福島県の三つの地域はどのようにして南北の断層と1億年の地史から生み出されたのか?

一億年のマグマと大陸の引き裂かれ
この極端な地形の対比を紐解くには、時計の針を約1億年前、日本列島がまだアジア大陸の一部であった白亜紀まで戻す必要がある。
当時の東アジア大陸の東縁では、太平洋側のプレートが下に潜り込むことで大規模なマグマ活動が発生していた。地下深くでゆっくりと冷え固まった巨大な花崗岩の岩体が、現在の阿武隈山地の骨格を形作ったとされる。この花崗岩体はのちに隆起し、長い歳月にわたって雨風による浸食を受けた。数千万年におよぶ浸食の果てに山々は削り取られ、起伏の乏しい広大な平坦面、すなわち「隆起準平原」となった。阿武隈山地のところどころに見られる大滝根山などの小高く突き出た山(残丘)は、はんれい岩など風化に強い岩石が浸食に耐えて残ったものだ。
しかし、この静かな風化の時代は永遠には続かなかった。約2000万年前から1500万年前頃にかけて、日本列島の地史における最大級の転換点が訪れる。日本海が開口し、日本列島がアジア大陸から引き裂かれて離れていった。
この強烈な引っ張る力(引張テクトニクス)によって、大陸の端にあった岩盤には何本もの巨大な亀裂が入った。地盤が階段状に落ち込んだ部分はハーフグラーベン(半地溝)となり、のちの沈降盆地群の土台が作られた。さらに、日本海の拡大に伴って激しい海底火山活動が起こり、緑色の凝灰岩層、いわゆる「グリーンタフ」が西側の会津から只見地域にかけて広範囲に堆積した。
また、この時期の地殻変動で極めて重要な役割を果たしたのが、東北日本と西南日本を分断する巨大な剪断帯「棚倉構造線」だ。棚倉構造線は、福島県の中中央部を北北西から南南東に向かって斜めに貫いている。
この棚倉構造線は、古第三紀以前の日本列島において、東北日本の地質帯と西南日本の地質帯を画する大構造線である。構造線の西側にあたる八溝山地や奥会津地域には、西南日本内帯や足尾帯に連なるジュラ紀の付加体コンプレックス(古生代や三畳紀の石灰岩やチャートが混ざり込んだ地層)が分布している。一方、構造線の東側にはそうした地質帯は連続せず、まったく異なる阿武隈帯の花崗岩や変成岩が広がっている。棚倉構造線は、日本列島が移動する過程で数百キロメートルにおよぶ左横ずれ運動を起こし、異なる生い立ちを持つ地殻ブロック同士を強引に接合させた縫合線なのだ。
そして約300万年前以降の第四紀になると、プレートの沈み込みに伴う圧縮とマグマの供給によって、奥羽山脈に沿って「那須火山帯」が形成され始める。吾妻山、安達太良山、磐梯山といった2000メートル級の火山が相次いで活動を開始し、大量の溶岩や火砕流を吐き出した。東側の阿武隈山地が1億年前の基盤岩を露出させた静的な岩盤であるのに対し、中通りから会津にかけての西側は、新第三紀の引き裂かれと第四紀の激しい火山活動によって常に塗り替えられ続けてきた動的な地帯であった。
南北の断層線が絞り出した三つの帯
こうして積み重なった複雑な地史が、現在の福島県にどのように規則正しい地形配置をもたらしたのか。その仕組みの鍵を握るのが、南北方向にほぼ平行して走る何本もの大断層帯と、それに挟まれた地盤の昇降運動である。
福島県の東端に位置する浜通りと、その西側に聳える阿武隈山地の境界には、南北に並行する二つの重要な断層が存在する。西側の「畑川断層」と、東側の「双葉断層」だ。
畑川断層は、破砕帯に花崗岩マイロナイト(高圧下で揉み潰されて再結晶した岩石)を伴う構造線であり、この断層を境にして西側の阿武隈帯と、東側の南部北上帯(北上山地と同じ地質的性質を持つ地域)が接している。一方、双葉断層はその東側に位置し、中生代や新第三紀の堆積岩層を画している。これら南北方向の断層運動によって阿武隈山地東縁は急激に立ち上がり、太平洋に向かって断続的な海岸段丘を形成しながら浜通りの低地へと落ち込んでいく。浜通り自体は、新第三紀の砂岩や泥岩が東側にゆるく傾斜する構造を持ち、河川の河口部に形成された氾濫原や溺れ谷地形が広がる軟弱な地盤でもある。
阿武隈山地と、その西側に位置する中通りの境界、そして中通りと奥羽山脈の境界にも、巨大な活断層帯が伏在している。
中通りは、北から福島盆地、郡山盆地、須賀川盆地、白河盆地と、阿武隈川の流域に沿って南北に数個の盆地が数珠つなぎに並ぶ大低地帯だ。この低地帯の西縁には、「福島盆地西縁断層帯」をはじめとする活断層群が走っている。
