2026/6/4
相模の交差点・厚木、古代から現代までの歴史を辿る

厚木の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
神奈川県厚木市は、相模川の水運と街道が交わる交通の要衝として古代から栄えてきた。江戸時代には「小江戸」と呼ばれるほど賑わい、近代以降も鉄道や基地、工業都市として発展。その歴史は、現代の首都圏業務核都市としての役割へと繋がっている。
神奈川県の中央部、相模平野に位置する厚木市は、一見すると現代的な都市の顔を持つ。高層ビルが立ち並び、幹線道路には常に車が行き交う。しかし、その賑わいの奥には、幾層にも重なった歴史が息づいている。なぜこの地が、時代を超えて人や物の「交差点」であり続けたのか。その問いは、足元を流れる相模川の悠久の流れと、この地に刻まれた人々の営みの中に答えを探すことになる。
厚木市域には、約9千年前の縄文時代早期から人々が定住していたと推定されている。弥生時代や古墳時代においても、数多くの遺構や遺物が発見されており、特に愛名宮地遺跡から出土した瓦塔片や、飯山湯気沢の銅印などは、古代の仏教文化がこの地に伝播していたことを示唆する。また、地頭山古墳や愛甲大塚古墳といった前方後円墳の存在は、4世紀から5世紀にかけてこの地域に有力な豪族が存在し、大和朝廷とのつながりを持っていたことを物語る。
平安時代には、都から相模国府へ通じる古代の道が愛甲の地を通り、愛甲郡の行政府である郡衙(郡家)が置かれていたと考えられているが、その正確な場所はまだ特定されていない。 『倭名類聚抄』に見える玉川郷や英那郷といった地名は、この時代の土地利用の一端を伝えるものだ。
「あつぎ」という地名が史書に初めて登場するのは、南北朝時代の建武5年(1338年)のことである。夢窓疎石が高師直にあてた書状の中に「相州厚木郷」と記されている。 鎌倉時代に入ると、源頼朝に仕えた愛甲三郎季隆や本間右馬允義忠といった愛甲武士の名が記録に見えるようになり、彼らの本拠地が市域にあったことがわかる。 鎌倉幕府が滅亡した後も、本間忠秀が建武新政権下で活躍するなど、この地の武士団は歴史の転換点に関与し続けた。
戦国時代には、後北条氏が小田原を本拠地として関東地方の支配を広げ、それに伴い交通網が整備された。この時期、厚木宿は下荻野新宿や相模川対岸の当麻宿とともに宿場として成立したと伝えられている。 当初は相模川の水害に悩まされることもあったが、16世紀前半にはすでに市が立っていたとされ、後北条氏の時代には市場町として発展していたようだ。
厚木が歴史の中で重要性を増していった背景には、地理的な条件と、それに伴う人や物の流れが密接に関わっている。まず、市域を貫流する相模川の存在が挙げられる。相模川は古くから水運の大動脈であり、厚木はその要衝として機能した。 木材をはじめとする物資の集散地となり、「アツメギ」(木材を集める場所)が「アツギ」に転訛したという地名由来説もあるほどだ。
江戸時代に入ると、この地の利はさらに顕著になる。厚木は、江戸と大山を結ぶ「大山道」(矢倉沢往還、現在の国道246号)と、八王子方面へ向かう「八王子道」(現在の国道129号)が交わる交通の要衝となった。 これらの街道に加え、相模川の水運が重なることで、厚木は陸と水の交通が結節する一大拠点へと発展したのである。
特に大山道は、庶民の間で流行した大山詣りの参詣者で賑わい、厚木宿は旅人や物資が行き交う活気ある宿場町となった。 毎月「2」と「7」の付く日に市が立ち、大いに賑わったという記録も残る。 その繁栄ぶりは、天保2年(1831年)に厚木村を訪れた渡辺崋山が「厚木の盛なる都(と)ことならす」と記したことからも窺える。 彼はさらに「厚木の盛なる所以は唯相模川船路便をなす」と、相模川の水運が繁栄の根幹であることを指摘している。 このように、厚木は「小江戸」とも称されるほどの商業都市として栄え、俳諧や狂歌、漢詩文、花道、武道など多種多様な文化が花開いた場所でもあった。
また、厚木の地には独自の食文化も育まれた。江戸時代末期、相模国愛甲郡に存在した荻野山中藩で、急な来客をもてなす際に猪肉に味噌を塗って供したことが「とん漬」の始まりと言われている。当時の武士が四つ足動物の肉を避ける風潮があったため、味噌で肉の種類を隠したという経緯は、食文化の背景にある生活様式を伝える。 その後、ペリー提督の来航を機に相模国で養豚が盛んになり、厚木市には一時期300軒もの養豚場が軒を連ねるほどになった。この養豚業の発展が、現在の厚木名産「とん漬」の基盤を築いたのである。
