2026/6/4
鎌倉大仏はいつ、なぜ露座になった?二度の造立と自然の猛威

鎌倉の大仏について詳しく知りたい。いつできたものなのか?
キュリオす
鎌倉大仏は、木造から青銅製へと二度造立された。度重なる自然災害で大仏殿が失われ、現在の露座の姿になった経緯を、奈良の大仏との比較を交えながら辿る。
鎌倉の長谷を歩くと、住宅地の合間にふと異質な気配が漂う。木々が鬱蒼と茂る先に、巨大な青銅の塊が鎮座しているのが見えるとき、多くの人はその威容に思わず足を止めるのではないか。青空の下、風雨にさらされながら座し続けるその姿は、周囲の風景と溶け込みながらも、圧倒的な存在感を放っている。日本の仏像としては珍しく、屋根のない「露座」の姿で知られる鎌倉大仏。この銅像阿弥陀如来坐像は、いつ、どのような経緯でこの地に生まれ、なぜ今のような姿になったのだろうか。その問いは、鎌倉という地の歴史そのものに深く根ざしている。
鎌倉大仏の歴史は、大きく二度の造立を経て現在に至る。最初の仏像は、現在の青銅製ではなく木造であった。鎌倉幕府第三代執権である北条泰時の晩年にあたる暦仁元年(1238年)、僧の浄光が全国から浄財を集める「勧進」を行い、大仏とそれを納める大仏殿の造営が始まったとされる。浄光は東大寺復興に尽力した重源の影響を受けていたと伝えられる僧であり、民衆からの寄付を募ることでこの一大事業を推し進めたのだ。木造の大仏は五年後の寛元元年(1243年)に完成し、開眼供養が行われた。
しかし、この初代木造大仏の運命は短かった。完成からわずか四年後の宝治元年(1247年)、大風によって倒壊してしまったのだ。 この破損を受け、より永続的な素材での再建が検討されることとなる。そして建長四年(1252年)、現在の青銅製大仏の鋳造が開始された。 誰が発願し、誰が主導したのかは明確な史料が残されていない部分もあるものの、源頼朝の侍女であった稲多野局が発起人となり、浄光が勧進を行ったという説や、鎌倉幕府が関与したという見方もある。 鋳造は複数回に分けて行われ、文永元年(1264年)には金峰山寺蔵王堂鐘銘に「新大仏鋳物師丹治久友」の名が見えることから、この頃までには完成していたと考えられている。 完成当初の大仏は金箔で覆われ、黄金色に輝いていたという。
現在の鎌倉大仏が屋根のない「露座」の姿であることは、多くの人が抱く疑問の一つだろう。しかし、造立当初からその姿であったわけではない。青銅製の大仏も、奈良の大仏と同じように巨大な大仏殿の中に安置されていたのだ。現在、大仏の周囲に残る礎石は、かつて壮大な伽藍が存在した証しである。
この大仏殿は、度重なる自然災害によってその姿を変えていった。建武元年(1334年)と応安二年(1369年)には、記録によれば大風によって倒壊している。 その都度再建が試みられたようだが、決定的な出来事が室町時代後期に起こった。明応七年(1498年)に発生した大地震とその後の津波である。 この災害によって大仏殿は押し流され、以降、再建されることはなかった。 鎌倉は海岸線に近く、地震や津波、台風の影響を受けやすい土地であったことが、その背景にある。
ただし、この明応の津波で大仏殿が流失したという通説には、近年異論も提示されている。「梅花無尽蔵」という禅僧・万里集九の詩集には、明応の地震の九年前、文明十八年(1486年)の時点で既に大仏が「無堂宇而露坐突兀(堂宇なくして露座突兀たり)」、つまり屋根のない姿であったと記されているのだ。 この記述が事実であれば、明応の津波で大仏殿が流されたという話は、後世に語り継がれる中で変化した可能性も考えられる。いずれにせよ、度重なる災害によって大仏殿が失われ、再建が叶わなかった結果、鎌倉大仏は現在の「露座」の姿となったのである。
日本には鎌倉大仏以外にも、奈良の東大寺に鎮座する大仏がよく知られている。両者はともに巨大な青銅製の仏像であるが、その背景や性格にはいくつかの違いが見られる。