東側の阿武隈山地が緩やかに隆起を続ける一方で、西側の奥羽山脈も火山活動と地殻変動によって隆起した。その二つの隆起帯に挟まれた中央部が相対的に沈降することで、南北に細長い溝のような窪地が作られた。奥羽山脈の急斜面から流れ出る荒川、須川、松川といった河川は、大量の土砂を盆地内に押し出し、見事な扇状地群を形成した。福島盆地の西側に広がる広大な果樹園地帯は、この活発な活断層運動と河川の土砂供給がもたらした扇状地の上に成り立っている。
さらに奥羽山脈を西に越えると、広大な会津盆地と越後山脈へと至る。
会津盆地もまた、西縁に「会津盆地西縁断層帯」を抱える構造盆地である。盆地の東側は第四紀初期の溶結凝灰岩や磐梯山などの火山噴出物に覆われた高地となっており、西側では新第三紀から第四紀の地層が盆地側へ向かって順次傾斜して落ち込んでいる。
つまり、福島県の「浜通り」「中通り」「会津」という三つの地域区分は、単なる行政区分や文化の区切りではない。東から西へ向かって「阿武隈東縁の断層群」「中通りの沈降帯と西縁活断層」「奥羽脊梁の火山列」「会津盆地西縁の傾斜断層」という、平行に走る巨大な地殻の歪みによって整然と仕切られた、地球物理学的な区画そのものなのだ。
西日本の帯状構造と東日本の歪み
日本列島において、このように南北あるいは東西に地質や地形が帯状に並ぶ構造は、決して福島県だけの現象ではない。しかし、他の地域と比較することで、福島県が持つ独特の地学的なポジションが際立ってくる。
たとえば、西日本を東西に貫く「中央構造線」を考えてみよう。中央構造線は、北側の領家帯(高温低圧型の変成岩と花崗岩)と、南側の三波川帯(高圧低温型の変成岩)という、全く異なる成り立ちを持つ地質帯を直線的に画している。四国の吉野川沿いなどのように、構造線に沿って整然とした直線状の谷や断層崖が形成され、その両側で地質が鮮やかに一変する。
これに対し、福島県の棚倉構造線や双葉・畑川断層は、同じ構造線でありながらより複雑なアスペクトを見せる。棚倉構造線は東北日本と西南日本という巨大な二つの地殻ブロックの境界でありながら、その上を第四紀の白河火砕流堆積物や新第三紀の地層が分厚く覆い隠しているため、地表で巨大な一本の断層崖として現れるわけではない。白河から棚倉、会津へと抜ける地中の影に伏在しながら、東側の阿武隈花崗岩体と西側の足尾帯ジュラ紀付加体という、全く質の異なる基盤岩を裏側で接合させている。
また、同じ東北日本の太平洋側に位置する岩手県の北上山地と、福島県の阿武隈山地を比較すると、両者の微妙な差異が浮き彫りになる。
北上山地は古生代から中生代の堆積岩や変成岩が広く分布し、海岸線は複雑に入り組んだリアス海岸を形作っている。一方、阿武隈山地の主部は白亜紀の巨大な花崗岩体によって占められており、その花崗岩が深く風化して「マサ(真砂)」と呼ばれる砂質の土壌に変質している。阿武隈山地が北上山地に比べて起伏の少ないなだらかな「隆起準平原」の様相を強く呈しているのは、風化しやすい花崗岩が長期にわたって一様に浸食を受けたためだ。そして、その風化花崗岩の東縁に、畑川断層を挟んで北上山地の延長部(南部北上帯)がまるで細い帯のように貼り付いているという構造をなしている。
さらに、中央日本を南北に分断する「フォッサマグナ(中央地溝帯)」との対比も興味深い。フォッサマグナは日本列島が折れ曲がり、古い地殻の間に新しい第三紀の海底火山噴出物が落ち込んだ巨大な沈降帯であるが、福島県の中通りから会津にかけての地域もまた、グリーンタフ変動と第四紀火山の噴出によって形成された「東北日本の中軸沈降帯」の一端を担っている。
西日本に見られる古く安定した地質の帯状配列と、フォッサマグナのようなダイナミックな地殻の割れ目の両方の要素が、棚倉構造線という大縫合線を境目として同一の県内に同居している点に、福島県の地質構造の特殊性がある。
水流が掘り進む岩体と地に刻まれた刻印
こうした気の遠くなるような地史と断層の運動は、現代の旅行者が目にする具体的な風景や、その土地で営まれてきた文化の中にくっきりと姿を現している。
その最も端的な例が、県内を貫いて流れる「阿武隈川」の奇妙な流路だ。
