2026/7/2
明石海峡を見張る巨大な影、五色塚古墳の歴史

兵庫県の垂水の歴史を教えて欲しい。
キュリオす
兵庫県最大の五色塚古墳は、4世紀末から5世紀初頭に築かれた前方後円墳。淡路島からの石材運搬や畿内中枢部と共通する埴輪から、ヤマト政権の海上交通掌握戦略との関連が指摘される。古代の「海の門番」の役割を今に伝える。
明石海峡を見張る巨大な影
神戸市垂水区五色山に位置する五色塚古墳は、全長194メートルを測る兵庫県最大の前方後円墳である。築造は4世紀末から5世紀初頭、古墳時代中期の頃と推定されている。海抜約60メートルの高台に築かれ、眼下には明石海峡と淡路島、そして遠く四国までを見渡すことができる立地だ。その巨大な姿は、海上を行き交う船からも容易に視認できたはずである。
この古墳の特筆すべき点は、その規模だけではない。墳丘は三段に築かれ、斜面には約223万個もの葺石が敷き詰められていたと推定されている。葺石の総重量は約2,784トンにも及び、その多くは明石海峡の対岸、淡路島北東岸から運ばれた斑糲岩(はんれいがん)と推定されている。 『日本書紀』神功皇后紀には、淡路島の石を運んで「赤石(明石)」に陵を築いたという伝承が記されており、この考古学的な事実はその記述を裏付けるものとして注目される。 また、墳丘の各段や墳頂部には、総数2,200本もの円筒埴輪や形象埴輪が並べられていたと考えられている。 これらの埴輪には、全国でも約60例しか確認されていない「鰭(ひれ)付き円筒埴輪」も含まれており、大和政権の中枢で用いられた権威の象徴とされている。
五色塚古墳は、大正10年(1921年)に国の史跡に指定された。 その後、1965年(昭和40年)から10年の歳月をかけて、日本で初めて築造当時の姿に復元整備された古墳としても知られている。 この復元事業は、当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)が主導し、「古墳は樹木に覆われた鬱蒼とした森である」という従来の概念を打ち破り、「築造当時の姿はいかなるものか」という問いに向き合った結果であった。 復元された古墳は、古代の土木技術の粋を集めた雄大な姿を現代に伝えている。
海とヤマトを結ぶ要衝の物語
五色塚古墳がこの地に築かれた背景には、明石海峡が持つ地理的条件と、当時のヤマト政権の動向が深く関係している。明石海峡は、瀬戸内海と大阪湾を結ぶ海上交通の要衝であり、畿内から西国、さらに朝鮮半島や中国大陸へと向かう航路の玄関口でもあった。 複雑な潮流を持つ明石海峡を安全に航行するためには、高度な航海技術と海路の知識が不可欠であり、この海域を掌握する者は大きな力を持ち得た。
五色塚古墳の被葬者は不明であるが、その規模と立地から、明石海峡やその周辺を支配した有力な豪族、あるいはヤマト政権から派遣された人物であったと推測されている。 特に、淡路島から大量の石材を運搬し、大和政権の中枢で用いられた特殊な埴輪を配置している点は、被葬者が単なる地方豪族ではなく、ヤマト政権と密接な関係を持ち、その強力な後ろ盾を得ていたことを示唆している。
『日本書紀』の記述には、神功皇后が朝鮮半島から大和へ帰る途中、明石海峡で暴風雨に遭い、綿津見三神を祀ると嵐が治まったという伝承や、麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)が神功皇后に謀反を企て、仲哀天皇の陵を築くと偽って五色塚古墳に兵士を集めたという話も残されている。 これらの伝承は、真偽はともかくとして、明石海峡が古代において軍事的・政治的に重要な意味を持っていたことを物語っている。五色塚古墳の築造は、ヤマト政権がこの地の海上交通を掌握し、西への門戸を固めるための戦略的な意味合いを持っていた可能性も指摘されているのだ。
畿内と地方を結ぶ巨大墳墓の役割
五色塚古墳のような巨大な前方後円墳が、畿内の中枢部ではなく、明石海峡を望む垂水の地に築かれたことには、当時のヤマト政権の広域支配戦略が見て取れる。畿内政権は、その勢力を拡大する過程で、各地の要衝に強力な首長を配置し、あるいは直接的な支配を及ぼそうとした。五色塚古墳は、その戦略の一環として、明石海峡という交通の要衝を監視・管理する役割を担った豪族の墓として機能した可能性が高い。
墳丘の規模や、淡路島からの石材運搬、そして畿内中枢部でしか見られないような特殊な埴輪の存在は、被葬者がヤマト政権から高い地位を与えられ、その威信を背景に巨大な墳墓を築くことができたことを示している。 また、五色塚古墳の周辺には小壺古墳をはじめとする複数の古墳が確認されており、舞子浜遺跡からは五色塚古墳の被葬者と関連するとされる20基以上の円筒埴輪棺が見つかっている。 これらは、この地域の豪族集団が、五色塚古墳の被葬者を中心とした強固な階層秩序を形成していたことを示唆しているだろう。
