2026/6/4
道志村の歴史:縄文から横浜の水源地になるまで

道志村のあたりの歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
山梨県道志村の縄文時代からの歴史を辿る。豊富な森林と清流に恵まれたこの地は、江戸時代には林産物やアユで栄え、近代には横浜市の水源地としてその価値が認識された。横浜市による水源林の直接所有・管理は、村の自然環境保全と都市との独特な関係性を築き上げてきた。
山梨県東南端に位置する道志村に足を踏み入れると、まず耳に届くのは、村の中央を縫うように流れる道志川の清らかな水音だろう。山深い渓谷に沿って細長く続くこの村は、東西およそ28キロメートルに及び、古くから「道志七里」と呼ばれてきた。一里(約4キロメートル)ごとに塚が置かれたというその呼称は、かつての旅人がこの地の広がりを実感した証左かもしれない。村の面積の約95パーセントが山林で占められ、標高差は400メートルから900メートルに及ぶ。この地形が、村の東西で季節の移ろいに約一ヶ月のずれを生じさせるという。
首都圏から車で90分圏内というアクセスの良さを持つ一方で、深い山に抱かれたその風景は、どこか隔絶された印象も与える。 しかし、この山村がただの辺境ではなかったことは、その歴史を紐解くと明らかになる。なぜ道志村は、これほどまでに豊かな自然、特に清冽な水を保ち続け、遠く離れた大都市の「水源」としての役割を担うことになったのか。その問いは、この地の成り立ちそのものに深く関わっている。
道志村の歴史は、遥か縄文時代にまで遡る。村内からは神地遺跡や池之原遺跡といった縄文時代の遺跡が複数発見されており、押型文土器や石器が出土しているのだ。 中でも神地遺跡からは「縄文の女神」と名付けられた顔面把手付土器が発見されており、この地が古くから人々の生活の場であったことを物語る。 豊かな森林と清流に恵まれたこの地は、縄文人にとって狩猟採集の好適地であったのだろう。
平安時代に入ると、「道志」という地名の由来とされる説が浮上する。それは、当時の裁判官と警察官を兼ねた強力な職権を持つ「検非違使」のうち、「明法道院を卒業し、『志』に任じられ検非違使を兼ねる者」を「道志」と呼んだことに端を発するというものだ。 その「道志」の姓を持つ人物が甲斐国の山峡に入り、この地を治めたことが、村名の起源とされている。
中世には、道志村は甲斐国東部の「郡内」と呼ばれる地域に属していた。この郡内地方は、戦国時代には甲斐武田氏と深い関係を持っていた小山田氏によって治められていた記録が残る。 道志の地は、甲斐と相模を結ぶ重要な交通路の一部でもあり、軍事的な要衝として、あるいは物資の往来の道として機能していた可能性も指摘できる。
江戸時代になると、道志村は谷村藩領となり、その後1704年(宝永元年)からは幕府直轄領(天領)となった。 この時期、村は「道志七里」という東西に細長い形状を特徴とし、村内には32の小字が6つの組に編成され、組ごとに名主が置かれるという独特の組支配が敷かれていた。 これは、村が広範囲に点在する集落によって構成されていた実情を反映しているのだろう。
この時代の道志村の経済を支えたのは、豊富な森林資源であった。村人たちは「七色山稼ぎ」と呼ばれる山仕事に従事し、木材をはじめ、炭、雑器、笹板、杓子、箸、下駄といった木製品を生産していた。 これらの林産物は、津久井(現在の神奈川県相模原市緑区)の荒川番所を経て外部へと移出され、村の貴重な現金収入源となっていたのだ。 また、清流道志川で獲れるアユは「御菜鮎」として江戸幕府に献上されるほど珍重され、その質の高さは広く知られていた。 狩猟も盛んに行われ、江戸時代には17丁もの鉄砲所持が代官所から許可されていたという記録も残る。 これらの記述から、道志村が単なる隔絶された山村ではなく、山と川の恵みを最大限に活用し、外部との交流を通じて独自の文化と経済を築いていたことが窺える。
