2026/6/5
群馬・桐生はなぜ「織物の町」として栄えたのか

群馬の桐生の歴史について詳しく知りたい。西の西陣、東の桐生。
キュリオす
群馬県桐生市は、奈良時代から続く織物産業の歴史を持つ。赤城山麓の気候と渡良瀬川の水という自然条件に加え、江戸時代の幕府奨励、明治以降の技術革新と産業集積が、この地を「西の西陣、東の桐生」と称される一大産地へと発展させた。
群馬県桐生市を訪れると、市街地のあちこちに古い鋸屋根の工場や、レンガ造りの重厚な建物が目に入る。近代建築の隙間に、土蔵造りの商家がひっそりと佇む光景も珍しくはない。ここがかつて「西の西陣、東の桐生」と称された織物の町であることを、その建物群は雄弁に語りかけてくるようだ。なぜ、この関東平野の北端、赤城山と渡良瀬川に挟まれた土地で、これほどまでに織物産業が隆盛を極めたのか。その問いは、桐生の歴史を紐解く上で避けて通れない出発点となるだろう。
桐生における織物の歴史は古く、奈良時代にまで遡ると言われている。正倉院文書には、すでに「あしぎぬ」と呼ばれる絹織物が献上されていた記録があるという。この地域が織物生産に適していた背景には、複数の自然条件が重なり合っていた。まず、赤城山から吹き下ろす「赤城おろし」と呼ばれるからっ風は、養蚕に欠かせない桑の栽培に適した乾燥した気候をもたらした。また、渡良瀬川の清らかな水は、糸の精練や染色の工程に不可欠だった。江戸時代に入ると、桐生織は幕府の保護を受け、将軍家への献上品としてその名を高めていく。特に、享保年間には幕府による「上州絹」の奨励策が打ち出され、桐生は高級絹織物の産地として確固たる地位を築いた。この時期には、京都の西陣織の技術も積極的に導入され、高度な紋織りや金襴・緞子といった多彩な織物が生産されるようになったと言われている。
明治維新は、桐生織物産業に大きな転換点をもたらした。廃藩置県により幕府の庇護を失ったものの、新政府による殖産興業政策のもと、近代化の波に乗ることになる。1877年(明治10年)には、日本初の織物専門学校である「桐生新町織物学校」(現在の群馬大学工学部)が設立され、技術者の育成と研究開発が進められた。また、横浜港が国際貿易港として開港されたことで、桐生で生産された生糸や絹織物は海外へと輸出され、外貨獲得の重要な役割を担った。この時期、手織りから力織機への転換が進み、工場制手工業から近代的な機械制工業へと移行していった。電気や蒸気機関の導入により生産効率は飛躍的に向上し、桐生は日本の近代化を象徴する産業都市へと発展していったのである。
桐生が織物産業で特別な地位を築いたのは、単に古くからの歴史や自然条件だけでなく、その時代ごとに求められる技術を積極的に取り入れ、独自の発展を遂げてきた点にある。江戸時代には、京都西陣の技術を導入し、複雑な紋様を織り出す「先練先染(さきねりさきぞめ)」の技術を確立した。これは、糸を先に染めてから織ることで、深みのある色彩と繊細な柄を表現する高度な技術である。明治期には、福沢諭吉の教えを受けたとされる金井弁太郎や、海外で機械織技術を学んだ森山芳平といった先駆者たちが、力織機やジャカード織機を導入し、生産性の向上と品質の安定化に貢献した。
さらに、桐生には織物生産に関わる様々な産業が集積していたことも、その繁栄を支えた大きな要因である。養蚕から製糸、染色、織布、そして加工・販売に至るまで、全工程を桐生市内で完結できる体制が整っていた。織物工場の周囲には、染料店、織機メーカー、機械修理工場、そしてデザインを手がける職人たちが軒を連ね、互いに協力し、競争しながら技術を高め合った。このような産業集積は、新しい技術や情報の交換を活発にし、常に時代のニーズに応じた製品を生み出す原動力となった。例えば、大正期には女性の洋装化が進む中で、和装用の織物だけでなく、裏地や服地といった洋装向けの生地生産にもいち早く対応し、市場の変化に柔軟に適応していったのである。
日本の織物産地は数多いが、桐生の発展はその地域固有の条件と、普遍的な産業発展の法則が交差する点で興味深い。例えば、京都の西陣織は宮廷文化や公家社会の需要に応える形で発展し、多品種少量生産の高級品に特化してきた。職人の高度な手仕事と、それに支えられた分業体制が特徴である。一方、愛知県の一宮市に代表される尾州織物は、毛織物を中心に発展し、近代以降は大量生産に適した機械化を推し進め、スーツ生地などの洋装分野で国内最大の産地となった。
これに対し桐生は、西陣のような伝統的な手織りの高度な技術を取り入れつつも、明治以降は積極的に機械化を導入し、和装から洋装、さらに裏地や産業資材といった多様な製品を手がけることで、市場の変化に柔軟に対応してきた。西陣の「技術の深さ」と、尾州の「生産の規模」の中間に位置しながら、桐生は「技術の多様性」と「市場への適応力」という独自の道を選んだと言えるだろう。赤城山麓の養蚕という一次産業に始まり、渡良瀬川の水を利用した染色、そして近代的な機械織りへと展開する過程は、地域の自然資源を最大限に活用しつつ、常に新しい技術を取り入れることで生き残りを図ってきた、日本の多くの産業地域に共通する普遍的な姿を映し出している。
高度経済成長期を経て、桐生の織物産業は安い海外製品との競争や、和装需要の減少といった課題に直面してきた。かつて市内に数千軒あったと言われる織物工場も、その数は激減した。しかし、桐生の織物文化は完全に消え去ったわけではない。現在も、高付加価値のブランド製品や、医療用・産業用といった特殊な機能性素材を手がける企業が、桐生で操業を続けている。特に、ファッション業界では、桐生が培ってきた繊細な織りの技術や染色のノウハウが再評価され、「メイド・イン・桐生」の製品が国内外で注目を集めるようになっている。
市街地には、かつての賑わいを伝える近代化遺産が数多く残されている。鋸屋根工場群や、大正・昭和初期に建てられた洋風建築、そして織物関係者の寄付によって建てられた歴史的建造物などは、桐生の歴史を今に伝える貴重な財産だ。これらは近年、観光資源としても注目され、地域活性化の一翼を担っている。若い世代のクリエイターやデザイナーが桐生に移り住み、伝統技術と現代の感性を融合させた新しい製品を生み出す動きも見られる。
桐生の歴史を辿ると、この地が常に変化を受け入れ、新しいものを取り入れながら発展してきたことがわかる。それは、単に技術的な革新に留まらず、地理的な条件、政治的な背景、そして何よりもそこに暮らす人々の不断の努力によって支えられてきた。渡良瀬川のせせらぎ、赤城から吹き抜ける風、そして鋸屋根の工場から聞こえてくる機織りの音。それらはかつての隆盛を物語るだけでなく、今もなお、この街の記憶の織物を紡ぎ続けている。桐生に残る古い建物群は、その一つ一つが、過去から現在へと続く確かな糸のように、この街の物語を静かに語りかけているかのようだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。