那須連峰の甲子旭岳に源を発した阿武隈川は、中通りを北に向かって流れていく。その道中、川は単に柔らかい土砂の上を流れるだけではない。約140万年前から92万年前頃に噴出した白河火砕流堆積物(白河層)を刻み、須賀川市と玉川村の境界にある「乙字ケ滝」では、サイコロ状の割れ目(柱状節理)を持つ凝灰岩の岩体を激しく突き破っている。
さらに北上した阿武隈川は、二本松市の「稚児舞台」において、阿武隈山地の強固な花崗岩体に突き当たる。普通ならば岩山を避けて迂回するところだが、阿武隈川は莫大な水圧と時間をかけて花崗岩の節理を切り開き、断崖絶壁の切り立った渓谷を作り出しながら突き進む。そして宮城県境の阿武隈渓流に至るまで、硬い基盤岩を何度も強引に穿ち抜いて太平洋へと注ぐ。地殻の隆起運動と河川の浸食作用がせめぎ合った証拠が、この異彩を放つ河川景観なのだ。
地質は、人々の祈りや造形文化にも直接結びついている。
福島県南部、白河から石川町にかけての地域には、江戸時代後期から昭和にかけて作られた躍動感あふれる狛犬が多数残されている。石材に使われたのは、更新世の白河火砕流が溶結してできた「白河石(溶結凝灰岩)」である。緻密でありながら加工しやすいこの石材の存在が、信州高遠からやってきた石工・小松利平や、その弟子である小松寅吉、小林和平らの精緻な技術を受け止め、独特の狛犬文化を花開かせた。
また、県内各地に点在する磨崖仏の多くは、新第三紀の柔らかい凝灰岩やシルト岩の岩壁をくり抜いて彫られている。南相馬市の大悲山磨崖仏は凝灰質砂岩に、福島市信夫山の岩谷観音は凝灰質頁岩に彫られ、平安時代から江戸時代にかけて、震災や冷害、疫病からの救済を願う祈りの場となってきた。阿武隈山地から流れ出す河川が運んだ浜砂鉄は、浜通りにおける古代の製鉄産業を支えた。巨大な地質の骨格は、単なる背景ではなく、この地で生きてきた人々の生活様式や文化の質感を決定づけている。
固い土台と揺れる割れ目の境界で
浜通り、中通り、会津という三つの地域を旅するとき、私たちの目はどうしても気候の違いや歴史的な藩境、あるいは言葉の訛りに囚われがちになる。しかし、その足元に広がる地質に視線を落とすとき、まったく別の時間軸が立ち現れてくる。
阿武隈山地の花崗岩が物語るのは、1億年前の大陸縁辺部で煮えたぎっていたマグマと、その後の途方なさすぎる風化の静寂だ。一方で中通りや会津の盆地群が示すのは、新第三紀の日本列島分裂から現代の活断層・第四紀火山に至る、大地のたゆまぬ破壊と新生の運動である。そしてその二つの世界を、棚倉構造線という巨大な古の縫合線と、南北に走る断層群が分かち、同時に隣り合わせにつなぎ止めている。
かつて古の人々は、棚倉構造線が通る白河の地に「白河の関」を置いた。大和朝廷の勢力圏と、その北に広がる「みちのく」を分ける境界である。日本列島の地質学的な大境界線と、古代国家の社会的な境界線がほぼ同じ場所を通過していたのは、単なる偶然かもしれない。しかし、白河の関の南と北で地質の基盤が変わり、利用できる石材や土壌、地形の起伏が一変していたことを思えば、地形そのものが人々の行動や心理的な境界線を無意識のうちに規定していたとしても不思議ではない。
風化してマサとなった阿武隈の花崗岩、火砕流が固まった白河石、川が花崗岩体を強引に削り取った稚児舞台の断崖。旅の途上で出合うそれらの光景は、それぞれが孤立して存在する風景ではない。それらはすべて、太平洋プレートの沈み込みと大陸の分裂という地球規模の動態が、福島という一つの県土の上に残していった、精密で巨大な構造の断片なのである。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- tohoku-geo.ne.jp
- (福島県)各県の地質:【東北地質調査業協会】tohoku-geo.ne.jp
- 福島県の地形・地盤 : ジオテック株式会社jiban.co.jp
- 地質と川のランドスケープー阿武隈川編ー | 有限会社仲田種苗園eco-plants.net
- 福島の地質と生環境──岩に刻まれた祈りの世界 | 生環境構築史hbh.center
- 福島盆地の地形home.hiroshima-u.ac.jp
- 福島盆地はどうやってできた?~県都・福島市がぽっかり入る盆地 - まっぷるウェブarticles.mapple.net
- 活断層調査成果の概要 - 福島県ホームページpref.fukushima.lg.jp