2026/6/7
「養老元年」に多くの神社が創建されたのはなぜ?

神社の歴史を見ていて、養老元年(717年)がめっちゃ出てくる気がする。養老元年に何があったのか?
キュリオす
717年の養老改元前後、律令国家は神祇制度を整備し、全国の神社を国家祭祀の体系に組み込んだ。養老律令の神祇令は、神社の位置づけや祭祀の規範を定め、現代まで続く神社の歴史に影響を与えている。
全国各地の神社の由緒を辿ると、「養老元年(717年)創建」あるいは「養老年間(717年〜724年)に〇〇」といった記述に、思いのほか多く出会うことに気づく。特定の年にこれほど多くの神社が何らかの形で関わるのは偶然とは考えにくい。一体、養老元年という時代に何が起こり、それが日本の神社にどのような影響を与えたのだろうか。この問いは、単なる年表の出来事を超え、古代日本の国家と信仰の関係性、そして律令制という枠組みが神社のあり方をどう規定していったかを考える上で重要な視点を提供する。
養老年間へと至る背景には、7世紀後半から8世紀初頭にかけて進められた律令国家の形成と、それに伴う国家祭祀の制度化がある。大宝元年(701年)に大宝律令が制定され、日本は律令国家として歩み始めた。この律令には、国家の祭祀を司る「神祇官」の職掌や、祭祀の具体的な内容を定めた「神祇令」が含まれていた。神祇官は太政官と並ぶ最高機関として位置づけられ、国家の祭祀と神社行政を取り扱う役割を担った。制度上、「祭」と「政」が区別された時期でもある。
養老元年は、元正天皇が即位していた時代にあたる。この年、元正天皇は美濃国(現在の岐阜県養老町)に行幸し、多度山(現在の養老の滝周辺)の美泉を「老を養うべし」と称賛したことにちなんで、元号を「霊亀」から「養老」へと改元している。 この改元は、単なる吉兆によるものだけでなく、律令国家が民衆統合の象徴として、孝道や長寿といった儒教的価値観を取り入れようとした意図も読み取れる。また、この行幸に際しては、美濃国司や郡司の官位昇叙、調庸の免除、高齢者への褒賞、孝子の表彰など、大赦が実施された。
養老元年そのものに、直接的に全国の神社に影響を与えるような大規模な「令」が発布されたわけではない。しかし、この前後の時代に、律令制に基づく国家祭祀の体系が整備され、その中で神社の位置づけが明確化されていったことが重要だ。特に、養老2年(718年)には、藤原不比等らによって「養老律令」の撰定が行われている。 実際に施行されたのは757年(天平宝字元年)と約40年後であったが、これは大宝律令の内容を日本の国情に合わせて改訂・整備したもので、律令国家の根幹をなす法典であった。 この養老律令の中には、国家祭祀の基本を定めた「神祇令」が含まれており、これが後代の神社行政の規範となっていく。
養老律令の「神祇令」は全20条からなり、律令国家における国家祭祀の大綱を定めていた。 その内容は、神祇官が四季ごとに行う恒例の祭祀の一覧に始まり、天皇の即位に際して天神地祇を祀る規定、官人が守るべき斎戒の程度や期間、践祚や大嘗祭といった天皇代替わりの儀礼、さらには官司や官人による祭祀運営の細則、中央と諸国で行われる大祓、そして神戸(かんべ)と神社の財政についてまで及んだ。
この神祇令によって、それまで各地で多様に行われていた神祇信仰が、国家の秩序の中に組み込まれ、制度化された。例えば、祈年祭や月次祭、新嘗祭では、全国の官社に対して神祇官から幣帛(へいはく)が配られる「班幣祭祀」が行われる規定が設けられた。 これは、朝廷が特定の神社を「官社」として認め、国家的な祭祀体系の中に位置づけたことを意味する。 この制度により、地方の有力な神社も国家の祭祀制度に組み込まれ、神祇官が神職を上京させて幣帛を班給することで、地方の神社を管轄した。
