海から遠い会津の雪深い盆地に、ホタテの干し貝柱がどのようにして根付いたのか?

四方を山に囲まれた盆地で
福島県の会津若松をはじめとする会津地方の地を踏むとき、とりわけそれが厳冬期であったり、あるいは人生の節目となるような正月や冠婚葬祭の厳かな席であったりするならば、必ずと言っていいほど「こづゆ」という郷土の汁物に出会うことになります。漆器の産地としても知られるこの地ならではの、鮮やかな朱塗りの小さな椀。その蓋を開けた瞬間に立ち上る湯気とともに姿を現すのは、里芋の白さ、きくらげの黒、糸こんにゃくの細やかな影、そして小さく愛らしい豆麩が幾重にも重なり合い、澄み切った黄金色の汁に深く沈んでいる光景です。その椀の中央には、決まって一粒の干し貝柱が誇らしげに、あるいは慎ましやかに据えられています。海から遠く離れた、奥羽山脈と越後山脈という険しい峰々に四方を挟まれた雪深い内陸の盆地になぜ、北海道の海産物であるホタテの乾物がこれほどまでに深く、そして当然のように根付いているのでしょうか。地理的な条件だけで冷静に考えれば、険しい山々を越えて海の幸が日常的に手に入るはずはなかったのです。だとすれば、この乾燥した貝柱は一体どのような歴史的・地理的経路をたどり、どのような社会的な理屈や背景によって、かつての武家社会の規範から庶民のハレの日に至るまで途切れることなく定着したのでしょうか。その問いを解きほぐすことは、この土地が歩んできた歴史そのものを紐解く作業にほかならないのです。
阿賀川の水運と北前船の道
こづゆという独特の汁物の歴史を深く紐解いていくと、その起点は江戸時代後期から明治初期にかけての会津藩における武家料理の伝統や、藩主をはじめとする大名家に連なるような格式高い饗応の膳のなかに明確に行き着きます。だが、ここで再び根本的な疑問が立ち上がります。山国である会津の地に、どうやって北海道産の干し貝柱という遠隔地の海産物が大量に、かつ継続的にもたらされたのかという点です。そこには、日本海という広大な海域と内陸の河川を緻密に結びつけた、当時としては壮大かつ効率的な流通網の存在がありました。江戸時代から明治にかけて、北海道の豊かな海産物は日本海を縦横無尽に往来する北前船によって新潟港へと運ばれ、そこから信濃川の支流である阿賀野川を遡る形で、新潟と会津の国境にあたる津川の港へと集積されました。さらに、水量が急流に変わり大型船の航行が難しくなる区間においては、浅瀬を進む平田舟から陸上の馬の背へと荷物が移される「中追馬」と呼ばれる過酷な陸送の工程を挟み、再び阿賀川の豊かな舟運を利用して塩川湊へと届けられたのです。会津藩の西の玄関口として機能したこれらの川湊から、北の海の乾物は屈強な人々の背によって会津盆地の隅々まで行き渡りました。海に面していない土地でありながら、日本海側の広大な経済圏と太いパイプで結ばれていたことが、この内陸の郷土料理に対して海の特産品を常時供給し続けるための確固たる基盤となっていたのです。
朱塗りの手塩皿と縁起の数々
こうして険しい水運の網をくぐり抜けて運ばれた干し貝柱を贅沢に出し汁として使い、丹念に具材を仕込んでいく「こづゆ」は、単なる日常のありふれた汁物ではなく、厳格な作法と制度のもとで緻密に形作られていきました。椀の中に収められる具材には、里芋、人参、木耳、糸こんにゃく、豆麩などが選ばれ、その数は必ず7つや9つといった割り切れない奇数でなければならないと厳しく言い伝えられてきました。これは単に縁起を担ぐという迷信的な意味合いにとどまらず、限られた容量の小さな椀の中で、多様な山の幸と海の幸を視覚的にも味覚的にも調和させるための、極めて整然としたルールであったと言えます。器の扱い方にも深い特徴が宿っています。かつては直径35センチから40センチほどもある蓋付きの非常に大きな器である「大平」に一度たっぷりと盛られたあと、手塩皿と呼ばれる浅めの会津塗りの小ぶりな朱塗りの椀に取り分けてゲストに供されました。かつての宴席のなかで、お膳に並んだ馳走に手をつけずそのまま自宅へ持ち帰るという独特の習慣が存在したのですが、その場で酒の肴として心ゆくまでこの汁物を楽しむためにこづゆが重宝され、何度お代わりをしても失礼にはあたらないという、この料理特有の寛大なもてなしの作法が自然と生まれることになったのです。