道志村の歴史を特徴づける最も重要な要素の一つは、その清冽な水と、それによって結ばれた遠隔の都市との関係であろう。道志川の源流域にあたるこの村は、年間平均2052ミリメートルという豊富な降雨量に恵まれ、それが豊かな森林を育み、極めて良好な水質を生み出してきた。 この水の清らかさは、かつて「赤道を越えても腐らない水」とまで称賛されたほどであった。
この道志川の水に目をつけたのが、近代化を進める横浜市である。明治30年(1897年)、横浜市は上水道の取水口を相模川から道志川へと移し、道志川の水を市民の生活用水として利用し始めたのだ。 これは、人口増加と都市化が進む横浜にとって、安定した良質な水源を確保するための喫緊の課題であり、道志村の水の価値が国家的な規模で認識された瞬間であったと言える。
しかし、単に取水するだけでは、水源の安定性は保てない。水質を維持し、水量を確保するためには、流域の森林を健全な状態に保つことが不可欠であった。そこで横浜市は、大正5年(1916年)に、道志村の山林を取得するに至る。 現在、横浜市水道局が所有する道志水源涵養林は、村の総面積の約36パーセントにあたる2,873ヘクタールにも及ぶ広大なものだ。 この水源林は、100年以上にわたり横浜市によって管理・保全され、都市の生命線としての役割を担い続けている。
この水源林の存在は、道志村の姿を決定づける要因となった。広大な森林が保全されることで、村は開発による大きな変容を免れ、豊かな自然環境が維持されてきたのだ。一方で、村の経済活動にも影響を与えたことは想像に難くない。かつて村の主産業であった林業は、1960年代頃までは盛んであったが、1970年代以降は段階的に衰退していく。 その背景には、木材需要の低迷や外材の流入といった全国的な要因に加え、水源林としての厳格な管理体制も少なからず影響しただろう。
しかし、横浜市との関係は、単なる水源地の提供と管理に留まらなかった。2003年には、道志村から横浜市への合併申し入れが行われるという動きもあったものの、距離的な問題などから実現には至らなかった。 その後、2004年(平成16年)には「横浜市と道志村の友好・交流に関する協定書」および「横浜市民ふるさと村に関する覚書」が締結され、両者の関係はより多角的なものへと発展していく。 これは、水という共通の資源を通じて、都市と山村が互いに協力し、文化交流を深めるという、日本国内でも稀な関係性の構築を意味した。道志村の歴史は、その地勢的な条件と、遠い都市の水の需要という二つの要素が絡み合い、形成されてきたと言えるだろう。
山間部の集落が、遠隔の大都市の水源地となる例は、日本各地に存在する。例えば、東京都の多摩川上流に位置する奥多摩地域や、大阪の琵琶湖、あるいは各地のダム湖周辺の山村などが挙げられるだろう。これらの地域もまた、水の供給という重要な役割を担い、そのために自然環境の保全が図られてきた歴史を持つ。しかし、道志村と横浜市の関係には、いくつかの特異な点が見られる。
一つは、横浜市が道志村の広大な森林を「直接所有」し、水源林として管理している点だ。 多くの水源地では、水利権の確保や水源林保全のための協力協定、あるいはダム建設に伴う補償といった形で都市と水源地が結びつく。もちろん、そうした形でも森林の保全は進められるが、道志村のケースは、都市が自ら山村の土地を取得し、長期的な視点で直接的な管理を行ってきた点で、その関与の深さが際立つ。これは、横浜が近代都市として発展する上で、安定した水源をいかに重要視したかを示す具体的な行動であった。
次に、道志村の「道志七里」という地理的・文化的特性が挙げられる。 東西に細長く、集落が点在するこの形状は、一つの大きな盆地にまとまった集落が形成される一般的な山村とは異なる。この分散した構造が、各集落がそれぞれ独自の山稼ぎや生活様式を営む基盤となり、外部からの影響を受けつつも、それぞれの地域性が維持されてきた背景にあるのではないか。横浜市による水源林の直接管理は、この分散した村全体の自然環境を包括的に保全する効果をもたらしたとも考えられる。
さらに、道志川の水の「赤道を越えても腐らない」という伝説的な評価が、横浜市がこの地を水源に選定する決定打となった可能性も指摘できる。 他の地域にも清流は存在するが、これほど明確な「品質保証」のような伝承が、遠隔の都市の選択に影響を与えた例は珍しい。この水への信頼が、100年以上にわたる関係の基盤を築いたと言えるだろう。
