2026/6/27
「薬」から「ブランド牛」へ、近江牛400年の変遷

近江牛の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
江戸時代、肉食が禁忌とされる中、彦根藩で「薬」として牛肉が扱われた歴史を持つ近江牛。近江商人の活躍や鉄道網の発達を経て、現代の三大和牛としての地位を確立するまでの道のりを辿る。
彦根藩が育んだ「薬」としての牛肉
近江牛の歴史は、他の和牛ブランドと比較しても際立って長い。その起源は、江戸時代初期にまで遡る。当時の日本では仏教の影響が強く、殺生が忌避され、公然と肉食を行うことは禁じられていた。しかし、そのような時代にあって、近江国を治めていた彦根藩は、特別な事情から牛肉の生産と利用を許されていたのだ。
彦根藩が牛肉を扱えた背景には、幕府への献上品としての「牛皮」の存在があった。彦根藩は毎年、陣太鼓などに用いる牛皮を幕府に献上する慣例があり、そのために藩内で牛の屠殺が公式に認められていたのである。この役目を果たす過程で生じる牛肉を無駄にしないための工夫として、肉の加工技術が発達していく。1687年(元禄元年)には、彦根藩士・花木伝右衛門が、中国の薬学書『本草綱目』を参考に、牛肉を味噌漬けにした「反本丸(へんぽんがん)」を考案したと伝えられている。これは、滋養強壮の薬として、彦根藩主井伊家から江戸の将軍家や諸大名へと献上された。牛肉を「薬」という名目で食す「薬食い」という文化は、このようにして近江の地で育まれた。
当時の書物には「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒、中を安んじ気を益し、脾胃を養い腰脚を補益す」といった記述があり、反本丸が補養薬として認識されていたことがうかがえる。また、味噌漬けだけでなく、寒中に作られる「寒の干牛肉」も存在した。これは塩分を控えめにするため、一年で最も寒い1月上旬から節分までの約1ヶ月間を選んで製造されたという。これらの加工品は、彦根藩の特殊な立場と、肉を無駄にしないという実用的な知恵から生まれたものであり、後の近江牛ブランドの礎を築いたと言えるだろう。江戸時代末期には、彦根藩内で年間1000頭から3000頭もの牛が屠畜され、「彦根牛」として東海道沿線で販売する店もあった記録が残されている。
近江商人が拓いた流通の道
明治時代に入り、文明開化とともに肉食が解禁されると、近江の牛肉は新たな展開を見せる。江戸時代に「役牛」として農耕や運搬を支えてきた牛たちは、食肉としての需要が高まる中で、その価値を大きく変えることになった。この変革期において重要な役割を担ったのが、各地で活躍した近江商人たちである。
滋賀県蒲生郡竜王町出身の竹中久治と西居庄蔵は、その代表的な人物だ。西居庄蔵は、横浜に外国人が多く居住し牛肉を好んで食べることを知り、1869年(明治2年)には滋賀から横浜まで牛を陸路で運び、外国人との直接取引を開始した。続いて竹中久治は1879年(明治12年)に東京へ進出し、1885年(明治18年)には浅草に牛肉問屋兼牛鍋屋「米久」を開業し、「江州牛」として日本人の間にも牛肉食を広めた。
しかし、この時期には「近江牛」という名称はまだ一般的ではなかった。明治初期、滋賀県で生産された牛は、神戸港を経由して東京へ出荷されることが多く、その輸送経路から「神戸牛」として流通していた時期があったのだ。当時の慣習として、出荷港の名前がブランド名となることがあったため、原産地に関わらず「神戸牛」と称されることが少なくなかったという。
転機が訪れたのは、鉄道網の発達である。1889年(明治22年)に東海道本線が全線開通し、近江八幡駅が設けられると、翌1890年(明治23年)からは東京への牛肉の陸路輸送が直接可能となった。これにより、次第に「近江牛」という名称が使われ始め、その名が広まっていくことになる。1906年(明治39年)には上野公園で開催された全国家畜博覧会で、蒲生郡産の近江牛が1位を獲得し、東京市民の耳目を集めることとなる。これを契機に「近江牛」ブランドは本格的にその地位を確立し始めたのだ。
