2026/6/4
湘南でしらすが豊漁なのはなぜ?相模湾の秘密

湘南ではなぜしらすがめっちゃ獲れるのか??
キュリオす
湘南でしらすが豊漁なのは、相模湾の複雑な海底地形と黒潮の栄養豊富な海流、そして陸からの栄養供給が重なる自然条件による。イワシの稚魚が育ちやすい環境と、それを活用してきた人々の歴史が背景にある。
相模湾に面した湘南の海岸線を歩くと、多くの店先で「湘南しらす」の幟が目に入る。生しらす丼、釜揚げしらす、しらす干し。そのどれもが、この土地を代表する味覚として観光客を惹きつける。しかし、なぜこれほどまでに湘南、特に相模湾沿岸でしらすが「たくさん獲れる」という認識が定着しているのだろうか。単に漁業が盛んだというだけでなく、この海域のしらす漁が持つ固有の条件について、立ち止まって考えてみる価値はあるだろう。
相模湾での漁業の歴史を辿ると、しらすが主要な漁獲対象となるまでには複数の段階があったことがわかる。江戸時代から明治期にかけて、相模湾ではイワシ網漁が盛んであった。特に明治中期には、現在の鎌倉市や藤沢市にあたる地域でもイワシ漁が発達し、肥料としての干鰯(ほしか)や食用としての塩蔵イワシが生産されていたという。この時期のイワシ漁は、主に成魚を対象としていた。
しらす漁が本格的に注目され始めるのは、大正時代に入ってからだとされている。当時、イワシの稚魚であるしらすは、網にかかってもさほど価値のあるものとは見なされず、むしろ成魚を獲るための副産物、あるいは厄介な存在だった時期もあったようだ。しかし、食文化の変化や保存技術の進歩とともに、しらすそのものが持つ独特の風味と栄養価が評価されるようになる。特に、釜揚げや天日干しといった加工技術が確立されることで、長期保存が可能になり、流通網に乗せる価値が高まった。昭和初期には、しらすを専門に獲る「しらす船」が登場し、漁法も網を改良するなどして効率化が進められた。第二次世界大戦後の食糧難の時代には、手軽なタンパク源としてその需要はさらに高まり、相模湾の漁港ではしらすが重要な水産資源として位置づけられるようになったのだ。この頃から、現在の湘南しらす漁の原型が形成されていったと言えるだろう。
湘南のしらす漁が豊かな背景には、複数の自然条件が複合的に作用している。まず、相模湾の地形と深さである。相模湾は、日本の本州中央部に位置し、東に三浦半島、西に伊豆半島を抱くように広がる。この湾の海底には、最大水深1,000メートルを超える「相模トラフ」と呼ばれる深い溝が走っている。このトラフは、フィリピン海プレートと北アメリカプレートが接する境界に位置しており、地形が非常に複雑だ。深い海底地形は、多様な生物の生息域となり、食物連鎖の基盤を形成する。
次に、海洋条件が挙げられる。相模湾は、太平洋を流れる「黒潮」の強い影響を受ける海域だ。黒潮は、亜熱帯の暖かい海水を運び、豊かな栄養塩類をもたらす。さらに、黒潮から分岐する暖水塊や、伊豆諸島周辺から流れ込む海水が相模湾内で複雑に混じり合うことで、プランクトンが豊富に発生しやすい環境が生まれる。イワシの稚魚であるしらすは、動物プランクトンを主要な餌とするため、この豊富なプランクトンがしらすの成長を支える重要な要素となるのだ。また、相模湾には、丹沢山地や箱根山系から複数の河川が流れ込み、陸域からの栄養塩類も供給される。これらの栄養塩類が植物プランクトンの増殖を促し、それがさらに動物プランクトン、そしてしらすの餌となるという循環が形成されている。
さらに、しらすの産卵場所と回遊経路も重要だ。イワシ類は、主に春から夏にかけて太平洋沿岸の沖合で産卵するとされている。孵化した稚魚は、黒潮の流れに乗って北上し、相模湾のような沿岸域に流れ着く。相模湾は、沖合から流れ込む稚魚が一時的に滞留し、成長するのに適した環境が整っている。湾の奥まった地形は、稚魚が外洋の荒波から身を守り、餌を捕食しやすい「育ちの場」を提供しているのだ。このように、黒潮による稚魚の供給、湾内の豊富なプランクトン、そして相模トラフがもたらす複雑な海底地形と栄養循環が、湘南を日本有数のしらす漁場たらしめていると言えるだろう。
