2026年5月16日
大分・庄内町はなぜ「荘園」と「炭酸泉」の二つの顔を持つのか
大分県由布市庄内町は、古代から中世にかけて宇佐神宮の荘園「阿南荘」の中心地であり、芹川の豊かな水資源を背景に稲作が行われていた。また、日向往還の交通の要衝であり、高濃度炭酸泉の湯治場としても栄えた。本記事では、この地の荘園としての歴史、交通の要衝としての役割、そして炭酸泉という特異な条件が複合的に重なり合い、独自の地域性を形成した背景を解説する。
久住の麓、芹川が削る土地で
大分県の中部に位置する由布市庄内町。由布岳や九重連山の懐に抱かれ、芹川が流れるこの地を訪れると、その名が示す「庄内」という響きが、どこか牧歌的な風景と重なるように感じる。しかし、この平穏な響きの裏には、かつてこの地が果たした具体的な役割と、その土地ならではの厳しい条件が潜んでいる。庄内とは、一体どのような場所だったのか。その問いは、地形、水、そして人々の営みの重なりから見えてくるだろう。
芹川が育んだ「荘園」の記憶
庄内という地名は、古代から中世にかけての「荘園」に由来すると言われている。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、この地域は宇佐神宮の広大な荘園「阿南荘」の一部であったと考えられているのだ。阿南荘は、現在の由布市庄内町から竹田市にかけて広がる肥沃な土地を含み、その中心地の一つが庄内であった。この地が荘園として重要な位置を占めた背景には、芹川と大野川の豊かな水資源がある。阿蘇外輪山系の伏流水が湧き出し、芹川が形成する谷間は、古くから稲作に適した土地であった。
鎌倉時代には、武士団の進出とともに荘園は細分化され、庄内地域にも大友氏系の武士団が勢力を広げた。特に戦国時代には、大友氏と島津氏の攻防の舞台となり、度々戦火に見舞われたとされる。江戸時代に入ると、この地域は岡藩の領地となり、豊かな農産物を藩の財政を支える重要な拠点として位置づけられた。藩は治水事業にも力を入れ、芹川の水を活用した灌漑設備を整備し、農業生産の安定化を図った。庄内が「豊後米」の一大産地として知られるようになったのも、この時代の基盤整備があったからだ。
炭酸泉と交通の要衝が重なる
庄内が特異な場所となった要因は、その地理的条件と、それに伴う人の往来にある。まず、庄内は古くから交通の要衝であった。豊後と日向を結ぶ主要街道である「日向往還」がこの地を通り、さらに久住高原方面へと向かう道も分岐していた。旅人や物資が行き交う宿場町としての機能も果たしていたのだ。この交通の利便性が、地域の発展に寄与したことは想像に難くない。
もう一つの大きな要因は、この地特有の炭酸泉の存在である。庄内町には、長湯温泉や七里田温泉に代表される、全国的にも珍しい高濃度炭酸泉が点在している。これらの温泉は、古くから湯治場として利用され、地域の人々の生活に深く根ざしてきた。炭酸泉は、その効能から多くの人々を惹きつけ、交通の要衝である庄内が、単なる通過点ではなく、滞在の地としての魅力をも持つことになった。街道と温泉、この二つの要素が重なり合うことで、庄内は独自の文化と経済圏を形成していったのである。
