2026/6/8
石川県、鎌倉・室町時代の「民衆の国」誕生の背景

石川県の歴史について詳しく知りたい。鎌倉・室町時代。
キュリオす
石川県の鎌倉・室町時代に焦点を当て、加賀国で守護大名の支配を覆し「百姓の持ちたる国」が生まれた背景を探る。畠山氏と富樫氏の守護支配、浄土真宗の広がり、そして一向一揆の台頭がその鍵となる。
金沢の兼六園を歩き、城下町の風情に触れるとき、多くの人は江戸時代の加賀百万石の栄華を思い描くだろう。しかし、その華やかさの足元には、鎌倉から室町にかけての激しい動乱期を生き抜いた人々の歴史が横たわっている。なぜこの地は、日本の他の地域とは異なる道を歩むことになったのか。とりわけ加賀国では、守護大名の支配を覆す、稀有な「民衆の国」が生まれた。その背景には、何があったのだろうか。
鎌倉時代に入ると、朝廷の支配が弛緩する中で、源頼朝が開いた鎌倉幕府が全国に守護と地頭を配置し、各地の支配体制を確立していった。現在の石川県にあたる加賀国と能登国もその例外ではない。能登国には、鎌倉幕府の有力御家人である畠山氏が守護として入部する。彼らは足利氏の一族でもあり、室町幕府が成立すると、その重臣として能登の支配を盤石なものとした。一方、加賀国では、当初は比企氏や北条氏といった幕府の中枢に近い者が守護を務めることもあったが、やがて地元の有力武士である富樫氏が守護職を世襲するようになる。
南北朝の動乱期には、富樫氏も畠山氏もそれぞれ足利尊氏方の北朝に属し、その地位を固めていく。特に畠山氏は、室町幕府の「三管領」の一家として、幕政の中枢を担いながら能登を支配した。しかし、彼らは京都にいることが多く、能登の統治は守護代や国人(在地領主)に委ねられることが多かったという。対照的に、加賀の富樫氏は、幕府の中枢からは距離がありながらも、在地に根差した守護として、国人衆との間で複雑な関係を築いていった。この二つの国の守護のあり方は、後の歴史に異なる影響を及ぼすことになる。
室町時代中期になると、全国的に守護大名の権力は強化され、一国支配が進むが、その一方で守護と在地勢力、そして民衆との間には常に緊張が走っていた。加賀国では、守護富樫氏の支配は必ずしも一枚岩ではなかった。富樫氏内部での家督争いや、守護代などの有力国人との対立が頻発し、その権力基盤は揺らぎがちだったのだ。
このような不安定な状況下で、大きな影響力を持ったのが浄土真宗の教えである。蓮如上人が越前吉崎に吉崎御坊を開いたのは1471年(文明3年)のことで、そこを拠点として加賀・越前・能登など北陸一帯に教線を拡大した。蓮如は平易な言葉で教えを説き、地域社会の最下層に位置する農民や商工業者、そして国人層にまで広く浸透していった。彼らは「講」と呼ばれる組織を作り、信仰を通じて強い連帯感を育んでいく。この講の組織力は、単なる宗教集団に留まらず、やがては政治的・軍事的な実力を持つ集団へと変貌していくことになる。
富樫氏の内部抗争が激化する中で、一方の富樫政親は、対立する弟の泰高を排除するために、この一向一揆の力を利用しようと画策する。しかし、一度力を得た一揆衆は、もはや富樫氏の意のままになる存在ではなかった。1488年(長享2年)、富樫政親は一揆衆との戦いに敗れ、自害。これにより、加賀国は守護大名を失い、「百姓の持ちたる国」と呼ばれる一向一揆による支配が始まるのである。
加賀一向一揆による支配は、日本の歴史において極めて特異な現象であった。守護大名が実質的に追放され、約1世紀にわたって一向宗徒が中心となって統治を行った地域は、他にはほとんど類を見ない。同時期の他の地域では、守護大名がその権力をさらに強化し、戦国大名へと成長していくか、あるいは新たな有力国人が台頭してくるのが一般的であった。例えば、尾張の織田氏や甲斐の武田氏、越後の長尾氏(上杉氏)などがその典型である。
加賀国の場合、守護富樫氏の権力基盤が不安定であったこと、そして蓮如によって築かれた浄土真宗の強固な組織力と民衆への浸透が、この異例の事態を可能にした。一揆衆は、単に武力で守護を排除しただけでなく、寺院を中心とした行政機構を整備し、年貢の徴収や法度(法令)の制定まで行ったという。これは、後の豊臣秀吉による太閤検地や、江戸幕府による幕藩体制確立に先立つ、ある種の「自立した統治」の試みであったとも言える。他の地域が中央集権化の道を模索する中で、加賀は「下克上」を体現し、独自の地方権力を築き上げたのである。
一向一揆による加賀の支配は、約90年間に及んだ。しかし、戦国時代が本格化し、織田信長が天下統一を目指す中で、この「宗教国家」は大きな脅威と見なされるようになる。信長は石山本願寺との戦い(石山合戦)を進める一方で、北陸方面でも一向一揆勢力の排除に乗り出した。柴田勝家を総大将とする織田軍は、1573年(天正元年)の越前一向一揆鎮圧を皮切りに、加賀へと侵攻。度重なる激戦の末、1580年(天正8年)には、一揆の拠点であった金沢御坊が陥落し、加賀一向一揆は終焉を迎える。
その後、織田信長、そして豊臣秀吉の支配下で、加賀国は前田利家が封じられることとなる。利家は、一向一揆の残存勢力や、旧来の国人衆を巧みに統制しながら、加賀百万石の礎を築き上げていく。この過程で、かつて一揆衆が築いた組織や信仰のネットワークは、新たな支配体制へと組み込まれていった。能登国もまた、畠山氏の衰退後、上杉謙信の侵攻や織田氏の支配を経て、最終的には加賀藩の一部として前田氏の統治下に置かれることとなる。
鎌倉から室町、そして戦国へと続く激動の時代は、現在の石川県に複雑な歴史の層を重ねた。加賀国に約90年間存在した「百姓の持ちたる国」は、守護大名が支配する全国的な潮流の中で、異彩を放つ存在だった。それは、民衆が自らの信仰を基盤に統治を試みた、稀有な事例である。この経験は、後の加賀藩の統治にも影響を与えた可能性があり、領民の強い信仰心は、藩政期においても重要な要素であり続けた。
一方、能登国は、守護畠山氏の支配から、より一般的な戦国大名による統治へと移行していった。しかし、その過程で培われた在地領主たちの力や、海運を通じて培われた交易のネットワークは、能登独自の文化と経済の基盤を形成していっただろう。金沢の町を歩き、あるいは能登の集落を訪れるとき、そこには単なる観光地ではない、こうした歴史の層が静かに息づいている。強い信仰心と、それに裏打ちされた自立の精神は、現代のこの地の文化や人々の気質にも、無意識のうちに影響を与え続けているのではないだろうか。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。