2026/6/4
伊香保温泉の365段石段街、武将の療養から生まれた街の秘密

伊香保と伊香保温泉について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
群馬県伊香保温泉は、榛名山腹に365段の石段街を持つ。戦国時代、武田勝頼の命で真田昌幸が整備した療養所が起源とされる。黄金と白銀の二つの泉質、歴史的背景、そして現代の街づくりまで、伊香保温泉の魅力を辿る。
群馬県、榛名山の中腹に位置する伊香保温泉は、特有の石段街を持つ温泉地として知られている。その石段は、旅館や土産物店が軒を連ねる通りの中心を縦断し、訪れる人々を上へと誘う。単なる景観としてだけではなく、なぜこの傾斜地にこのような都市構造が築かれ、それが今日まで維持されてきたのか。その背景には、湯の恵みと、それを巡る人々の営みが深く刻まれている。
伊香保の温泉は古くから知られ、その起源は第11代垂仁天皇の時代に発見されたとする説や、奈良時代の僧である行基による開湯説など諸説があるものの、南北朝時代の書物にはすでに温泉が湧出していることが記されているという。また、『万葉集』の東歌には伊香保の地名が詠まれており、その歴史の古さを物語る。
現在の温泉街の原型が形成されたのは、戦国時代の天正4年(1576年)頃のことである。 長篠の戦いで負傷した武田方の将兵の療養所として、武田勝頼が真田昌幸に命じ、温泉街の整備を進めさせたという経緯がある。 これは「日本初の温泉リゾート都市計画」とも評される先進的な試みだったとされ、傾斜地を活かした街づくりがこの時に始まった。
江戸時代に入ると、伊香保は「子宝の湯」「婦人の湯」として広く知られ、遊興や保養の地として隆盛を極めた。 滝沢馬琴や十返舎一九といった文人墨客も多く訪れ、その名を高めたとされる。 明治時代には、元老院議官金井之恭の別荘が「伊香保御料地」として宮内省に買い上げられ、皇族も来遊するようになった。 また、徳富蘆花の小説『不如帰』の舞台となったことで、その名は全国に広まったのである。
伊香保温泉の最大の特徴は、「黄金の湯(こがねのゆ)」と「白銀の湯(しろがねのゆ)」という二種類の泉質を持つことにある。 古くから知られる「黄金の湯」は、もともと無色透明だが、湧出後に鉄分が空気に触れて酸化することで、独特の茶褐色に変化する。 泉質は硫酸塩泉で、刺激が少なく肌に優しいとされ、血行促進や保温効果が高いことから、切り傷や冷え性、疲労回復、さらには「子宝の湯」として女性に親しまれてきた。
一方、「白銀の湯」は近年になって湧出が確認された比較的新しい源泉で、無色透明・無味無臭のメタけい酸泉である。 豊富な湯量を誇り、病後の回復期や疲労回復、健康増進に良いとされる。 この二つの異なる泉質が楽しめる点は、伊香保温泉ならではの魅力となっている。
そして、伊香保の象徴ともいえるのが、温泉街の中心を貫く365段の石段街である。 この石段は、戦国時代に武田勝頼の命を受けた真田昌幸が、湯治場としての機能性を考慮して整備したことに端を発するとされる。 源泉から各旅館へ湯を効率的に配分するため、石段の内部に分湯の仕組みが組み込まれたという。 現在の石段は昭和55年(1980年)からの大改修で御影石が敷かれ、365段という段数には「温泉街が一年365日賑わい続けるように」という繁栄への願いが込められている。 石段の途中には、かつて温泉の管理を担っていた「大屋」と呼ばれる12軒の宿の印として、十二支が刻まれている箇所もある。
群馬県内には、伊香保の他にも草津温泉や四万温泉といった名湯が点在するが、それぞれ異なる発展の経緯と特色を持つ。草津温泉は、毎分約32,300リットルと日本一の自然湧出量を誇る強酸性の湯が特徴で、湯畑を中心とした活気ある温泉街が形成されている。 湯もみショーに代表されるように、その湯そのものを観光の核とする。
一方、四万温泉は、吾妻川の支流である四万川沿いに温泉街が広がり、「四万の病を癒す」という名の通り、静かな環境で湯治を目的とした「おこもり旅」に適しているとされる。 豊かな自然に囲まれ、神秘的な「四万ブルー」の清流が特徴的である。
これに対し伊香保温泉は、榛名山の中腹という立地から、湯そのものの効能に加え、石段街という独特の「都市計画」と「街歩き」を組み合わせた温泉文化を育んできた。 草津が温泉の「強さ」を前面に出し、四万が「静けさ」を重んじるのに対し、伊香保は歴史的な街並みと二種類の泉質、そして文人たちに愛された風情を魅力とする。 特に、戦国時代に武将の療養地として計画的に整備されたという背景は、他の温泉地が自然発生的に発展したケースと比較して、伊香保の石段街が持つ構造的な意図を浮き彫りにする。 現代においては、草津が「温泉テーマパーク的」と評される賑やかさを持つ一方で、伊香保は「落ち着いた旅情ある温泉街」として、異なる魅力を提供している。
現代の伊香保温泉は、歴史的な街並みを保ちつつ、新たな観光の形を模索している。かつては団体旅行客が中心だったが、近年は個人旅行や若年層の訪問も増加しているという。 石段街には土産物店や飲食店、射的場などが並び、浴衣姿で散策や食べ歩きを楽しむ風景が見られる。
しかし、過去にはバブル崩壊後の宿泊客減少や、廃業した旅館の廃墟化といった課題も抱えていた。 こうした状況に対し、地域や行政は連携し、廃墟となっていた施設を再生して新たな店舗を誘致したり、バリアフリー化を進めたりといった取り組みを進めてきた。 また、SNSを活用した情報発信も強化し、若い世代へのアピールも図られている。
一部の旅館では、人手不足に対応するため、一泊朝食付きプランに特化し、夕食は石段街の飲食店で楽しんでもらうという試みも見られる。 これは宿泊施設と地域の飲食店が連携し、温泉街全体の賑わいを創出する現代的なアプローチと言えるだろう。石段街の最上部には伊香保神社が鎮座し、温泉街を一望できる高台からは、遠く赤城山などの山並みを望むことができる。
伊香保温泉の石段を歩くと、その段々が単なる道ではなく、計画された都市の骨格であることに気づかされる。榛名山の中腹という、決して平坦ではない土地に温泉街を拓き、源泉からの湯を効率的に配湯するための知恵が、この石段という形に結晶している。武将の療養という切実な目的から始まり、江戸時代の湯治文化、明治以降の文人たちの保養地としての顔を経て、伊香保は常にその地形と湯の恵みに向き合い、人の手で街を編み上げてきた。
現代においても、その石段は単なる観光資源としてではなく、かつての分湯の仕組みを内包し、旅館や商店が連なる街の血管として機能している。365段に込められた「一年の賑わい」という願いは、地形がもたらす制約と、それを乗り越えようとする人々の意図が重なり合った結果だ。伊香保の風景は、自然の恩恵と、それを最大限に活かそうとした人間の工夫とが、時代を超えて共存する姿を今に伝えている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。