としての札幌の特異な成り立ちを雄弁に物語っているようだ。明治以降、わずか150年余りの間に、かつて「2戸7人」と記録された原野が、日本の主要都市の一つへと変貌を遂げたのはなぜか。その背景には、国の政策と、北の大地の地理的条件、そして多くの人々の思惑が複雑に絡み合っていた。この急速な発展の軌跡をたどることは、単なる地方都市の歴史を知るだけでなく、日本の近代化そのものの縮図を見ることに等しい。
開拓使が描いた「五州第一の都」
札幌がその産声を上げたのは、明治維新直後の1869年(明治2年)に「蝦夷地」が「北海道」と改称され、開拓使が設置されたことに始まる。それ以前の札幌は、現在の豊平橋付近にわずか二家族七人の和人が定住する程度の原野に過ぎなかったのだ。 新政府は、欧米列強に対抗するための国力増強と北方防備の拠点として、北海道の本格的な開拓を国家の最重要課題と位置づけた。当初、北海道の中心は函館であったが、広大な北海道全域を統治するには南に偏りすぎていると判断され、石狩平野の中央部に位置する札幌が新たな本府建設地に選ばれた。
開拓使の主席判官として札幌本府建設を命じられたのは、佐賀藩出身の島義勇であった。 彼は1869年冬、円山の小高い丘から広大な石狩平野を見渡し、「他日五州第一の都」となることを予言したという。 島義勇は、京都を模したとも言われる碁盤の目状の壮大な都市計画を立案した。創成川を境に東西を分け、幅の広い大通公園を南北に走らせるという構想は、現在の札幌の都市骨格の原型となっている。 しかし、彼の理想は現実的な予算と衝突し、わずか2ヶ月で更迭されることとなる。
島の構想は、その後、開拓次官(のち長官)となる黒田清隆や、ホーレス・ケプロンら「お雇い外国人」によって引き継がれ、具体化されていった。 黒田清隆は、10年間で1000万円という大規模な予算を投入する「開拓使10年計画」を建議し、アメリカの農務局長であったケプロンを顧問として招いた。 ケプロンは、北海道の気候風土に適した西洋式農業の導入を提言し、ジャガイモ、タマネギ、小麦、リンゴなど、さまざまな品種がアメリカから輸入された。 また、酪農技術の導入のためエドウィン・ダンを招き、牛の飼育やバター・チーズの加工技術が伝えられた。 1876年(明治9年)には、札幌農学校(現在の北海道大学)が開校し、クラーク博士が教頭として着任。「Boys, be ambitious」の言葉とともに、開拓技術者の育成と洋式農法の普及に大きな役割を果たした。 このように、札幌の歴史は、明治政府による強力な中央主導型開発と、西洋の先進技術・知識を積極的に取り入れた政策によって始まったのである。
計画と地理が織りなす都市
札幌が急速に発展を遂げた背景には、いくつかの要因が複合的に作用している。まず、明治政府による徹底した計画都市としての建設が挙げられる。函館や小樽といった港町が自然な経済活動の中で発展したのに対し、札幌は明確な意図と設計図のもとにゼロから作り上げられた都市であった。 創成川を境に官庁街と商業地を分け、防火帯としての役割も兼ねた大通公園が設けられ、整然とした碁盤の目状の区画は、その後の都市拡大の基盤となった。
次に、その地理的優位性である。札幌は北海道最大の平野である石狩平野の南西部に位置し、比較的平坦な土地が広がっていた。 これは大規模な都市建設に適しており、将来的な市街地の拡張余地も大きかった。また、豊平川から水が引かれ、農業用水や生活用水の確保に有利であった点も重要である。
さらに、農業を基盤とした産業育成も発展の大きな原動力となった。開拓使は、ケプロンらの指導のもと、北海道の気候に適した西洋式農業を導入し、大規模な農地開墾を進めた。 特に、明治初期の主要な担い手となったのが、開拓と北方警備を兼ねた「屯田兵」である。 1875年(明治8年)の琴似への入植を皮切りに、屯田兵たちは札幌周辺の原野を開墾し、近代的な農業技術を導入しながら、地域の食糧生産を支えた。 彼らの入植は、単なる農地開発に留まらず、地域社会の形成にも寄与した。加えて、開拓使は製材、木工、麦酒醸造(現在のサッポロビールの源流)、製糖、味噌醤油製造など、多岐にわたる官営工場を建設し、産業の振興を図った。 これらの工場は、水車や最新鋭の蒸気エンジンを動力とし、創成川の舟運や豊平川の流水を工業用水として活用した。
そして、交通インフラの整備が都市の成長を加速させた。1880年(明治13年)には札幌と小樽(手宮)を結ぶ道内初の鉄道が開通し、物資輸送の効率化と人的交流の活性化に貢献した。 この鉄道は、札幌の東西の区画割りに合わせて敷設され、札幌駅の開設は、その後の駅前通りの発展につながる重要な転換点となった。 こうした計画的な都市づくり、恵まれた地理的条件、そして政府主導による産業と交通の整備が、札幌を短期間で北海道の中心都市へと押し上げたのである。
「人工都市」が持つ特異性
日本の多くの都市は、港や城下町、あるいは寺社の門前町として、長い時間をかけて自然にその形を成してきた。京都や奈良のような古都は千数百年の歴史を持ち、東京も江戸時代からの歴史的蓄積の上に成り立っている。これに対し、札幌の都市形成は極めて特異である。明治政府の政策によって、ほぼゼロの状態から「作られた」都市、いわば「人工都市」としての性格が強い。
