絹織物の町から闘鶏の血を引く銘柄鶏へ、福島県川俣町で川俣シャモが誕生した経緯とは?

絹の織り糸が途切れた山あいで
福島県の中通り北部、阿武隈高地の西側の山間に位置する伊達郡川俣町は、かつて「絹の町」としてその名を馳せた。薄く、軽く、妖精の羽のようだと形容された「川俣シルク」は、明治から大正、昭和にかけて世界中へ輸出され、この小さな町に莫大な富をもたらした。しかし現在、この地を訪れる者が目にするのは、絹織物の看板よりもむしろ、誇らしげに掲げられた「川俣シャモ」の文字である。
一般に、地鶏や銘柄鶏の産地といえば、広大な放牧地を持つ高原や、古くからの農業地帯を想像しやすい。だが、川俣町は耕地面積が少なく、険しい山々に囲まれた土地である。なぜ、極細のシルクを織りなしてきた繊細な手仕事の町で、気性が荒く、闘争本能の塊であるシャモ(軍鶏)が名物となったのだろうか。一見すると、優美な絹と、猛々しい闘鶏は結びつかない。
この疑問に対して、単に「絹産業が衰退したから、代わりに鶏を育てた」という単純な経済シフトの文脈だけで片付けることはできない。なぜなら、養鶏業を始めるにしても、なぜ扱いが極めて難しく、飼育効率の悪いシャモを選ばなければならなかったのかという謎が残るからだ。全国には数多くの地鶏が存在するが、その開発の背景には、土地の歴史と密接に結びついた、ある「娯楽の記憶」が横たわっている。この奇妙な転換の軌跡をたどると、産業の変遷という言葉だけでは括れない、土地の執念のようなものが見えてくる。
機織りの羽音と闘鶏の鳴き声
川俣における絹織物の歴史は古い。諸説あるが、飛鳥時代に崇峻天皇の妃であった小手子(おてこ)皇后がこの地に逃れ、養蚕と機織りの技術を伝えたという伝説が残されている。阿武隈の急峻な地形と冷涼な気候は、稲作には不向きであったが、桑の育成には適しており、結果として養蚕と製糸、そして機織りがこの地の基幹産業となった。
江戸時代には「川俣絹」として羽二重などの高級絹織物が全国に知れ渡り、明治期に入ると輸出産業として急成長を遂げる。大正期から昭和初期にかけては、町中に織機の音が響き渡り、買い付けに来る横浜の生糸商人で宿場は溢れかえった。この時期、町に莫大な富をもたらしたのが、機屋(はたや)と呼ばれる絹織物製造業の経営者たち、いわゆる「旦那衆」であった。
この旦那衆のあいだで、大正から昭和初期にかけて大流行した娯楽があった。それが「闘鶏」である。
闘鶏に用いられるシャモは、タイ原産の「シャム」が江戸時代に日本に伝わり、独自の改良を重ねられた鶏である。鋭い眼光と直立した姿勢、飾らない強靭な脚力を持ち、闘争心が極めて強い。川俣の旦那衆は、競って優秀なシャモを買い求め、自らの庭先で飼育し、その強さを競わせた。強いシャモを持つことは、旦那衆にとってステータスであり、最高級の娯楽であった。町内には闘鶏のためのリングが設けられ、週末ともなれば、織機の音に混じって、男たちの歓声とシャモの鋭い鳴き声が響いたという。
しかし、栄華を極めた川俣の絹産業にも、陰りが見え始める。昭和中期以降、ナイロンなどの化学繊維の台頭、さらには海外からの安価な絹製品の流入により、国内の絹織物市場は急速に縮小していった。最盛期には数百軒を数えた川俣の機屋は、次々と廃業や規模縮小を余儀なくされた。
1980年代初頭、危機感を募らせた川俣町と地元農協、そして有志たちは、絹に代わる新たな特産品の開発を模索し始める。その会議の席上で、誰からともなく出たのが、「かつて旦那衆が飼っていた、あのシャモを食用として復活させられないか」というアイデアであった。
当時、全国的に「地鶏」という概念が注目され始めていた。しかし、シャモは闘争性が強いため群れで飼うことが難しく、肉質が硬いため食用には不向きとされていた。それでも川俣の人々は、かつて町を潤した旦那衆の記憶と、土地に残るシャモの飼育技術に賭けた。1983年、こうして川俣シャモの開発プロジェクトが産声を上げた。