その後も、近江牛の品質向上とブランド確立に向けた努力は続けられる。1951年(昭和26年)には、銘柄牛肉を振興する団体としては日本で初めて「近江肉牛協会」が設立され、近江牛のPRや販路拡大に尽力した。そして、長い歴史を持つ近江牛だが、その明確な定義や商標が法的に保証されたのは比較的最近のことである。2005年(平成17年)12月に「品種」「原産地」による「近江牛」の定義が初めて確定し、2007年(平成19年)には商標として正式に登録された。これは、400年以上にわたる伝統が、現代の制度の中で正式なブランドとして確立された瞬間であった。
霜降りの先にある土地の条件
近江牛が日本三大和牛の一つとして、神戸牛や松阪牛と並び称される背景には、その長い歴史だけではない、土地固有の条件と肥育の工夫がある。三大和牛の中でも、近江牛は400年以上の歴史を持つとされ、神戸牛の約130年、松阪牛の約100年と比較しても圧倒的に古い。この歴史の長さは、単なる時間の経過ではなく、その土地で培われてきた技術と経験の積み重ねを意味する。
近江牛の肥育地である滋賀県は、日本最大の湖である琵琶湖を抱え、周囲を流れる400以上の河川が豊かな水資源と肥沃な土壌をもたらしている。古くから稲作が盛んであったこの地では、稲作の副産物として大量の稲わらが発生し、これが牛の飼料として活用されてきた歴史がある。稲わらは、牛の消化器系に良い影響を与え、肉質のきめ細かさや風味の豊かさに寄与すると言われている。また、琵琶湖周辺の気候は、夏は暑すぎず、冬は適度な寒さがあり、牛がストレスなく健康的に育つ理想的な環境を提供する。澄んだ水と豊かな牧草も、近江牛の品質を支える重要な要素だ。
近江牛の肉質は、きめ細かく、柔らかで、口溶けの良い脂が特徴である。これは、他の和牛と比較してオレイン酸の含有量が多いことにも起因すると言われている。オレイン酸は不飽和脂肪酸の一種で、融点が低く、肉の風味に大きく影響するとされる。この特徴的な肉質は、滋賀県が古くから肉牛肥育の先進地であったことと無関係ではない。大正時代から昭和初期にかけて、滋賀県では畜牛肥育試験が行われ、合理的な肥育法を指導監督するための「肥育指導牛」制度や、地域で肥育法を実践する「畜牛団体肥育指導」制度が整備されるなど、国の牛肥育技術の基礎を形成する上で貢献してきた。
現代の近江牛の定義では、滋賀県内で最も長く飼育され、かつ最終飼養地が滋賀県である黒毛和種であることが求められる。ストレスを与えない飼育環境や、肥育中期以降に稲わらを主飼料として給与するなどの飼養管理マニュアルが定められ、高品質な牛肉生産が維持されている。これらの積み重ねが、近江牛独特の、霜降りと赤身のバランスが取れた上品な味わいを生み出すのだ。
三大和牛、それぞれの成り立ち
日本三大和牛として「近江牛」「神戸牛」「松阪牛」が挙げられるが、その歴史的背景やブランド形成の過程には、それぞれ異なる特徴が見られる。近江牛が江戸時代からの「薬食い」という特殊な経緯を持つ一方で、神戸牛と松阪牛は明治以降の肉食文化の普及とともにブランドを確立していった。
神戸牛のルーツは、兵庫県産の但馬牛にある。但馬牛は古くから役牛として利用されてきたが、明治時代に神戸港が開港し、外国人が牛肉を食するようになると、その肉質が注目された。神戸港から輸出される牛肉が「KOBE BEEF」として世界的に知られるようになり、そこからブランドが確立されていった経緯がある。神戸牛は、但馬牛の中でも特に厳しい基準を満たしたものだけが認定される、厳選されたブランドである。均一で美しい霜降りと、豊かな風味が特徴とされる。
松阪牛は、三重県松阪市周辺で肥育される和牛で、特に未経産の雌牛に限定されることが多い。その歴史は、明治時代後期から大正時代にかけて、但馬地方から導入された雌の子牛を松阪地域で肥育するようになったことに始まる。松阪牛の特徴は、きめ細やかな霜降りと、甘みのある脂が織りなす濃厚な旨みとされている。牛舎での穀物肥育や、ビールを飲ませるといった独自の飼育方法が知られているが、これは肉質を向上させるための工夫として取り入れられたものだ。
