2026/6/8
石川県、古代から平安へ。真脇遺跡と白山信仰の足跡

石川県の歴史について詳しく知りたい。古代から平安時代まで。
キュリオす
石川県域の古代史を、縄文時代の真脇遺跡、律令国家形成期の越・加賀・能登の分立、日本海を介した交流、そして白山信仰の発展という視点から辿る。中央の統制と地方の独自の文化形成の交錯を描く。
能登半島の入り江に立つと、波の音と風の気配が、時折、遠い過去の痕跡を運んでくるように感じる。現代の生活の背後には、はるか縄文の昔から、この地で人々が営みを続けてきた確かな証拠が横たわっている。特に能登町真脇に位置する「真脇遺跡」は、その深遠な時間を具体的に示す場所として知られている。約6,000年前の縄文時代前期から後期に至るまで、およそ4,000年もの長きにわたり人々が定住したこの集落跡は、単なる一時的な居住地ではなかった。
多くの縄文遺跡が移動を繰り返す中で、真脇の人々がこれほど長く同じ土地に留まれたのは、豊かな自然環境に恵まれていたからだ。特にイルカの群れが湾に入り込む地形的条件は、安定した食料供給を可能にした。大量に出土するイルカの骨は、当時の人々が狩猟の技術と知識を高度に持ち、海からの恵みを最大限に活用していたことを物語っている。また、地下水位が高かったことで、通常は残りにくい木製品や動物の骨、植物の種子などが良好な状態で保存され、当時の生活様式を詳細に解き明かす貴重な手がかりとなっているのだ。こうした遺跡から見えてくるのは、日本海に大きく突き出す能登半島が、古くから自然と深く結びつき、独自の文化を育んできた土地であったという事実である。この地の古代史を探ることは、単に年表を追うだけでなく、地形や気候が人々の暮らしといかに深く関わってきたかという問いに触れることでもある。
現在の石川県がその原型を形成するまでには、古代日本の律令国家形成期における幾度かの行政的な再編があった。この地域はかつて「越の国」(高志、古史とも表記)と総称される広大な領域の一部であった。縄文時代に遡れば、真脇遺跡のような長期定住地が形成される一方で、弥生時代には水稲耕作が日本海側にも伝播し、集落が拡大していった。
古墳時代に入ると、この地にも有力な豪族が台頭し、その権力を示す「王墓」が各地に築かれるようになる。石川県内には約3,000基もの古墳が存在するとされ、特に能登半島では4世紀後半から水陸の要所に大規模な古墳が集中している。鹿島町の親王塚古墳から出土した中国製の三角縁神獣鏡などは、大和政権が傘下の地方政権に与えた権威の象徴とも解釈されている。能登が畿内型古墳を築く豪族を擁していたことは、この地が単なる辺境ではなく、大和政権にとって重要な拠点であったことを示唆しているのだ。
律令国家の体制が整う大宝元年(701年)以降、越前国は現在の石川県全域を含む南北約240kmにも及ぶ長大な国であった。この広大な領域の統治を効率化するため、分立が進められる。まず養老2年(718年)に、越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を割いて「能登国」が設置された。能登国はその後、天平13年(741年)に一時的に越中国に併合されるが、天平宝字元年(757年)には再び越中国から分立し、独立を保つこととなる。この再分立の背景には、東北地方での反乱や新羅への出兵計画など、内外の緊張が高まる中で、能登を独立した国として防備を固める必要があったという見方もある。
そして、能登国成立から約100年後の弘仁14年(823年)には、越前国から江沼郡と加賀郡を割いて「加賀国」が設置された。加賀国は律令制下で最後に建てられた国とされている。越前守の紀末成が、加賀郡が国府から遠く、民衆の訴えが届きにくいことや、国司の巡検が困難であることを理由に分国を奏上したという経緯が残されている。この分立によって、江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が新たに設けられ、加賀国は四郡体制となった。このようにして、現在の石川県の骨格となる「能登国」と「加賀国」が、奈良時代から平安時代初期にかけて、律令国家の行政的再編の中で確立されていったのだ。