七割五分の血統が描く肉質
食用としてのシャモ開発は、困難の連続であった。シャモは縄張り意識が極めて強く、同じケージに複数羽を入れると、どちらかが死ぬまで闘い続けてしまう。また、成長が遅く、肉量が少ないため、そのままでは採算が合わない。
川俣町が目指したのは、シャモ特有の奥深い旨味と歯ごたえを残しつつ、食用として安定して生産でき、かつ一般の消費者が「美味しい」と感じる肉質であった。この極めて狭い着地点を見出すために、数え切れないほどの交配実験が繰り返された。
たどり着いた結論は、独自の「三元交配」であった。
まず、気性が荒く肉質の引き締まった「赤笹系シャモ」の雄と、肉量が多く肉質が柔らかい「赤色プリマスロック」の雌を交配させる。これで生まれた一世代目の雌(F1)に、再び「赤笹系シャモ」の雄を掛け合わせる。この手法により誕生したのが、現在の川俣シャモである。
この交配方式の最大の特徴は、シャモの血統比率が「75%(四分の三)」に達している点にある。全国にある多くの地鶏が、シャモやその他の在来種を片親に持ち、血統比率が50%にとどまるのに対し、川俣シャモは極めて高い割合でシャモのDNAを引き継いでいる。これが、他の鶏にはない独特の深いコクと、弾力のある歯ごたえを生み出す科学的根拠となっている。
しかし、血統比率が高いということは、それだけ飼育が難しいことを意味する。シャモの野生味が強く残るため、過密な環境で飼育すれば、たちまち互いをつつき合い、傷つけ合ってしまう。
この課題を解決するため、川俣シャモの飼育には徹底した低密度平飼い方式が採用された。
国の定める地鶏肉のJAS規格では、飼育密度は「1平方メートルあたり10羽以下」と規定されている。これに対し、川俣シャモは「1平方メートルあたり5羽以下」という、基準の倍以上の広さを確保している。風通しの良い鶏舎の中で、雛たちはのびのびと走り回り、適度な運動を重ねる。
飼育期間も桁違いに長い。一般のブロイラーが出荷されるまでに要する期間は約50日前後であるが、川俣シャモは雄で110日、雌で120日以上をかけてじっくりと育てられる。倍以上の時間をかけることで、肉繊維が細かく整い、アスリートのように引き締まった肉質へと変化していく。
さらに、与える飼料にも独自の工夫が施されている。阿武隈山系の清らかな伏流水を飲み水とし、トウモロコシやマイロを主体とした植物性中心の飼料に、乳酸菌や酵母などを配合することで、鶏特有 of 臭みを抑え、脂の甘みを引き出している。
これらの血統、環境、時間の三位一体のこだわりが、川俣シャモの肉質を決定づけている。単に「硬い」のではなく、「噛むほどに旨味がにじみ出る」という表現が誇張ではないことを、その飼育プロセスが裏付けている。
三つの名地鶏と、もう一つのシルクロード
川俣シャモの立ち位置をより明確にするために、日本を代表する三大地鶏(比内地鶏、薩摩地鶏、名古屋コーチン)と比較してみる。
秋田県の「比内地鶏」は、国の天然記念物である比内鶏の雄と、ロードアイランドレッドの雌を交配させたもので、血統比率は50%である。きりたんぽ鍋の出汁として知られるように、濃厚な脂の旨味と強い出汁が特徴である。
鹿児島県の「薩摩地鶏」は、日本三大闘鶏の一つである薩摩鶏と、ロードアイランドレッドを交配させたもので、こちらも血統比率は50%。赤みが強く、アミノ酸含有量が高いため、刺身や叩きで食されることが多い。
愛知県の「名古屋コーチン」は、明治時代に中国産の九斤(クキン)と地鶏を交配させて作られた実用種で、純血種として維持されている。肉質は弾力に富み、卵肉兼用種としての歴史を持つ。
これらの名だたる地鶏と比較したとき、川俣シャモの際立った特徴は、やはり「75%」というシャモ血統の濃さにある。比内地鶏や薩摩地鶏が50%の交配によって「扱いやすさと旨味のバランス」をとっているのに対し、川俣シャモは飼育の手間を覚悟の上で、よりシャモ本来の野性味と肉質の強さに舵を切っている。
