2026/6/7
越中国に四つの一宮?気多神社の歴史と謎

越中国一宮 気多神社について詳しく知りたい。
キュリオす
富山県高岡市伏木にある気多神社は、越中国で最も格式の高い神社とされた。しかし、越中国には気多神社以外にも「一宮」を称する神社が三社存在し、全国でも珍しい「四つの一宮」という状況が生まれている。この記事では、気多神社の創建から、越中国に複数の「一番」が存在する理由を探る。
富山県高岡市伏木。この地を訪れると、地名そのものが歴史を物語っていることに気づかされる。伏木一宮、その「一宮」という地名は、かつてこの地に越中国で最も格式の高い神社があったことを示す。しかし、越中国には気多神社の他にも「一宮」を称する神社が三社存在し、全国的に見ても珍しい「四つの一宮」という状況が生まれている。なぜこの地に気多神社が鎮座し、そしてなぜ越中国には複数の「一番」が存在するのか。その問いは、地域の歴史と信仰、そして権力の変遷が織りなす複雑な様相を紐解くきっかけとなるだろう。
気多神社の創建については諸説あるが、社伝によれば養老元年(717年)に能登国一宮である気多大社(石川県羽咋市)から御分霊を勧請したことが始まりとされる。また、僧行基が養老2年(718年)に開基したという伝承も残る。しかし、越中国と能登国の関係性の変遷が、この創建時期に複雑な影を落としている。能登国は養老2年(718年)に越前国から分立し、天平13年(741年)には一時的に越中国に合併された後、天平宝字元年(757年)に再び分立した経緯がある。この国境の揺らぎの中で、能登の気多大社が越中全体の一宮と見なされた時期もあったようだ。
現在の気多神社がこの地に鎮座するに至ったのは、天平宝字元年(757年)前後の、能登国再分立の時期と推測されている。当時の越中国府が近くに置かれていたため、国府に近いこの地に能登の気多大社から分霊が祀られたという見方が有力である。興味深いのは、『万葉集』の編纂者として知られる大伴家持が越中国守として赴任していた天平18年(746年)から天平勝宝3年(751年)の期間に、気多神社を思わせる歌を一切詠んでいない点だ。このことから、気多神社が現在の形で確立したのは、家持の赴任以降ではないかという説も提示されている。
気多神社は、延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』において、越中国三十四座の中でも名神大社に列せられ、その格式の高さが公的に認められた。この時期には既に越中国の筆頭たる地位を確立していたことがうかがえる。 主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)であり、縁結びや五穀豊穣、豊漁の神として信仰を集めてきた。
鎌倉時代から室町時代にかけて、気多神社は神仏習合の時代を迎え、境内には徳証寺をはじめとする神宮寺が立ち並び、最盛期には49もの坊を擁する一大伽藍を形成していたと伝えられる。しかし、寿永年間(1182年)の木曽義仲の兵火、そして天文年間(1532~1555年)には上杉謙信による兵火と、二度にわたる戦乱によって社殿のほとんどが焼失し、その勢いを大きく失った。
気多神社が越中国の一宮としての地位を確立し、維持してきた背景には、その地理的条件と、時の権力者からの庇護が大きく作用している。高岡市伏木という立地は、かつて越中国の国府や国分寺が置かれ、政治・文化の中心地であった。気多神社の境内には、越中国内の有力諸社の神霊を集めて祀ったとされる「越中総社跡」の伝承地も存在する。 国司が国内の全神社を巡拝する代わりに総社を参拝することで、統治の円滑化を図ったとされ、このことからも気多神社が越中国の精神的な要衝であったことがうかがえる。
二度にわたる兵火で灰燼に帰した社殿は、永禄年間(1558~1570年)に別当であった慶高寺の社僧たちの尽力によって再建された。 その後、江戸時代に入ると、加賀藩三代藩主である前田利常が特に気多神社を崇敬し、正保2年(1645年)には荒廃していた本殿や拝殿などを再築した。これ以降、神社の維持は全て加賀藩の費用で賄われることとなり、前田家の祈願所として手厚い庇護を受けた。神紋が前田家の家紋と同じ「梅鉢紋」であることからも、その関係性の深さがうかがえる。
しかし、明治維新による神仏分離令や版籍奉還は、気多神社に再び大きな転換期をもたらす。加賀藩からの庇護を失い、社運は衰微の途を辿ることになる。この窮状を救ったのは、地元の人々の力であった。明治24年(1891年)、勝興寺の連枝である土山澤映や伏木湊の北前船廻船問屋など、56名の有志が「気多神社永続資金」を供出し、境内の社域が保持されることになった。 地域の経済を支えた商人たちの力が、歴史ある神社の存続を支えたのである。
現在の本殿は永禄年間に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。三間社流造りの様式は室町時代の特徴をよく残し、簡素ながらも荘厳な風格を漂わせている。 境内には鎌倉時代の作とされる木造狛犬も現存し、その力強い姿は幾多の戦乱と再興を見守ってきた歴史の重みを伝える。
越中国(現在の富山県)には、気多神社の他に射水神社、高瀬神社、雄山神社という計四社が「一宮」を称している。これは全国的に見ても極めて珍しい事例であり、通常一国に一社とされる一宮の概念とは一線を画している。 この複数の一宮の存在は、単一の神社が圧倒的な権威を持ち続けられなかった越中国の歴史的背景と、一宮制度そのものの曖昧さを示唆している。
