福島県の「中通り」が複数の小藩や飛び地に細切れにされたのはなぜか?

境界線の引かれなかった国で
福島県という土地を移動していると、一つの県を旅しているという感覚が希薄になる。山脈によって隔てられた会津、中通り、浜通りという三つの地域は、気候も、言葉のイントネーションも、人々の気質も驚くほど異なる。歴史を紐解けば、隣接する宮城の仙台藩や、岩手の南部藩のように、一国を丸ごと覆い尽くすような強大な単一の支配者が、ここにはついに現れなかった。江戸時代、この地には最大で30もの小藩や、他藩の分領と呼ばれる飛び地、そして幕府領がモザイク画のように細かく入り組んでいたのである。なぜ、これほどまでに土地が細切れにされ、統一された「福島藩」のような巨大な主権が生まれなかったのだろうか。単なる中央政権の気まぐれによるものなのか、それとも、この土地が抱える特有の条件がそうさせたのだろうか。
黒川をめぐる青年と天下人の熱
この土地が細分化されていく起点となったのは、戦国時代の末期、二人の男の野心が激突した瞬間であった。一人は米沢城主から身を起こした若き伊達政宗であり、もう一人は天下統一の総仕上げを目論む豊臣秀吉である。
天正12年(1584)10月、伊達政宗は18歳で伊達家の家督を相続する。当時の政宗にとって、米沢から峠を越えた南に広がる会津盆地は、喉から手が出るほど欲しい肥沃な土地であった。会津を支配していたのは、名民の蘆名氏である。政宗は家督相続の直後から会津への侵攻を開始したが、蘆名氏の防戦は固かった。蘆名氏は米沢と会津を結ぶ街道沿いに柏木城(現在の北塩原村)などの堅固な城館を築き、伊達の南下を阻み続けた。
政宗は正面突破を諦め、迂回ルートをとる。彼は数年をかけて、中通りと呼ばれる地域の安達郡や安積郡の国衆たちを調略し、あるいは武力で服属させていった。天正13年(1585)には「人取り橋の合戦(人取橋の戦い)」で過酷な戦闘を経験し、翌天正14年(1586)には二本松領を手中に収める。外堀を埋めるように中通りを制圧していった政宗は、天正17年(1589)6月、ついに磐梯山の麓で行われた摺上原の戦いで蘆名氏の軍勢を撃破する。念願であった黒川(後の会津若松)を占拠し、南奥羽の覇者となった瞬間であった。
しかし、その栄華は長くは続かない。翌天正18年(1590)、小田原の北条氏を降した豊臣秀吉が、大軍を率いて東北へ向かう。これが秀吉の生涯において最初で最後となる東北地方への旅、いわゆる「奥羽仕置」である。
秀吉の進軍ルートは、京都から小田原、宇都宮を経て、白河、長沼、そして会津へと至るものであった。秀吉は会津黒川に到着すると、政宗が武力で切り取った会津の領地を没収し、政宗を米沢へと押し戻した。そして、この東北の要衝である会津を、信頼する子飼いの武将・蒲生氏郷に与えたのである。氏郷は黒川を「若松」と改め、近代的な天守を持つ若松城(鶴ヶ城)を築き、城下町の整備や漆器産業の振興に力を注ぐことになる。
秀吉がわざわざ自ら会津まで足を運び、伊達政宗という危険な牙を持つ大名を遠ざけたという事実は、この土地が持つ地政学的な重要性を何よりも物語っている。関東と東北、さらには日本海側と太平洋側を結ぶ結節点である福島は、一人の強力なローカルヒーローに独占させてはならない「天下の鍵」だったのである。
モザイク状に切り刻まれた「中通り」の地政学
秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が開かれると、福島の土地はさらに細分化の道を歩むことになる。特に「中通り」と呼ばれる阿武隈川沿いの地域は、まるでパズルピースのように細切れにされていった。
蒲生氏郷の死後、会津には慶長3年(1598)に上杉景勝が120万石という巨領を得て入った。しかし、景勝は石田三成と結んで徳川家康に敵対したため、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)8月、領地を30万石に激減されてしまう。この際、会津盆地だけでなく、中通りの北部である信達(しんだつ)地方(現在の福島市や伊達市周辺)も上杉氏の領地(米沢藩の飛び地)として残された。