また、産業史という観点から、他の「絹 of 町」の歩みと比較してみるのも興味深い。
例えば、同じく東日本の代表的な織物産地である群馬県桐生市や、京都府の西陣などは、絹産業の衰退に伴い、観光産業への転換や、ハイテク繊維・精密機械産業への進出を図った。絹の技術を活かしたプラスチック成形や、炭素繊維加工など、工業的なアプローチが一般的である。
これに対し、川俣町のように「かつての旦那衆の娯楽」という、一見すると非生産的な文化遺産を、食肉という全く異なる分野のブランドとして再生させた事例は、全国的にも極めて珍しい。もし川俣に闘鶏の文化がなければ、あるいは旦那衆がシャモを愛していなければ、現在の川俣シャモは存在しなかった。絹がもたらした富と文化の「余白」から、新しい食産業が芽吹いたのである。
阿武隈の風が育む、現在の食卓
現在、川俣シャモの生産と管理は、町や生産者、JAなどが出資する「川俣町農業振興公社」が中心となって行っている。雛の孵化から飼育、加工、販売までを一貫して管理することで、品質のブレを徹底的に排除する体制が整えられている。
しかし、ここまでの道のりは平坦ではなかった。特に2011年の東日本大震災と、それに伴う福島第一原子力発電所の事故は、川俣シャモに壊滅的な打撃を与えた。川俣町の一部地域が避難指示区域に指定され、風評被害によって出荷量は激減した。一時は種鶏(親鶏)を県外へ避難させるなどの苦渋の決断を迫られた。
それでも生産者たちは、30年近くかけて築き上げてきた血統を絶やすまいと、徹底した放射性物質検査を実施し、安全性を証明し続けた。地道な努力が実を結び、現在では震災前の生産水準を取り戻し、首都圏の高級焼き鳥店やフレンチ、イタリアンレストランのシェフたちから「代えのきかない食材」として再び高い評価を得ている。
現地を訪れると、川俣町内の飲食店や道の駅で、様々な形で川俣シャモを味わうことができる。
代表的なのは、シャモのガラを何時間も煮込んで取った黄金色のスープでいただく「シャモラーメン」や、肉の弾力と卵の濃厚さが絡み合う「親子丼」である。また、シンプルに塩だけで焼き上げた串焼きは、噛むたびに口の中に広がる肉汁の濃さに驚かされる。
観光客向けの華やかなメニューの裏で、地元の人々にとっても、川俣シャモはハレの日の食卓に欠かせない存在となっている。お盆や正月など、家族が集まる時期には、シャモの鍋を囲むのが川俣の新しい定番となりつつある。
かつて旦那衆が庭先でシャモの羽ばたきを眺めていた町は、今やその肉の旨味を求めて人々が集う、食の目的地へと姿を変えている。
繊細さと野生が交差する場所で
一見すると、極細のシルクを織りなす「繊細さ」と、強靭な肉体を持つシャモの「野生」は、水と油のように相反するものに思える。しかし、その根底にある歴史的な背景や気風を探ると、両者は驚くほど共通した「手仕事の極致」によって支えられていることがわかる。
川俣シルクが世界に認められたのは、職人たちが温度や湿度を肌で感じ、織機の微細な振動を調整しながら、極限まで細い糸を均一に織り上げる技術があったからである。そして川俣シャモもまた、鶏のわずかな体調の変化を見逃さず、広大な鶏舎の中での力関係に目を配り、120日間という途方もない時間をかけて一羽一羽を仕上げていく、生産者の執拗なまでの目配りによって成り立っている。
対象が「糸」から「命」へと変わっただけであり、この土地の人々が持つ「極限まで突き詰める」というクラフトマンシップの遺伝子は、途切れることなく受け継がれているのである。
かつて世界を魅了した川俣の絹織物工場は、その多くが姿を消した。しかし、かつて旦那衆が愛したシャモは、形を変えてこの地の新たな誇りとなり、今も阿武隈の冷涼な風の中で育まれている。
旅と食が好き。どこにでもいます。