律令国家の確立は、中央集権的な支配体制を地方に浸透させることを意味した。現在の石川県域にあたる能登国と加賀国も、五畿七道の一つである「北陸道」に組み込まれ、中央からの統制下に置かれることとなる。北陸道は京の都から敦賀を経て越前、加賀、越中、越後へと続く重要な街道であり、官道として整備された道には約16キロメートルごとに「駅家」が設けられ、駅馬が常備された。これは急を要する命令や報告の伝達、公的な使者の往来のために機能し、中央と地方の結びつきを物理的に強化する役割を担った。
能登国府は能登郡(現在の七尾市)に置かれたとされ、古府や国分といった地名がその痕跡を今に伝えている。七尾湾という天然の良港を擁していたことが、国府選定に有利に働いたと考えられている。加賀国府の所在地は確定には至っていないが、小松市東部古府町の石部神社周辺が有力な候補地とされており、周辺からは平安時代の土器や加賀国分寺を飾ったとされる瓦片が出土している。国府には国司が政務を行う国庁のほか、国分寺・国分尼寺、総社などが置かれ、地方政治・経済・文化の中心として機能した。
しかし、北陸道が果たした役割は、単なる中央からの支配の道だけではない。日本海は、古代において大陸や朝鮮半島との交流の玄関口でもあった。能登半島は、その日本海に大きく突き出した地形と、風の影響を受けにくい良港を活かし、特に渤海使が帰国する際の出港基地としての役割を担っていた。『日本後紀』には、804年(延暦23年)に「近年渤海国使来着、多く能登国に在り。停宿の処踈陋すべからず。宜く早く客院を造るべし」と記されており、能登に渤海使を接遇するための施設「客館」が設置されていたことがわかる。これは、能登が古代日本の外交において重要な役割を担っていた証左であり、大陸文化が日本列島にもたらされる主要なルートの一つであったことを示している。
律令制のもとで農民は租、庸、調などの重い税を課せられたが、一方で北陸道を通じて仏教や大陸の文化が地方へと広がり、地域の文化形成に大きな影響を与えた。大伴家持が越中国司として能登半島を巡視し、その情景を万葉集に詠んだ歌は、当時のこの地の風景と、中央との文化的なつながりを今に伝える貴重な資料である。このように、律令国家の辺境としての北陸は、中央の統制を受けつつも、日本海を通じた独自の対外交流によって、多様な文化が交錯する場でもあったのだ。
石川、福井、岐阜の三県にまたがる霊峰白山は、古くから人々の信仰を集めてきた。「越のしらやま」と称され、その秀麗な姿と、山から流れ出る豊富な水が田畑を潤す恵みから、水神や農業神として崇められてきたのだ。この原始的な山岳信仰が、奈良時代に入ると「白山信仰」として体系化されていく。その起源は、養老元年(717年)に越前国の僧である泰澄が白山に登頂し、開山したことに始まるとされている。
白山信仰は、平安時代になると、山中での修行を重視する密教や古来の山岳信仰と融合した修験道が盛んになるにつれて、さらに発展した。白山には、越前、加賀、美濃の三つの国から山頂への参詣道が整備され、それぞれの登拝拠点として「三馬場」(越前馬場、加賀馬場、美濃馬場)が成立した。加賀馬場の中心は、現在の白山比咩神社(石川県白山市)であり、全国に約3,000社ある白山神社の総本宮とされている。
この白山信仰は、単なる宗教的な活動に留まらなかった。平安時代後期には、三馬場間の本家争いが激化し、それぞれの拠点が中央の寺社と結びついて勢力拡大を図るようになる。特に加賀馬場の白山本宮(白山寺)は、久安3年(1147年)に比叡山延暦寺の別院(末寺)となり、その宗教的権威と寺勢を強めた。白山寺の長吏は白山七社惣長吏を兼ね、手取川中・上流域を勢力範囲とし、有力農民を「神人」や「衆徒」として組織し、かなりの武力を蓄えるようになったという。