内陸の保存食文化という比較軸
日本国内の他の内陸地域を見渡してみても、海産物の乾物はそれぞれの地域で流通していましたが、その多くは身欠きニシンや塩蔵の鮭、あるいは干物などとして各家庭の日常的な保存食や貴重なタンパク源として消費されることが通例でした。例えば、同じ福島県内であっても、阿賀川水系とは地理的・文化的に異なる阿武隈高地周辺の地域や中通り地方においては、それぞれの風土に根ざした別の汁物がハレの日の食卓を彩り、会津のように必ずしも高価で贅沢品である干し貝柱を汁の主軸に据えた、統一された小椀の文化を持たなかったのでした。会津が他の内陸地域と決定的に異なっていたのは、藩政時代からの厳格な武家文化の規範が人々の暮らしに深く作用し、それが単なる質素な保存食の利用や融通にとどまらず、朱塗りの工芸品である会津塗の器や、厳格な具材の数といった洗練された様式美を伴う「もてなしのシステム」へと見事に昇華された点にあります。流通の不便さや地理的な隔絶をむしろ逆手に取り、遠路はるばる外から入ってきた乾物を最高級の贅沢品として体系化し、会津の食文化にまで高めたところに、この土地独自の社会構造が横たわっているのです。
各家庭の台所息づく現在地
現在に至っても、会津若松市内の郷土料理店や歴史ある居酒屋の献立には必ずと言っていいほどこづゆが載せられており、遠方から訪れる観光客もその伝統の味に気軽に触れることができます。しかし、この料理の本質が決して観光向けの特産品という枠にとどまるものではなく、今なお地元の家庭の台所に極めて深く根づいている点にこそ、こづゆが受け継がれてきた原動力があります。正月やお盆、さらには法事といった親族が一同に会する特別な日には、スーパーや地元の土産物店などの店頭にこづゆの具材がセットになった専用のパックが平然と並び、各家庭の台所でそれぞれの伝統的な味付けや具の微調整を行いながら、大きな鍋にたっぷりと仕込まれるのです。里芋のぬめりを丁寧に取るための下茹でや、細かな具材の均一な切り出しといった下ごしらえには、現代においても相応の時間と手間がかかります。そのため、市場にはより簡便なレトルト製品なども流通するようになっていますが、それでもなお血縁や身内をもてなすための象徴としての「手づくり」の価値が損なわれることはありません。雪に閉ざされる冬の厳しい寒さの中で、湯気の立つ温かい椀を家族や親族で囲みながら杯を重ねる光景は、かつての武家社会のしきたりや気風を、現代の身近な日常へと途切れることなく接続させ続けているのです。
遠い海と結ばれた椀の構造
海から遠く離れた山間の盆地という一見すると厳しい地理的条件は、表面的には外部からの文化や物資を遮断・隔絶する要因であるかのように映ります。だが会津の場合には、阿賀川の舟運という細くとも確かな水路を命綱として日本海の北前船ネットワークと直結し、外部から運ばれた稀少な乾物を独自の厳格な様式で定着させることに成功しました。むしろ不便な地勢であるからこそ、一度この盆地の内部に入ってきた物資や慣習が安易に外部へ流出せず、朱塗りの手塩皿や奇数の具材といった細やかな規律とともに、緻密な文化として内部に深く蓄積されていったという側面が見逃せません。干し貝柱の上質な出汁が静かに香る小さな椀の底にあるのは、閉ざされた山国の孤立を示すものではなく、遠く離れた海域の経済と巧みにつながりながら、独自の気風と誇りを守り抜いたこの土地の流通と社会構造の揺るぎない痕跡にほかならないのです。
旅と食が好き。どこにでもいます。