しかし、この上杉氏による支配も長くは続かなかった。寛文4年(1664)5月、米沢藩主の上杉綱勝が後継者を定めないまま急死するという事態が発生する。通常であれば改易(お家潰し)のところ、吉良上野介義央の仲介などもあって、綱勝の甥である綱憲が末期養子として認められ、藩の存続は許された。ただし、その代償として領地は15万石へと半減される。この時に召し上げられたのが、肥沃な信達地方であった。
信達地方は、上杉氏の手を離れて幕府領(天領)となる。幕府は代官として伊奈半左衛門を派遣し、直轄支配を開始した。しかし、幕府はここを単一の「天領」として維持し続けたわけではない。
ここから、信達地方をめぐる「村替え(領地替え)」の狂騒曲が始まる。延宝7年(1679)には本多忠国が福島藩主として入るが、わずか3年後の天和2年(1682)には姫路へと移され、再び幕府領に戻る。その後、貞享3年(1686)には堀田正仲が入り、元禄13年(1700)に山形へ移されるとまたも幕府領へ。そして元禄15年(1702)12月、板倉重寛が福島3万石の領主として定着することになる。
しかし、板倉氏の福島藩は、信達地方のほんの一部を支配しているに過ぎなかった。同じ信達地方の中には、梁川藩などの小藩が成立したほか、白河藩(久松松平氏)の分領、関宿藩(現在の千葉県野田市)の分領、足守藩(現在の岡山県岡山市)の分領、さらには新発田藩(現在の新潟県新発田市)の分領までもが入り乱れていた。
例えば、寛保1年(1741)には上飯坂村など17ヵ村が白河藩の分領となり、延享4年(1747)には前田村など9ヵ村が関宿藩の分領となった。寛政12年(1800)には、村替えによって足守藩の分領25ヵ村が出現している。
なぜ、これほどまでに遠方の藩の「飛び地」がこの地に集められたのか。それは、幕府が阿武隈川の舟運や奥州街道という極めて重要な交通路を監視し、かつ、東北の有力大名(特に仙台藩の伊達氏)に対する緩衝地帯とするためであった。一つの強力な藩がこの地を支配すれば、それは関東への脅威となる。だからこそ、複数の藩に領地を細分化して分け与え、お互いに牽制し合わせる必要があった。中通りのモザイク模様は、幕府の徹底した安全保障政策の現れだったのである。
他藩との比較で際立つ「主不在」の自律
このような「細分化された領国」という特徴は、周辺の他の地域と比較することで、その特異性がより鮮明に浮かび上がる。
例えば、北に隣接する仙台藩伊達氏62万石や、さらに北の盛岡藩南部氏20万石は、江戸時代を通じてほぼ一画一円の巨大な領国を維持し続けた。これらの大藩では、藩主の強力な指導力のもと、領内の一元的な新田開発や、専売制による産業統制が行われた。領民にとって「お殿様」は絶対的な存在であり、藩の政策がそのまま地域社会の隅々にまで行き渡る構造になっていた。
それに対して、福島、特に中通りの信達地方では、「お殿様」の存在感が極めて希薄であった。領主が数年ごとに交代するか、あるいは数百キロメートルも離れた岡山や千葉に本拠地を持つ藩の「分領」であったため、現地の農民や商人にとって、藩主ははるか遠い存在に過ぎなかった。現地の陣屋に派遣されてくる数少ない役人は、年貢の徴収さえ滞りなく行われれば、領内の細かい内情や産業に深く介入する余裕も、またその意欲も持ち合わせていなかった。
この「主不在」とも言える状況が、かえって地域社会の強烈な自律性と、民衆主導のダイナミズムを生み出すことになる。その最たる例が、新田開発を支えた大規模な用水路「西根堰(にしねぜき)」の開削である。
信達盆地の西部に広がる甲子原(こうしばら)は、阿武隈川の支流である松川や荒川の氾濫原であり、水持ちが悪く、長年不毛の地とされていた。この地に水を引くため、元和4年(1618)に佐藤新右衛門が「西根下堰」を完成させ、さらに寛永9年(1632)には古河善兵衛が「西根上堰」を完成させた。
これらは、藩が莫大な予算を投じて主導した公共事業ではない。地元の有力者である佐藤や古河が、自らの財産と知恵を投げ打ち、上杉氏(当時はまだ上杉領であった)の許可を得て、農民たちを組織して成し遂げた民間の大事業であった。
また、寛文10年(1670)に河村瑞賢が阿武隈川の舟運ルートを整備し、渡辺友意らが改修を重ねたことで、信達地方は一躍、東北の内陸部と江戸を結ぶ物流のハブへと成長する。この舟運の活性化も、特定の藩による専売や統制が緩かったからこそ、多様な物資が自由に行き交うオープンな市場として機能したのである。支配者が細切れであった事実は、逆説的に、民衆が自らの力でインフラを整え、経済を回していく自由な空間をこの土地に与えることとなった。
