2026/7/2
串本でトビウオが豊漁なのは黒潮と地形、そして漁法が鍵だった

串本で飛魚がいっぱい獲れるのはなぜ?
キュリオす
和歌山県串本町でトビウオが多く獲れるのは、本州最南端に位置し黒潮の恩恵を受ける地理的条件、複雑な海岸線と潮目、そして伝統的な棒受け網漁法が複合的に作用しているためである。
潮岬の沖、海を舞う魚の理由
和歌山県串本町の海岸線に立つと、太平洋の広がりを肌で感じる。本州最南端に位置するこの地は、常に黒潮の気配をまとっている。沖合に目を凝らせば、時折、銀色の魚体が水面を滑空する姿を目にすることがある。それが「トビウオ」だ。なぜこの串本の海で、これほどまでに多くのトビウオが獲れるのか。その背景には、この地の地理的条件と、黒潮が織りなす海の営み、そして人々との関わりが深く横たわっている。
黒潮が運ぶ豊かな歴史
串本におけるトビウオ漁の歴史は、古くからこの地の生活に根ざしてきた。江戸時代後期に編纂された『紀州続風土記』には、串本の海産物として鰹節やアジ、そして飛魚が挙げられている。当時からトビウオが重要な食料源であり、漁業の対象であったことが窺えるだろう。串本は本州最南端に位置し、古くから好漁場として知られてきた。その要因は、世界最大級の暖流である黒潮の存在に他ならない。黒潮は年間を通じて温暖な海水をもたらし、多様な魚種を育む環境を形成する。串本は、その黒潮の恩恵を直接的に受ける地域であり、回遊魚の通り道にあたるため、古くから漁業が盛んであった。
明治時代に入っても、串本村の主要な産業として漁業が栄え、明治10年頃の記録では、家数451軒のうち漁業を主とする家が110軒を数える。海産物の中には、鰹節、アジ、サヨリ、ウナギ、マグロなどと並んで飛魚が記載されており、その重要性は変わらなかったようだ。漁業の発展は、地域経済の基盤を築き、串本が単なる漁村から、次第に商業的な拠点へと変貌していく契機ともなった。
かつては、トビウオ漁だけでなく、カツオ漁も盛んであり、ハワイへの移住者が持ち帰ったとされる「カツオのケンケン釣り漁法」が串本で始まり、全国に広まったという歴史もある。このように、串本の漁業は常に新しい技術を取り入れながら発展し、黒潮の恵みを最大限に活かしてきたのだ。トビウオは単なる魚介の一つではなく、串本の海の豊かさ、そしてその豊かさを支えてきた人々の暮らしと技術の証であると言えるだろう。
三つの条件が呼ぶ群れ
串本でトビウオが多く獲れる理由は、複数の地理的・海洋学的条件が複合的に作用しているためである。第一に挙げられるのは、やはり黒潮の存在だ。トビウオは熱帯から温帯の暖かい海域に生息する魚であり、黒潮に乗って日本近海に北上してくる回遊魚である。串本は本州最南端に位置し、黒潮の流路に直接面しているため、トビウオの主要な移動経路にあたる。黒潮が接岸している時期には、特に多くのトビウオが沿岸部に集まる傾向があるという。
第二に、複雑な海岸線と地形も要因である。串本はリアス式海岸が発達しており、沖合を流れる黒潮だけでなく、その内側には沿岸流も存在する。この黒潮と沿岸流の境目、いわゆる「潮目」は、プランクトンが豊富に発生する場所であり、それを餌とするトビウオが集まりやすい。トビウオは主に動物プランクトンを食べるため、餌が豊富な環境は彼らにとって好都合なのだ。また、トビウオの産卵期は初夏から秋にかけてであり、この時期には産卵のために沿岸の浅い海域に近づくことが知られている。卵は漂う藻に絡みついて孵化するため、沿岸部の藻場や漂流物が豊富な環境も、トビウオの繁殖にとって重要な要素となる。
第三に、串本独特の漁法も、トビウオの漁獲量を支える一因である。串本では、夜間に集魚灯を点灯し、光に集まってくるトビウオを網で掬い取る「棒受け網漁」が伝統的に行われてきた。 トビウオは夜間には比較的おとなしくなる傾向があり、集魚灯の光に誘われて水面に浮上する習性があるため、この漁法が効率的なのだ。また、トビウオは捕食者から逃れるために水面を滑空するが、時には勢い余って漁船に飛び込んでくることもある。 これらの生態的特性を熟知した漁師たちの技術と、地域に根ざした漁法が、串本のトビウオ漁を支えているのである。
海を舞う魚の多様な姿
トビウオは世界に約50種、日本近海だけでも30種弱が知られているが、その漁獲と利用は地域によって大きく異なる。太平洋側の串本でトビウオが多く獲れる一方で、日本海側でもトビウオ漁は盛んである。例えば、島根県ではトビウオが「県の魚」に指定されており、九州地方では「アゴ」と呼ばれ、古くから出汁の材料として重宝されてきた。
九州や日本海側で「アゴ」と呼ばれるトビウオは、その濃厚な旨味から、粉末だしやめんつゆ、だしパックなど加工品の原料として広く流通している。長崎県の「五島うどん」のように、あごだしを使った郷土料理も存在するほどだ。 これは、トビウオの漁獲量が多いこと、そしてその地域で古くから食文化に組み込まれてきた歴史を示すものと言える。