さらに、五色塚古墳の築造は、単なる権力の誇示に留まらなかった。これほどの規模の墳墓を築くには、膨大な労働力と資材、そして高度な土木技術が必要となる。淡路島からの石材運搬は、大規模な海上輸送ネットワークと組織力を要したはずだ。このプロジェクト自体が、地域の経済活動を活性化させ、技術の伝播を促すとともに、ヤマト政権の権力を地域住民に強く印象付ける効果を持ったと考えられる。 五色塚古墳は、畿内と地方を結ぶ政治的・経済的な関係性を示す、具体的なモニュメントであったのだ。
海洋国家の記憶を刻む墳墓群
五色塚古墳が明石海峡に面して築かれたこと、そしてその規模や副葬品に見られる特徴は、日本の他の主要な古墳群と比較することで、より鮮明になる。例えば、大阪平野に広がる百舌鳥・古市古墳群のような大王墓に連なる巨大古墳は、広大な平野部を背景に、農業生産力と広域支配を象徴する形で築かれた。これに対し、五色塚古墳は生産基盤となる耕作地がほとんどない海岸段丘上に位置している。 この立地の違いは、被葬者の権力の源泉が、陸上支配よりも海上交通の掌握にあったことを強く示唆している。
九州北部や山陰地方の出雲など、古代から海上交易や海洋技術に優れた地域にも、独自の古墳文化が見られる。しかし、畿内政権との関係性において、五色塚古墳ほど直接的かつ大規模な関与が認められる例は少ない。五色塚古墳の埴輪が畿内中枢部の有力古墳と共通の規格性を持つことや、淡路島からの石材運搬に『日本書紀』の記述が重なることは、この古墳がヤマト政権の広域支配ネットワークに組み込まれた、「海の門番」のような存在であったことを示す。
一般に、地方の大型古墳は、その地域の独自性と中央政権の影響が混在する形で築かれることが多い。しかし、五色塚古墳の場合は、畿内政権の意向が強く反映された「計画的な築造」であった可能性が指摘されている。 これは、明石海峡という地理的要衝が、ヤマト政権にとってそれほどまでに重要であったことの証左だろう。他の地域が自立的な首長の伸長によって巨大古墳を築いたのとは異なり、垂水の巨大古墳は、中央の戦略的な必要性から生み出されたという側面が強い。
現代の風景に息づく古代の威容
現代の垂水において、五色塚古墳は単なる歴史的遺構に留まらない存在である。JR神戸線や山陽電鉄の線路が古墳のすぐ脇を走り、その周囲には住宅街が広がる。 現代の都市景観の中に、突如として古代の巨大な構造物が現れるその光景は、訪れる者に強い印象を与えるだろう。
五色塚古墳は1975年(昭和50年)に復元整備が完了し、古墳公園として一般に公開された。 墳丘の上まで整備された歩道を登ることができ、そこからは明石海峡大橋と淡路島を一望できる。 古代の土木技術の結晶である古墳と、現代の土木技術の粋を集めた明石海峡大橋が並び立つ風景は、約1650年の時を超えた対比を見せている。 2026年4月には、古墳の歴史を詳しく解説するガイダンス施設「五色塚古墳館」も開館し、映像展示や体験コーナーを通じて、より多角的に古墳の魅力を伝える試みがなされている。
古墳の隣には、直径70メートルの円墳である小壺古墳も国の史跡として隣接しており、これらを合わせて「五色塚(千壺)古墳 小壺古墳」と称される。 小壺古墳は五色塚古墳とほぼ同時期に築造されたと推定されており、両古墳は一体となってこの地域の古代の姿を今に伝えている。 これらの古墳は、垂水が古代から現代に至るまで、明石海峡を介した交通と交流の拠点であり続けたことを示す、生きた証である。
古代の視線が捉えた明石の海
垂水の五色塚古墳を巡ることで見えてくるのは、単に巨大な墓という事実だけではない。そこには、古代の人々が明石海峡をどのように捉え、その支配にどれほどの価値を見出していたかという視点がある。畿内の大王墓が広大な平野の奥に鎮座するのに対し、五色塚古墳はあえて海を見下ろす高台に築かれた。この選択は、被葬者が陸上の富だけでなく、海上交通を掌握することこそが自らの権力の源泉であり、その威光を示す最良の手段であると考えていたことを示唆する。
また、淡路島から運ばれた大量の葺石や、畿内中枢部のものと共通する規格の埴輪は、この地の豪族がヤマト政権の広域支配ネットワークの中で、いかに重要な役割を担っていたかを示す具体的な証拠である。 五色塚古墳は、単なる地方豪族の墓ではなく、ヤマト政権の「海の玄関口」を守るための、戦略的な意味合いを持つ巨大プロジェクトとして位置づけられていたのかもしれない。その壮大な墳丘は、現代の明石海峡大橋と並び立ち、古代と現代の土木技術の到達点と、そして変わることのない明石海峡の重要性を静かに語り続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。