これら三大和牛は、いずれも黒毛和種を素牛としている点では共通しているが、ブランド形成の契機と背景が異なる。近江牛は、禁忌の時代に「薬」として生き残ったという特異な歴史を持ち、その後の流通経路の変化とともに「近江牛」の名を確立した。一方、神戸牛は開港という国際的な窓口、松阪牛は肥育技術の追求という、それぞれの地域が持つ条件や人々の努力が、現在のブランドを築き上げたと言える。共通して言えるのは、地域の自然環境と、牛を育てる人々の長年の経験と技術が、それぞれの和牛の品質を支えているという点だろう。
今、近江の牧場で
現代において、近江牛は滋賀県を代表するブランド産品として、国内外で高い評価を得ている。現在、滋賀県内には約80の牧場で近江牛が肥育されており、特に近江八幡市や東近江市を中心とする東近江周辺地域に集中している。年間に出荷される頭数は約6000頭とされ、一頭一頭に手間と愛情、そして高い技術が注がれている。
近江牛の肥育においては、牛がストレスなく健康に育つ環境が重視されている。琵琶湖周辺の豊かな水資源と肥沃な大地、そして穏やかな気候は、牛にとって理想的な環境を提供する。飼料には、地元の稲作で得られる稲わらを中心に、栄養バランスに配慮された自家配合飼料が与えられる。また、自動給餌機や情報通信技術(ICT)を用いた哺乳ロボット、発情発見器など、近代的な技術も導入されており、伝統と最新技術が融合した肥育が行われている。
2017年(平成29年)12月には、近江牛は地理的表示保護制度(GI)に登録された。これは、その品質や評価が産地に結びついていることを国が保護する制度であり、近江牛のブランド価値を一層高めるものとなった。滋賀県は、肥育牛の飼養頭数において全国でも上位に位置しており、特に1戸当たりの飼養頭数は国内トップレベルである。これは、良質な素牛を県外から導入し、匠の技術で肥育してきた「肥育主体県」としての歴史が背景にある。
一方で、近江牛を取り巻く環境には課題も存在する。全国的に銘柄牛肉の数が増加し、産地間競争が激化する中で、近江牛のブランド力をさらに強化する必要性が指摘されている。消費者の健康志向の高まりを受け、霜降りの美しさだけでなく、赤身肉本来の旨みを追求する牧場も現れるなど、時代に合わせた進化が求められている。また、国内外への輸出も積極的に行われており、アジアを中心に販路を拡大している。滋賀県や関係団体は、統一的なPR活動や安全・安心な流通体制の確立を通じて、近江牛の持続的な発展を目指している。
時代を超えて残るもの
近江牛の歴史を辿ると、日本の食肉文化がたどってきた道のりの特異性が浮き彫りになる。肉食が禁じられた江戸時代に、彦根藩という特殊な環境下で「薬」として牛肉が細々と生き延びたこと。その後の明治維新を経て、近江商人たちの手によって全国へと広められ、鉄道網の発達とともに「近江牛」の名が確立されていったこと。この物語は、単なる食の歴史ではなく、社会の変化、人々の知恵、そして土地の条件が複雑に絡み合い、一つの文化を形成していった過程を示している。
現代の近江牛が持つ、きめ細やかな肉質と口溶けの良い脂、そして芳醇な香りは、琵琶湖の豊かな水と肥沃な大地、そして長年にわたる肥育技術の積み重ねによって生み出されている。それは、かつて「反本丸」として将軍家へ献上された牛肉の、滋養強壮という側面とは異なる価値観で評価されているが、その根底には、牛を大切に育み、その恵みを最大限に活かそうとする人々の姿勢が通底している。
三大和牛の中で最も古い歴史を持つ近江牛は、その長い時間の中で、役牛としての役割から「薬」としての利用、そして「食肉」としての価値へと、社会の要請に応じて姿を変えてきた。この柔軟性と適応力こそが、近江牛が現代までブランドとして存続し続ける所以だろう。近江牛は、単なる高級食材ではなく、日本の歴史と文化、そして地域の人々の営みが凝縮された、生きた証である。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。