桑の葉と蚕のシートが紡いだ自立の経済
この「主不在」の自律性が、最も華々しく結実したのが、信達地方を全国ブランドへと押し上げた「養蚕・蚕種(さんしゅ)」産業である。
信達地方の気候風土は、桑の栽培に適していた。しかし、それを一大産業へと育て上げたのは、領主の保護政策ではなく、農民たちのハングリー精神と技術革新であった。安永2年(1773)1月、信達地方は幕府から「奥州蚕種本場」の公認銘を勝ち取る。これは、他地域で作られた質の劣る蚕種が自らのブランドを騙るのを防ぐための、農民たちの粘り強い交渉の成果であった。
さらに、技術の体系化も民間から生まれた。天明3年(1783)には佐藤友信が、自らの経験を基にした実用的な養蚕指導書『養蚕茶話記』を著す。そして嘉永2年(1849)には、中村善右衛門が『蚕当計秘訣』を著した。「蚕当計(さんとうけい)」とは、彼が考案した養蚕専用の温度計である。それまで経験と勘に頼っていた蚕の温度管理を、科学的な数値によって標準化し、誰でも高品質な蚕種を生産できるようにした画期的な発明であった。
もし、この地が仙台藩のような強力な一元支配のもとにあり、厳しい専売制が敷かれていたならば、農民たちがこれほど自由に技術を開発し、市場の需要に応じて取引を行うことは難しかっただろう。足守藩や関宿藩といった遠方の領主たちは、信達地方の農民がどれほど豊かになろうとも、年貢さえ規定通りに納められれば、その商業活動に口を挟むことはなかった。
主が遠いという地政学的な「弱み」を、農民たちは市場経済へいち早く適応し、自らの手でブランドを確立する「強み」へと見事に転換させたのである。福島、特に中通りの豊かさは、藩主から与えられたものではなく、藩主が干渉してこない空間で、自らの知恵によって築き上げたものであった。
現代に残る「モザイク」の精神性
福島県立博物館や福島県歴史資料館(福島市)を訪れると、その収蔵資料の多様さに驚かされる。例えば、二本松藩の重臣を務めた安井家に伝わる「安井健夫家文書」などには、藩政の克明な記録とともに、国学者でもあった安井時明が収集した名所図会や歴史写本が数多く残されている。これらは、細分化されたそれぞれのコミュニティが、独自の知的ネットワークや文化的アイデンティティを深く耕していた証左に他ならない。
福島の歴史を振り返るとき、私たちは一つの偉大な藩主や、統一された「福島の物語」を見出すことはできない。描かれるのは、会津の武士たちが磨き上げた峻厳な美学であり、中通りの農民たちが西根堰の泥にまみれて築いた不屈のフロンティア精神であり、それぞれの飛び地でたくましく生き抜いた人々のモザイク画である。
現在、福島を旅する者が目にする、地域ごとの景観や気質の鮮やかな違い。それは、かつて天下人が警戒し、幕府が細切れに切り刻んだあの境界線の名残りである。しかし、その細分化された土地の隙間からこそ、民衆主導の堰が穿たれ、科学的な養蚕の温度計が生まれ、独自の文化が芽吹いた。一人の巨大な主を持たなかったこの国は、自らの手で歩むことを選んだ無数の主たちによって、今もなお、その豊かな多様性を保ち続けている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 道中絵図にみる秀吉の通った道 | 福島県立博物館 Fukushima Museumgeneral-museum.fcs.ed.jp
- 総合展示室 | 福島県立博物館 Fukushima Museumgeneral-museum.fcs.ed.jp
- 福島県立博物館 | 八重が生まれた「時代」 | 八重のふるさと、福島県yae-mottoshiritai.jp
- 体験・イベント - 福島県立博物館 | SAMURAI CITY AIZUWAKAMATSUsamurai-city.jp
- 人物シリーズ②伊達政宗と会津攻め | 福島県立博物館 Fukushima Museumgeneral-museum.fcs.ed.jp
- 福島県歴史資料館fcp.or.jp
- 福島県歴史資料館fcp.or.jp
- 略年表/福島市公式ホームページcity.fukushima.fukushima.jp