例えば、京都の市街地が鴨川と東山・西山の地理的制約の中で発展し、碁盤の目状の区画も自然な拡張と改変を繰り返してきたのに対し、札幌の碁盤の目状の街路は、明治初期の開拓使による明確な計画と設計図に基づいて敷かれたものである。 この「計画性」は、札幌の都市構造の根幹をなし、その後の発展にも大きな影響を与えた。都市計画の専門家が描いた理想像が、ほぼそのまま現実の街として具現化された稀有な例と言える。
また、他の開拓地と比較しても、札幌の発展は際立っている。同じ北海道内の函館は、江戸時代末期に開港し、国際貿易港として早くから栄えた都市であった。 小樽もまた、明治以降の北海道経済の中心地として急成長を遂げた港町である。 しかし、これらの都市が商業や漁業を主軸に発展したのに対し、札幌は行政、農業、工業、教育といった多角的な機能を最初から持ち合わせた「北海道全体の拠点」として設計された。開拓使が函館から札幌に本庁を移したこと自体が、札幌が北海道の中央行政拠点となることを決定づけた出来事であった。
さらに、札幌の発展を支えたのが、大規模な官営事業の展開である。開拓使は、ビール醸造所、製糖工場、製糸工場など、多岐にわたる官営工場を札幌に集中させた。 これは、民間資本が未熟な開拓初期において、政府が主導して産業を興し、都市の経済基盤を築き上げるという、他の地域ではあまり見られない強力な介入であった。これらの官営事業は、後の民間企業の発展の礎となり、札幌経済の多様性を生み出すことになった。
このように、札幌の歴史は、中央政府の明確な意思、西洋の近代技術の導入、そして特定の地理的条件が結びつき、短期間で大規模な都市を形成した点で、日本の他の都市とは一線を画する。その「人工的」な成り立ちは、都市のアイデンティティにも深く刻まれていると言えるだろう。
現代に息づく開拓の遺産
現在の札幌は、人口約190万人を擁する北海道最大の都市であり、政令指定都市として、東京、横浜、大阪、名古屋に次ぐ全国5番目の人口規模を誇る。 街の中心部には、明治初期の開拓の息吹を今に伝える歴史的建造物が点在している。札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)は1878年(明治11年)に完成し、現在も札幌の象徴として親しまれている。 北海道庁旧本庁舎(通称「赤れんが庁舎」)もまた、開拓使本庁舎の跡地に建てられ、北海道の歴史を見守ってきた。 これらの建物は、札幌が計画都市として歩み始めた頃の面影を色濃く残している。
1972年(昭和47年)に開催された札幌冬季オリンピックは、札幌の都市発展におけるもう一つの大きな転換点となった。 この大会を契機に、地下鉄や地下街などの都市基盤が飛躍的に整備され、都心部では中高層ビルが相次いで建設されるなど、街の様相は大きく変化した。 オリンピックは札幌を国際都市として世界に知らしめ、ウィンタースポーツの振興にも寄与した。
現代の札幌は、観光都市としての魅力も高めている。札幌雪まつりは世界的に有名となり、夏は涼しい気候を求めて多くの観光客が訪れる。 食の宝庫としても知られ、開拓時代に導入された農業技術が、今日の豊かな農畜産物や乳製品の基盤となっている。 北海道大学の広大なキャンパスは、かつての札幌農学校の歴史を受け継ぎ、学術の中心としての役割を果たしている。
一方で、他の大都市と同様に、札幌もまた人口減少や高齢化といった課題に直面している。 1970年代に整備された都市インフラの老朽化も進み、更新が求められている状況だ。 こうした中で、札幌市は「持続可能な世界都市」を目指し、都市計画マスタープランを策定し、既存の都市基盤を有効活用したまちづくりを進めている。 都心部の再開発も活発に進められ、札幌駅周辺と大通周辺の二つの商業核の連携を強化し、魅力ある都心空間の創出が図られている。 歴史的な建造物の保存と、新たな都市機能の創出という二つの側面から、札幌は今も進化を続けているのだ。
計画された街が問い続けるもの
札幌の歴史をたどると、一つの問いが浮かび上がる。それは「都市はどこまで計画しうるのか」という問いである。多くの都市が時を経て自然に形作られてきたのに対し、札幌は明確な意図と設計図のもと、明治政府の強力なリーダーシップによって創られた。 この「人工都市」としての性格は、整然とした街並みや、開拓使時代から受け継がれる産業構造、そして国際都市としてのアイデンティティに深く刻まれている。
しかし、その計画性の中にも、予期せぬ発展や変化の要素が常に存在した。例えば、当初は行政の中心として設計された札幌が、その後の経済発展の中で、函館や小樽といった港町を凌駕し、北海道全体の経済的中心へと成長していった経緯がある。 これは、単なる計画以上の、地理的条件や人々がもたらした活力が作用した結果と言えるだろう。
また、札幌の歴史は、日本の近代化における「フロンティア」の役割を考える上で重要な視点を提供する。北海道開拓は、明治政府が富国強兵を推し進める中で、欧米の技術を導入し、新たな産業を育成する実験場でもあった。札幌はその最前線であり、西洋式の農業、工業、教育が導入され、日本の近代化の縮図がそこに凝縮されていた。
札幌の街は、今もその計画された骨格を保ちながら、時代とともに変化し続けている。碁盤の目状の区画の中に、近代的なビルが立ち並び、地下には広大な空間が広がる。 この都市の姿は、過去の計画と現在の生活、そして未来への模索が交錯する様を静かに示している。札幌の歴史は、都市が単なる物理的な構造物ではなく、常に変化し、成長し続ける有機体であることを、私たちに問いかけているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。