一方、伊豆七島には「飛魚の豊漁は天草の不作」という諺が伝わる。これはトビウオの漁獲量と、寒天の材料となる海藻の収穫が不思議な相関を示すというもので、その理由は定かではないものの、地域に深く根ざした自然観を映し出す。 また、屋久島では「ロープ引き漁」という、2隻の漁船が円状に漁網を張り、漁師が海に飛び込んでトビウオを網に追い込む独特の漁法も存在した。
このように、トビウオは日本各地の沿岸に姿を現すが、その捕獲方法や利用のされ方、あるいは地域社会との関わり方は多様である。串本の場合、特に「棒受け網漁」に代表される漁法と、温暖な黒潮がもたらす生態系が、トビウオの豊富な漁獲量を可能にしている。他の地域が加工品としての利用や、特定の漁法に特化する中で、串本は回遊魚としてのトビウオの特性を活かし、漁獲そのものを地域の重要な産業としてきた点が特徴的だ。トビウオが単なる海の幸ではなく、その土地の気候、歴史、文化と深く結びついた存在であることが、これらの比較から見えてくる。
沖合の光と町の賑わい
現在の串本においても、トビウオ漁は町の重要な産業の一つである。串本漁港には約180隻の漁船が登録されており、その多くがカツオのケンケン漁やトビウオの棒受け網漁に従事している。 漁獲量は他県と同様に変動はあるものの、串本漁協では年間を通じて様々な魚種が水揚げされ、トビウオもその中に含まれる。
近年では、トビウオを地域のブランドとして確立しようとする動きもみられる。2006年には「串本地域ブランド推進会議」が発足し、トビウオを「トッピー」という愛称でキャラクター化し、地域活性化に繋げようとする取り組みが始まった。 これは、単に漁獲するだけでなく、トビウオが持つ物語性や地域の魅力を消費者に伝えようとする試みである。また、観光客向けには「トビウオ掬い」といった体験プログラムも提供されており、夜の海で集魚灯に集まるトビウオを網で掬う体験は、串本ならではの風物詩となっている。
しかし、漁業を取り巻く環境は決して安泰ではない。全国的な漁獲量の減少や、漁業者の高齢化、後継者不足といった課題は、串本も例外ではない。和歌山県全体の海面漁業の漁獲量は、平成に入ってから減少傾向にあり、ピーク時と比較して大幅に減少している状況だ。 その中で、串本は黒潮の恵みを活かし、多様な魚種を対象とすることで、漁業の持続可能性を模索している。トビウオはその多様な魚種の一つとして、これからも串本の海の恵みを象徴する存在であり続けるだろう。
潮目の先に続く問い
串本でトビウオが多く獲れるのは、黒潮の流路に位置し、多様な回遊魚が集まる地理的条件、そしてトビウオの生態を熟知した伝統的な漁法が組み合わさった結果である。しかし、この事実から見えてくるのは、単なる「多獲」の理由だけではない。
トビウオが「海の表層を遊泳し動物プランクトンを食べ、大型魚に追われて滑空する」という生態は、串本の海が豊かな生態系のサイクルの中に位置していることを示唆している。黒潮が運ぶ豊かな栄養分、それを基盤とするプランクトンの増殖、そしてそれを食べるトビウオ、さらにトビウオを捕食する大型魚といった食物連鎖が、この海域で活発に機能しているのだ。
また、トビウオの卵が漂流する藻に付着して孵化するという特性は、沿岸部の環境がトビウオの再生産にとって極めて重要であることを物語る。つまり、沖合の黒潮だけでなく、串本の複雑なリアス式海岸が形成する沿岸の環境もまた、トビウオの豊富な資源を支える不可欠な要素なのだ。
串本のトビウオ漁は、単に魚を獲る行為に留まらず、黒潮という地球規模の海流、そして地域のきめ細やかな沿岸環境が織りなす、生きた生態系の循環の中に位置している。トビウオの群れを目にするとき、それは沖合の壮大な流れと、足元の穏やかな入り江が一体となって育む、この地の海の豊かさを静かに示しているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 空飛ぶ魚の卵の命綱|獣医師ふー:獣医中毒情報ポータル(JVPIP)note.com
- トビウオ - Wikipediaja.wikipedia.org
- トビウオとは?美しい“海の翼”の正体|旬・味・飛ぶ理由を徹底解説 | 宇都宮商店utsunomiya-store.com
- 飛び魚掬い | 串本ダイビングショップ pole pole @ seapole-pole.wakayama.jp
- @inakagurashi-kushimoto.jp
- サカナで地域活性化:和歌山県串本は『トビウオの町』 すくい取りも人気 | TSURINEWStsurinews.jp
- 海生研/海の豆知識 Vol.24 トビウオkaiseiken.or.jp
- 地域ブランドNEWS by ブランド総合研究所tiiki.jp