まず、祀られている仏の種類が異なる。奈良の大仏は宇宙の真理を象徴する盧舎那仏(るしゃなぶつ)であるのに対し、鎌倉大仏は西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来坐像である。 像の規模も異なり、奈良の大仏が像高約14.98メートル、重量約250トンであるのに対し、鎌倉大仏は像高約11.3メートル、重量約121トンと、奈良の方が一回り大きい。
さらに、その建立の動機と経緯にも違いがある。奈良の大仏は、聖武天皇の勅願によって国家的な事業として造立されたもので、当時の不安定な世情を鎮め、国家の安泰を願う意図が強かった。 一方、鎌倉大仏は、僧の浄光による勧進、つまり広く民衆からの寄付を集めることで造立されたという性格が強い。 幕府の関与も推測されるが、民衆の信仰心と浄財が大きな原動力となった点は、奈良とは異なる民衆主導の側面があったと言えるだろう。
鋳造技術にも相違が見られる。奈良の大仏が「削り中型」という、粘土の中型を削りながら鋳型を重ねていく方法であったのに対し、鎌倉大仏は「割型」と呼ばれる方法で鋳造されたと考えられている。 これは、大仏の原型から外型と中型を別々に作り、これらを組み合わせて鋳造する技法である。鎌倉大仏の内部を拝観すると、複数回に分けて鋳造された継ぎ目である「鋳からくり」の痕跡を間近に見ることができ、当時の職人たちの高度な技術と工夫がうかがえる。
鎌倉大仏は、1958年(昭和33年)に国宝に指定され、その境内一帯は「鎌倉大仏殿跡」として2004年(平成16年)に国の史跡に指定されている。 800年近い歳月、風雨にさらされながらも、その像容は造立当初の姿をほぼ保っているとされる。
現代においても、大仏は定期的なメンテナンスと耐震補強が施されている。大正14年(1925年)には台座が補修され、昭和35年(1960年)から36年(1961年)にかけては、台座と仏像の間にステンレス板を敷く免震構造が導入された。 これは、大地震の際に大仏がステンレス板上を滑ることで、本体へのダメージを防ぐ効果を狙ったものだ。また、地震の衝撃に弱いとされる頸部も、胎内から強化プラスチックで補強されている。
かつては金箔で覆われていたというが、長年の風雨にさらされ、現在は青銅の持つ落ち着いた緑青色を呈している。 この緑青は、青銅が自らを守る安定した皮膜であり、劣化ではなく、像が環境とともに生きてきた証ともいえるだろう。 胎内拝観も可能で、内部からは鋳造の継ぎ目や補強の様子を直接見ることができ、当時の技術を肌で感じられる。 年間200万人以上の参拝者が訪れ、そのうち約20万人が外国人観光客だという。
鎌倉大仏の歴史をたどると、単なる巨大な仏像というだけでなく、幾度もの自然災害と、それに対する人々の再建への意思、そして最終的には「露座」という形で自然を受け入れた姿が見えてくる。当初、木造で造られ、台風で倒壊したこと。その後、より堅牢な青銅製で再建され、大仏殿に納められたにもかかわらず、再び大風や津波によって大仏殿が失われたこと。これらの出来事は、時の権力や人々の信仰がいかに強固であっても、自然の猛威の前では脆いものであったことを示している。
しかし、大仏そのものは、その都度修復され、形を変えながらもこの地に座し続けてきた。特に、大仏殿が失われた後も大仏がそのまま露座として残され、それが今日まで受け継がれてきたという事実は、人々の信仰の対象が、特定の建物や形式に縛られない、より本質的なものへと移行していった過程を示唆しているのではないか。屋根のない青空の下、雨風に打たれ、雪に覆われ、あるいは桜や紅葉に彩られるその姿は、自然と一体となり、普遍的な存在としての祈りの形を静かに問いかけてくる。それは、大仏が単なる文化財を超え、この土地の歴史と人々の営みを映し出す鏡のような存在であるからだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。