大分・庄内町はなぜ「荘園」と「炭酸泉」の二つの顔を持つのか

久住の麓、芹川が削る土地で
大分県の中部に位置する由布市庄内町。由布岳や九重連山の懐に抱かれ、芹川が流れるこの地を訪れると、その名が示す「庄内」という響きが、どこか牧歌的な風景と重なるように感じる。しかし、この平穏な響きの裏には、かつてこの地が果たした具体的な役割と、その土地ならではの厳しい条件が潜んでいる。庄内とは、一体どのような場所だったのか。その問いは、地形、水、そして人々の営みの重なりから見えてくるだろう。
芹川が育んだ「荘園」の記憶
庄内という地名は、古代から中世にかけての「荘園」に由来すると言われている。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、この地域は宇佐神宮の広大な荘園「阿南荘」の一部であったと考えられているのだ。阿南荘は、現在の由布市庄内町から竹田市にかけて広がる肥沃な土地を含み、その中心地の一つが庄内であった。この地が荘園として重要な位置を占めた背景には、芹川と大野川の豊かな水資源がある。阿蘇外輪山系の伏流水が湧き出し、芹川が形成する谷間は、古くから稲作に適した土地であった。
鎌倉時代には、武士団の進出とともに荘園は細分化され、庄内地域にも大友氏系の武士団が勢力を広げた。特に戦国時代には、大友氏と島津氏の攻防の舞台となり、度々戦火に見舞われたとされる。江戸時代に入ると、この地域は岡藩の領地となり、豊かな農産物を藩の財政を支える重要な拠点として位置づけられた。藩は治水事業にも力を入れ、芹川の水を活用した灌漑設備を整備し、農業生産の安定化を図った。庄内が「豊後米」の一大産地として知られるようになったのも、この時代の基盤整備があったからだ。
炭酸泉と交通の要衝が重なる
庄内が特異な場所となった要因は、その地理的条件と、それに伴う人の往来にある。まず、庄内は古くから交通の要衝であった。豊後と日向を結ぶ主要街道である「日向往還」がこの地を通り、さらに久住高原方面へと向かう道も分岐していた。旅人や物資が行き交う宿場町としての機能も果たしていたのだ。この交通の利便性が、地域の発展に寄与したことは想像に難くない。
もう一つの大きな要因は、この地特有の炭酸泉の存在である。庄内町には、長湯温泉や七里田温泉に代表される、全国的にも珍しい高濃度炭酸泉が点在している。これらの温泉は、古くから湯治場として利用され、地域の人々の生活に深く根ざしてきた。炭酸泉は、その効能から多くの人々を惹きつけ、交通の要衝である庄内が、単なる通過点ではなく、滞在の地としての魅力をも持つことになった。街道と温泉、この二つの要素が重なり合うことで、庄内は独自の文化と経済圏を形成していったのである。
街道と湯治場、そして農村の複合性
庄内町の特性を他の地域と比較すると、その複合的な性格が際立つ。例えば、全国各地に存在する「宿場町」は、交通の利便性から商業が発達し、独自の文化が花開いた。また、「温泉地」は、その湯の魅力によって観光客を集め、湯治文化を育んできた。しかし、庄内は、これら二つの要素に加えて、広大な農村地帯としての性格を強く持っていた点が特徴的だ。
一般的な宿場町が、商業やサービス業を中心とした都市的な性格を強めるのに対し、庄内はあくまで農業が基盤であり続けた。日向往還を行き交う人々は、庄内を通過するだけでなく、豊かな農産物を目にし、あるいは炭酸泉で疲れを癒した。また、温泉地でありながら、大規模な歓楽街を形成するのではなく、湯治客が農村の静けさの中で療養する、という趣が強かった。これは、由布院温泉のような観光開発が進んだ温泉地とは異なる、より生活に密着した湯治文化を形成したと言えるだろう。街道、温泉、そして農村という三つの顔が、それぞれ独立しながらも互いに影響し合い、庄内独自の空間を作り上げていたのである。
いま、水と緑が織りなす風景の中で
現代の庄内町は、2005年に旧由布町、挾間町と合併し、由布市の一部となった。かつての宿場町の面影は薄れ、幹線道路沿いには新しい店舗が並ぶ一方で、一歩路地に入れば、豊かな田園風景が広がる。しかし、芹川の清流が流れ、その伏流水が炭酸泉として湧き出すという、この地の根源的な魅力は今も健在だ。特に、長湯温泉や七里田温泉といった炭酸泉は、その希少性から「日本一の炭酸泉」として多くの湯治客や観光客を惹きつけている。
農業もまた、この地の重要な柱であり続けている。米作だけでなく、ピーマン、トマト、そして近年ではワイン用のブドウ栽培なども盛んに行われている。地域の特産品として、これらの農産物や加工品が道の駅などで販売され、訪れる人々に庄内の恵みを伝えている。かつて日向往還を行き交った人々が目にしたであろう、水と緑が織りなす豊かな風景は、形を変えながらも、現代の庄内町に受け継がれているのだ。
街道の裏に隠れた、湯治の道
庄内という場所を深く見つめると、単なる交通の要衝というだけでなく、人々の心身を癒す「湯治の道」が、その裏側に静かに存在していたことに気づかされる。日向往還という主要な街道が、物資や情報の流れを象徴する表の道であるならば、炭酸泉へと向かう道は、病を癒し、生きる力を取り戻すための裏の道であったと言える。
この二つの道が交錯する場所に庄内は位置し、人々の多様な目的を受け入れてきた。急ぎ足で通り過ぎる旅人もいれば、数週間、あるいは数ヶ月をかけて湯治に滞在する人もいた。その複合性が、庄内を単調な場所ではなく、奥行きのある空間として形作ってきたのだろう。現代において、その賑わいは過去のものとなったかもしれないが、清らかな水と、湧き出る湯、そして豊かな土壌は、今も変わらずこの地の根幹をなしている。
旅と食が好き。どこにでもいます。