また、有力な神社(御祭神)には、朝廷から「神階」(しんかい)が与えられるようになったのもこの頃からである。 神階は人間の官人と同じように位階を授けることで、神々の間に序列を設けるという画期的な手法であった。これにより、神社の序列化が進み、国家による神社支配の体系が形成されていった。 神祇令は、唐の「祀令」を参考にしつつも、日本の神観念に合わせて取捨選択されており、天皇代替わり儀礼や大祓など、日本独自の祭祀儀礼が盛り込まれていた点が特徴である。 動物供儀の規定が見られず、肉食禁忌に抵触するものとして避けられていたことも、唐の祀令との大きな違いとして挙げられる。
養老元年を起点とする律令国家の神祇制度は、それ以前の祭祀形態や、他国の制度と比較することで、その独自性がより明確になる。律令制以前、7世紀中盤以前の日本では、在地で祝(はふり)や座頭が祭祀を行い、天皇も狭義のヤマトの範囲で呪術を行っていたとされる。 天智朝には原初的な祈年祭が発生し、天武期には天皇神事が国家へ組み込まれていった。 大宝律令、そして養老律令の制定は、このような個別の信仰や祭祀を、国家全体を統治する法典の中に位置づけ、統一的な制度として確立しようとする試みであった。
中国の律令制度における祭祀と比較すると、日本の神祇令は、唐の「祀令」を参考にしながらも、独自の発展を遂げた点が際立つ。例えば、唐の祀令が天帝などの漢土の神を祭祀対象としたのに対し、日本の神祇令は古来の日本の神々である天神地祇を対象とした。 また、唐の祀令には見られない天皇代替わり儀礼である大嘗祭や、全国的な祓い清めの儀式である大祓が神祇令に規定されたことは、日本の律令国家が、天皇を中心とする独自の祭祀体系を構築しようとした表れだろう。 動物供儀を避け、幣帛を重視する点も、日本の神祇令の特異性を示す。
このような国家主導の祭祀形態の整備は、国家の権力を強化し、祭祀の面からも秩序を確立しようとする意図があった。 地方の神社は、国家神として認められることで、祈年祭の際に朝廷から幣帛を受け取る「官社」となり、その名簿である「神名帳」が神祇官によって保管された。 これは、中央集権的な統治機構が、地方の信仰をも掌握しようとした試みと言える。しかし、8世紀後半になると、地方の神職が上京して幣帛を受け取ることを怠るようになり、この班幣制度は維持が困難になっていった。 このため、798年(延暦17年)には、畿外の神社に対しては各国の国司が幣帛を班給するよう変更されるなど、制度の運用に変化が生じている。
養老年間、特に養老律令による神祇制度の確立は、その後の日本の神社行政に長く影響を及ぼした。養老律令自体は、757年に施行された後、平安時代に入ると社会・経済状況との齟齬が生じ、平安中期までにはほとんど形骸化したとされる。 しかし、その廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続したという側面もある。 明治維新後の神祇制度改革においても、律令制下で形成された神社の社格や国家祭祀の概念は、形を変えながらも継承されていく。
現代において、多くの神社で由緒に「養老元年」や「養老年間」の記述が見られるのは、この時代に律令国家による神社の位置づけや祭祀の体系化が進み、それが後世の記録に強く残されたためだと考えられる。例えば、岐阜県養老町にある養老神社は、孝子源丞内の伝承と結びつき、元正天皇の行幸や養老改元の由来と関連付けられて語り継がれてきた。 このように、養老年間は、個々の神社の由緒を国家の大きな枠組みの中で捉え直す契機となったのだ。
現代の神社を訪れる際、私たちはしばしばその歴史の古さや地域との結びつきに目を奪われる。しかし、その背後には、古代の律令国家が、全国の神々をいかに秩序立て、国家の祭祀体系に組み込もうとしたかという、壮大な試みがあった。養老元年という年は、その試みが制度として具体的に形をとり始めた時期であり、個々の神社が国家の「官社」として認識され、その祭祀が法典によって規定されるようになった転換点として、今日までその名が刻まれているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。