一宮とは、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、国司がその国に赴任した際に最初に巡拝する、その国で最も社格の高いとされた神社のことである。しかし、この制度は朝廷が定めた明確な法律に基づくものではなく、地域の慣習や国司との関係性の中で自然発生的に決まっていった性格が強い。 この非公式性が、越中国における複数の一宮という状況を生み出す「隙」となった。
越中国で複数の一宮が存在する理由は、大きく三つの時代背景に集約されると指摘されている。第一に、時代の変遷に伴う国府(政治の中心地)の移転が挙げられる。国府が移動すれば、それに伴って国司が重視する神社も変化し、新たな一宮が台頭する可能性があった。第二に、時の権力者による崇敬の対象の変化である。有力な豪族や国司が特定の神社を厚く保護することで、その神社の地位が向上し、一宮としての主張が強まったと考えられる。そして第三に、明治時代の近代社格制度における認定の経緯も影響している。
例えば、能登国が越中国から一時的に分立・合併を繰り返した時期には、能登の気多大社が越中全体の一宮であった可能性も指摘される。その後、越中国の一宮が空席となり、それまで二番手であった射水神社が一宮に昇格したものの、能登から勧請された気多神社がこれに対抗して一宮の地位を争ったという説もある。さらに、国府が射水郡から砺波郡へと移転すると、砺波郡の高瀬神社も一宮を主張するようになったという経緯も語られる。 また、南北朝時代の説話集『神道集』には、越中国一宮が立山権現(雄山神社)と記されており、時代によってその認識も多様であったことがわかる。
他国の一宮と比べると、越中国の事例は際立っている。例えば、越後国(新潟県)には弥彦神社と居多神社の二つの一宮があるが、弥彦神社が『延喜式』で名神大社とされ、格式において優位にあった。居多神社が一宮とされるのは南北朝時代に守護の上杉氏が保護したことによるとも言われる。 一方、越中国では、古くからの有力社、国府に近い神社、霊山を背景とした神社が、それぞれ異なる文脈で一宮を主張し、現在までその正統性が並立している。これは、一宮という概念が、中央集権的な指令ではなく、地域ごとの信仰や政治状況の中で形成されてきた証左と言えるだろう。
現代において、富山県高岡市伏木に鎮座する気多神社は、その歴史の重みを静かにたたえている。周囲を杉の木立に囲まれた境内は、訪れる者に落ち着いた雰囲気を与える。 階段を上りきると、室町時代に再建された本殿が姿を現す。かつて国宝に指定され、現在は国の重要文化財であるこの本殿は、その建築様式が時代を超えて評価されている。
境内には、越中守としてこの地で多くの歌を詠んだ大伴家持ゆかりの場所が点在する。家持の歌碑が立ち、彼を祀る大伴神社も建立されている。毎年10月には「大伴家持卿顕彰祭」が執り行われ、万葉の歌人の功績を今に伝えている。 また、境内の一角には「越中総社跡」の伝承地があり、「かたかごの丘」として整備されている。ここは、かつて国司が着任の儀礼を行ったとされる歴史的に重要な場所であり、今も木造の鳥居が立つ神域として守られている。
神社の参道脇には「気多神社の清泉」と名付けられた湧水があり、富山県の名水にも選定されている。 この清らかな水は、神社が創建される以前から湧き出ていたと伝えられ、地域の生活と信仰に深く結びついてきたことを物語る。
年間を通じて、気多神社では様々な祭事が行われる。1月の元旦祭に始まり、春には春季例大祭が催され、高岡市指定無形民俗文化財である「にらみ獅子」が奉納される。この素朴ながらも力強い舞は、地域の人々に長く親しまれてきた。 秋には秋季例大祭が執り行われ、その年の豊かな収穫と産業の発展に感謝が捧げられる。 これらの祭事は、古代から続く信仰の形を現代に伝え、地域の共同体を結びつける役割を果たしている。
越中国一宮たる気多神社を巡る旅は、単一の「一番」では語り尽くせない、複雑な歴史の層を浮き彫りにする。能登国との境界の変遷、国府の設置、そして二度にわたる兵火からの再興。それぞれの出来事が、この神社の地位と性格を形作ってきた。特に、越中国に四つの一宮が存在するという事実は、中央政府による画一的な秩序ではなく、地域ごとの政治的・宗教的な勢力均衡の中で「一宮」という称号が獲得されてきた経緯を示す。
気多神社が伏木という地に根差したのは、越中国府が近くに置かれたことによる利便性だけでなく、能登の気多大社からの分霊という由緒が、この地における信仰の正統性を補強したからだろう。大伴家持との縁や、越中総社という機能的な役割も、その地位を確固たるものにする上で重要な要素であった。しかし、その「一番」の座は、常に他の有力な神社との間で揺れ動くものであり、時の権力者の崇敬や、地域の経済的支援によってその存続が左右されてきた。
明治以降、国家神道の制度から外れた後も、地元の有志によって支えられ、その歴史と文化財が守られてきた経緯は、中央の力に依拠しない、地域に根ざした信仰の強さを示している。気多神社の本殿や狛犬、そして「にらみ獅子」といった文化財は、単なる歴史的遺物ではなく、この土地の人々が脈々と受け継いできた精神性の具体的な現れである。
越中国の一宮が複数存在する事実は、絶対的な「一番」が存在しなかったというよりも、それぞれの時代、それぞれの文脈において、異なる「一番」が立ち現れた結果と捉えることができる。気多神社は、その多様な「一番」の一つとして、国府の近くで、能登の神を勧請し、武家の庇護と地元の支援を得ながら、その歴史を刻んできた。その姿は、一宮という制度が持つ多義性と、地域社会における信仰のしなやかさを静かに示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。