これらの比較から見えてくるのは、道志村が単に「水が豊かな山村」というだけでなく、その地理的形状、歴史的な生活様式、そして何よりも水質の卓越性が、遠隔の都市との間に他に類を見ない強固な関係を築き上げてきたという構図である。その関係は、都市の発展と山村の保全という、一見すると対立しそうな二つの目的を、水という媒介を通じて共存させてきた歴史を物語る。
現在の道志村は、その豊かな自然環境を活かした観光業が主要な産業の一つとなっている。村内には30以上のキャンプ場が点在し、「キャンプ場銀座」と呼ばれるほど、関東圏を中心に多くのアウトドア愛好家が訪れる。 清流道志川での渓流釣りも人気で、アユやヤマメ、イワナなどを目当てに多くの釣り人が訪れるのだ。 国道413号線沿いに設けられた「道の駅どうし」は、村の特産品であるクレソンをはじめ、新鮮な地元農産物を販売し、観光客と村民の交流の場となっている。 道志村産のクレソンは、全国トップクラスの出荷量を誇る特産品である。
一方で、村の人口は2026年5月時点で1,416人(推計)であり、他の多くの山村と同様に過疎化の課題に直面している。 かつての主産業であった林業は、1970年代以降衰退したが、近年では「道志・森づくりネットワーク」のようなNPO団体が活動し、間伐材を村内の温浴施設「道志の湯」の薪ボイラー燃料として活用する「木の駅」プロジェクトなど、林業の再生と地域内エコシステムの構築に向けた取り組みが進められている。 これは、荒廃が進む人工林を整備し、水源涵養機能の健全化を図るとともに、地域経済の活性化を目指すものだ。
横浜市との関係も、現代において形を変えながら続いている。2004年に締結された「横浜市と道志村の友好・交流に関する協定書」に基づき、横浜市民は道志村の施設利用料割引などの優待を受けられるほか、「横浜市民ふるさと村」として両者の交流が深められている。 道志村の児童が横浜市に招かれるなど、次世代への水の教育と交流も行われているのだ。
交通網も整備が進み、圏央道相模原ICの開通により都心からのアクセスはさらに向上した。 また、国道413号のバイパス化も進められており、首都圏と富士山麓地域を結ぶ主要な通り道としての機能が強化されつつある。 自然と共生しながら、地域資源を活かし、遠隔の都市との特別な関係を維持していく。道志村の現代の営みは、そのような多層的な側面を内包している。
道志村の歴史をたどると、一つの村が持つ「隔絶性」と、都市との「接続性」が、時を経てどのように絡み合い、現在の風景を形作ってきたかが見えてくる。深い山々に囲まれた地形は、古くから独自の文化と生業を育む土壌となり、「道志七里」という呼称に象徴されるように、自立した集落群を形成してきた。 しかし、その隔絶性は、清冽な道志川の水という稀有な資源によって、遠く離れた横浜という大都市と結びつくことになる。
この接続は、単なる資源の提供にとどまらなかった。横浜市による水源林の直接所有と管理は、村の自然環境を大規模な開発から守り、その「隔絶された」状態を積極的に維持する作用をもたらした。これは、近代の都市が、自らの生命線を確保するために、いかに広範な視野で自然と向き合ったかを示す事例と言える。一般的に山村が直面する過疎化や産業の衰退といった課題に対し、道志村は横浜市との水の縁を通じて、自然環境の保全という明確な目的と、それに伴う支援や交流という独自の道を歩んできたのである。
道志川の渓流に架かる吊り橋から、あるいは山道の途中で見かける間伐された森林の光景は、単なる自然のままの姿ではない。そこには、縄文時代から続く人々の営みと、近代以降の都市との関係、そして現代に生きる人々が未来へと水を繋ぐための、地道な努力と選択が積み重なっている。道志村の歴史は、山と水、そして人と都市が織りなす、複雑で持続的な物語なのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。