このような地方の有力寺社が武力を持つことは、平安時代後期の中央と地方の関係性を示す典型的な事例である。中央の律令制が次第に変質し、地方政治が乱れる中で、寺社は多くの荘園を管理し、土地や人民をめぐって朝廷や他の領主との紛争を起こすようになった。白山衆徒(僧兵)が加賀国守と対立し、国守を追放した安元事件(1175年〜1177年)は、『源平盛衰記』や『平家物語』にも記されるほど、その強大な軍事力を示す出来事であった。この事件は、地方における寺社勢力が、中央から派遣された国司に対抗しうるほどの力を有していたことを鮮明に表している。白山信仰は、単なる精神的な支柱であるだけでなく、地域の政治・経済・軍事をも動かす、強大な「権門」として機能していたのだ。
平安時代中期以降、律令国家の中央集権体制は緩やかに変質し、地方においては在地の豪族や有力寺社が力を蓄えていった。石川県の地域も例外ではなく、中央から派遣される国司と、白山信仰を背景に力を増した寺社勢力との間で、しばしば緊張関係が生じた。
平安後期、安元元年(1175年)に藤原師高が加賀守に任命され、翌年にはその弟である師経が代官として加賀に赴任した。師経は、父の権勢を背景に国衙の権力回復を図り、白山中宮八院の一つである涌泉寺(小松市)に検注を試みた。これに対し、寺僧側は国司の入寺に抵抗し、武力衝突に発展したのである。この対立は激化し、中宮三社は加賀国から師経を追い出し、さらには神輿を担いで京都の朝廷に訴え出るという事態にまで及んだ。『平家物語』にも描かれたこの「安元事件」は、加賀の地で、いかに白山権現の寺社勢力が強大な力を持ち、中央の権力すらも動かす影響力を持っていたかを示す象徴的な出来事である。
一方、能登国では、天元3年(980年)に『和名類聚抄』(和名抄)の編纂で知られる源順(みなもとのしたごう)が能登国守として赴任している。源順は、能登国の有力神社43社を合祀して「能登国総社」を成立させるなど、地方行政と文化の振興に尽力した。彼の事績は、平安時代においても、中央から派遣された国司が地方の統治に一定の役割を果たしていたことを示している。しかし、全体的な趨勢としては、中央の支配力が徐々に弱まり、地方の各郡では国司の系譜を引く武士や、在地の有力者が実力をつけていった。
平安時代末期には、加賀で富樫氏が、能登で畠山氏が勢力を持つようになるなど、後の武家社会につながる地方豪族の台頭が見られる。これらの動きは、律令国家が理想とした中央集権体制が、地方の実情や有力者の台頭によって徐々に形骸化していく過程を、石川の地においても明確に示している。中央と地方の均衡が揺らぎ、新たな権力構造が模索される時代であったのだ。
古代から平安時代にかけての石川県域の歴史を振り返ると、この地が常に「辺境」という一語では捉えきれない多面性を持っていたことがわかる。北陸道という幹線道路を通じて畿内と結ばれ、律令国家の行政機構に組み込まれていた一方で、日本海を介した大陸との交流は、この地域に独自の文化と活気をもたらしていた。能登半島が渤海使節の寄港地であったという事実は、当時の日本の「玄関口」が、必ずしも畿内近辺の港だけではなかったことを示している。
また、霊峰白山を中心とした山岳信仰の隆盛は、地域の精神的な支柱であると同時に、強大な経済力と武力を持つ権門勢力として、中央の政治にも影響を及ぼした。これは、日本各地で寺社勢力が台頭した平安時代の特徴的な現象ではあるが、加賀における白山衆徒の存在は、その中でも特に顕著な例と言えるだろう。中央からの支配と、日本海を通じた外来文化の受容、そして霊山信仰に根ざした在地勢力の台頭という三つの要素が絡み合い、この地の古代・平安史を形作ったのだ。
真脇遺跡に代表される縄文の定住文化から、律令制下の国府、そして強大な白山信仰まで、石川の地は、日本の古代史における多様な側面を凝縮して見せる。それは、中央の歴史とは異なる、北の海と山が育んだ独自の歴史の層が、今もなおこの地に深く息づいていることを物語る。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。