しらす漁は日本各地で行われているが、相模湾、特に湘南地域における漁の様相は、他の主要な漁場と比較するとその特徴がより明確になる。例えば、駿河湾や遠州灘、あるいは九州の有明海なども、しらす漁が盛んな地域として知られている。
駿河湾では、富士川や大井川といった大河川から流れ込む栄養塩類がプランクトンを豊富にし、湾の深さも相模湾に劣らない。遠州灘は、沖合に広がる広大な漁場が特徴であり、黒潮の分流の影響を強く受ける。有明海は、干満の差が大きく、河川からの栄養供給も豊富で、独自の生態系の中でしらすが育まれる。これらの地域も、それぞれが持つ地理的・海洋学的条件によってしらす漁が発展してきた。
しかし、湘南のしらす漁の特徴は、その漁場が港から比較的近い沿岸域に集中している点にある。相模湾は、先述の相模トラフによって急深な地形を持つ一方で、沿岸には比較的平坦な砂浜が続く。漁船は、早朝に港を出てわずか数十分から1時間程度で漁場に到着し、日中に数回網を引いて戻ってくるというスタイルが一般的だ。これは、遠洋漁業のように何日もかけて沖合に出る漁とは異なる。漁獲されたしらすは、鮮度を保ったまま短時間で港に水揚げされるため、生しらすとして提供できるという、他地域では難しい強みを持つ。駿河湾でも生しらすは食べられるが、湘南では多くの漁港で水揚げされ、その日のうちに消費される文化が根付いている点が異なる。
また、相模湾のしらす漁は、主にカタクチイワシの稚魚を対象としているが、マイワシやウルメイワシの稚魚も混じる。これらのイワシ類が、黒潮に乗って回遊し、相模湾という「育ちの場」に集積する条件が、他の地域と比較しても安定しているのだ。広大な外洋に散らばる稚魚を効率的に集約できる湾の形状と、その湾に継続的に稚魚を送り込む黒潮の存在が、湘南のしらす漁を特徴づける要因と言えるだろう。
現在の湘南地域では、しらす漁は単なる産業としてだけでなく、地域文化の象徴ともなっている。藤沢市の片瀬漁港、鎌倉市の腰越漁港、茅ヶ崎市の茅ヶ崎漁港など、相模湾沿岸の多くの漁港でしらす漁が行われている。これらの漁港では、朝獲れの生しらすが直売所で販売されたり、地元の飲食店で提供されたりする光景が日常となっている。
しかし、その豊かな漁場を維持するためには、厳しい資源管理が不可欠だ。相模湾では、漁業者が自主的に「湘南しらす」としてブランド化を進め、持続可能な漁業を実践している。例えば、漁獲期間の制限があり、毎年1月1日から3月10日までは禁漁期間とされている。これは、イワシ類の産卵期と成長期を保護し、資源の回復を促すための措置だ。また、網の目の大きさや漁獲量の制限など、細かなルールが設けられており、漁業者はこれらの規制を遵守しながら漁を行っている。
近年では、地球温暖化による海水温の上昇や、海洋環境の変化がイワシ類の回遊や生息に影響を与える可能性も指摘されている。そのため、漁業組合や研究機関は、海洋調査を継続的に行い、しらす資源の変動を監視している。観光客を惹きつける「湘南しらす」のブランドを守るためには、単に漁獲量を追うだけでなく、長期的な視点での資源管理と環境保全が求められているのだ。
湘南でしらすが「たくさん獲れる」という事実の背景には、相模湾の独特な地形、黒潮がもたらす豊かな海洋条件、そして河川からの栄養供給という複数の自然条件が重なり合っていることが見えてくる。それに加え、しらすという稚魚に新たな価値を見出し、それを獲るための漁法や加工技術を発展させてきた人々の歴史的な営みも無視できない。
この土地のしらす漁は、単なる自然の恵みだけでなく、その恵みをいかに持続可能にするかという問いを常に抱えている。豊かな漁場が「当たり前」に存在するように見えても、そこには自然の複雑なメカニズムと、それを理解し、時に制約しながら漁を行ってきた人々の工夫が積み重なっている。湘南のしらすは、私たちが自然から享受する資源がいかにデリケートなバランスの上に成り立っているかを、静かに示していると言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。