2026/6/4
鎌倉の谷戸を守った文人たちと古都保存法

鎌倉から歴史的建造物の保存の活動が始まったと聞いた。経緯を詳しく知りたい。
キュリオす
戦後、鎌倉で進んだ宅地開発の危機に対し、大佛次郎らが保存運動を展開。その結果、1966年に古都保存法が制定され、歴史的風土の保存が進められた経緯を辿る。
鎌倉の町を歩くと、どこか特別な空気が漂っているように感じる。狭い谷戸に寺社が立ち並び、その背後には鬱蒼とした緑の山が迫る。一歩路地に入れば、石段の先にひっそりと佇む古刹や、鎌倉石を積んだ趣のある塀が見えてくる。この独特の景観は、単に古いものが残っているという以上に、意図的に「護られてきた」痕跡を強く感じさせる。なぜ、この地でこれほどまでに歴史的建造物や自然景観の保存が、早くから、そして強く意識されるようになったのだろうか。その問いは、日本の歴史的な風景をいかに守るかという、普遍的なテーマへと繋がっていく。
鎌倉が今日の景観を保つに至るまでには、幾度かの危機と、それを乗り越えようとする人々の動きがあった。戦後、高度経済成長期を迎える日本では、各地で急速な都市開発が進行した。鎌倉もその例外ではなく、特に1950年代後半から1960年代にかけて、宅地造成や観光開発の波が押し寄せたのである。市街地から少し離れた山間部、いわゆる「谷戸」と呼ばれる地形は、それまで手つかずの自然が残る場所だったが、ここが住宅地として開発の標的となった。特に鶴岡八幡宮の裏山にあたる御谷(おやつ)や、寺社の多い深沢、梶原といった地域では、山を削り、谷を埋め立てる大規模な開発計画が次々と持ち上がったのである。こうした動きは、鎌倉の歴史的風致を根底から揺るがしかねないものだった。かつて源頼朝が都市計画の基盤を築き、多くの寺社が建立されたこの地は、地形と歴史が一体となった景観を形成しており、その地形が改変されることは、歴史そのものが失われることに等しいという危機感が募っていった。
鎌倉の景観が危機に瀕した際、その保存を訴える声は、地元住民だけでなく、この地にゆかりのある文化人たちからも上がった。作家の大佛次郎や川端康成、吉田健一といった人々は、古都の風情が失われることへの強い懸念を表明し、積極的に保存運動に関わった。特に大きな転換点となったのは、1964年頃に持ち上がった鶴岡八幡宮裏山(御谷)の宅地開発計画である。この計画に対し、大佛次郎らが中心となり「鶴岡八幡宮裏山と鎌倉の風致を守る会」を結成。開発の差し止めを求める署名活動を展開し、世論に訴えかけた。彼らの活動は、単なる感情的な反対運動ではなく、鎌倉が持つ歴史的・文化的価値を具体的に示し、それが失われることの重大性を社会に問いかけるものだった。こうした動きが国会を動かし、1966年、「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」、通称「古都保存法」が制定されるに至る。この法律は、歴史的風土を保存すべき古都として鎌倉、京都、奈良などを指定し、開発行為の規制や土地の買い上げなどを通じて、その景観を守ることを目的とした画期的なものだった。
鎌倉における歴史的建造物や景観の保存活動は、全国の他の古都や歴史的地域におけるそれと比較すると、いくつかの特徴が見えてくる。例えば、京都や奈良も古都保存法の指定を受けているが、これらの都市では、より大規模な社寺や都市計画の遺構が中心となり、その保存は比較的明確な対象を持っていたと言えるだろう。一方、鎌倉は、寺社仏閣だけでなく、谷戸という複雑な地形に点在する中世の武家屋敷跡、そしてそれらを取り巻く里山の自然景観が一体となって「歴史的風土」を形成している。そのため、単一の建造物保護に留まらず、広範な自然環境までを含めた「面」での保存が強く意識された点が鎌倉の特色である。これは、宅地開発の波が直接的に里山の地形改変を伴ったことへの反動とも言える。
また、保存運動の主体にも違いが見られる。京都では、伝統産業や老舗の文化、そして住民の生活に深く根ざした町並み保存が、行政や地元経済界との連携の中で進められてきた側面がある。対して鎌倉では、大佛次郎や川端康成といった「外部」から来た文化人が、開発の危機に際して強いリーダーシップを発揮し、全国的な世論を喚起した点が際立っている。これは、観光地としての鎌倉の知名度や、多くの文化人が移り住んでいたという土地柄が背景にあるだろう。彼らは、単に自分の住む場所を守るだけでなく、日本全体にとっての古都の価値を問い直す役割を果たした。この「外部の視点」と「地元の危機感」が結びつき、古都保存法という強力な法整備へと繋がったのである。
古都保存法が制定されてから半世紀以上が経過した現在、鎌倉の景観はどのように保たれているのだろうか。古都保存法に基づく「歴史的風土特別保存地区」や「歴史的風土保存区域」の指定により、開発行為は厳しく規制され、また国や県による土地の買い上げも進められてきた。これにより、鶴岡八幡宮の裏山をはじめとする多くの谷戸には、今も豊かな緑が残り、それが鎌倉の独特の雰囲気を形成している。しかし、保存活動はこれで終わりではない。指定区域外での開発圧力は依然として存在し、また、保存区域内の私有地における高齢化や管理の問題など、新たな課題も生まれている。
一方で、保存活動は観光という側面にも影響を与えている。鎌倉を訪れる人々は、単に寺社を巡るだけでなく、ハイキングコースとして整備された山道を歩き、谷戸の風景やそこから見下ろす相模湾の景色を楽しむことができる。これは、かつて宅地開発から守られた緑地が、現代において新たな価値を生み出している姿と言えるだろう。しかし、観光客の増加が、かえって静かな歴史的風土に負荷をかけるというジレンマも抱えている。
鎌倉の歴史的建造物や景観の保存は、単に過去の遺産を守るという行為に留まらない。そこには、開発の波に抗し、未来に何を残すべきかを問い続けた人々の意志が刻まれている。古都保存法の成立は、特定の建造物だけでなく、それを取り巻く自然環境、すなわち「歴史的風土」を保護するという、当時としては先進的な視点を持っていた。これは、鎌倉の複雑な谷戸地形と、そこに築かれた歴史が不可分であるという認識に根ざしている。
今日、鎌倉を歩くと、開発を免れた森や、住宅地の奥にひっそりと残る古刹の風景に出会う。それは、かつて大規模な宅地造成計画があったという事実を思えば、ある種の奇跡にも見える。しかし、その奇跡は、大佛次郎らの具体的な行動と、それを支えた世論、そして最終的に法整備へと繋がった制度の力によって実現されたのだ。鎌倉の保存活動が示しているのは、歴史的な景観は自然に保たれるものではなく、常に変化の圧力に晒され、そのたびに「何を守るか」が問われ、具体的な行動と制度によって守られてきたという事実である。この問いは、現代においても、そして未来においても、日本の各地で繰り返されるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。