厚木宿が「小江戸」と称されるほど賑わった背景には、複数の街道が交差し、さらに相模川の舟運という水陸両方の交通の要衝であった点が挙げられる。この複合的な地の利は、他の一般的な宿場町とは異なる厚木独自の発展を促したと言える。例えば、東海道の宿場町が主に陸路の要衝として栄えたのに対し、厚木は相模川の水運が商業活動の重要な基盤であった。渡辺崋山の言葉が示す通り、相模川の存在が厚木の繁栄を決定づけた側面は大きい。 大山詣りの参詣者だけでなく、物資の集散地として機能したことで、単なる旅籠街以上の商業集積が見られたのである。
しかし、明治期以降の近代化は、厚木の発展軸に新たな変化をもたらした。鉄道の登場である。大正15年(1926年)に神中鉄道(現在の相鉄線)が、翌大正15年には相模鉄道(現在のJR相模線)が厚木駅を開業した。 さらに大正16年(1927年)には小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)も開通し、京浜方面への往来が活発化した。
ここで特筆すべきは、「厚木駅」が厚木市ではなく、隣接する海老名市に位置するという事実である。 これは、当時資金不足により相模川に鉄橋を架けることができなかった神中鉄道が、現在の海老名市河原口に駅を建設せざるを得なかったことに起因する。 当時の海老名村は「寒村」であり、県央の中心地であった対岸の「厚木」を駅名に採用することで、厚木町への玄関口としての役割を期待したという経緯がある。 このため、厚木市の中核駅は後に厚木町内に開業した「本厚木駅」となり、歴史的な中心地と鉄道の駅名が乖離するという、他都市ではあまり見られない状況が生じたのである。 このねじれは、交通インフラが都市の発展に与える影響の複雑さを示している。多くの都市が主要駅を中心に発展する中、厚木は既存の宿場町としての中心性を維持しつつ、新たな鉄道交通の恩恵を別の形で受容していったと言えるだろう。
明治時代に入り、廃藩置県によって荻野山中藩は荻野山中県となり、その後足柄県を経て神奈川県に編入された。 大正12年(1923年)の関東大震災では大きな被害を受けたものの、これを機に市街地は復興し、店舗や家並みが一新された。 そして前述の通り、昭和初期の鉄道開通は厚木の都市化を加速させることになる。
第二次世界大戦中、厚木は軍事的な重要性を帯びた。昭和16年(1941年)に旧日本海軍が航空基地の建設を開始し、昭和18年(1943年)には帝都防衛の基地として完成した。 終戦直後の昭和20年(1945年)8月30日には、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥がこの厚木海軍飛行場に降り立ち、日本の占領政策の第一歩を踏み出した場所として、歴史にその名を刻んだ。 現在も、厚木海軍飛行場(通称:厚木基地)はアメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用する軍事基地として機能しており、県内で唯一の固定翼機が離着陸できる飛行場である。
戦後、厚木市は昭和30年(1955年)に厚木町と周辺4村が合併して誕生し、その後も周辺町村を編入して現在の市域を形成した。 昭和30年代にはソニーが厚木工場を開設し、内陸工業団地の造成も始まるなど、工業都市としての基盤が築かれた。 昭和40年代には東名高速道路や小田原厚木道路が開通し、国道のバイパス整備も進んだことで、交通インフラのさらなる充実が図られた。 昭和50年代以降は、森の里地区を中心とした研究開発型企業の誘致が進み、多機能を有する都市として成長を遂げた。 人口も昭和48年(1973年)に10万人を突破し、平成3年(1991年)には20万人を超えた。 近年では、厚木シロコロ・ホルモンがB-1グランプリで優勝するなど、地域に根ざした食文化が全国的な注目を集める場面もある。
厚木の歴史を辿ると、この地が常に「交差点」であり続けたことが浮き彫りになる。古代の道が通り、中世には武士団の所領となり、戦国期には市場が生まれ、江戸時代には主要街道と水運が交わる宿場町として繁栄した。近代以降も、鉄道、高速道路、そして軍事基地という形で、人、物、情報、さらには国際的な力学までが交錯する場所であり続けている。
相模川という自然の動脈と、丹沢山系を背後に控えた平野部の広がりが、交通の要衝としての地の利を形成した。その地理的条件は、時代が移り変わっても、厚木が外部との交流を通じて発展していく宿命を決定づけたと言える。旧市街の面影は薄れ、「小江戸」と呼ばれた時代の賑わいは、現在の本厚木駅周辺の商業集積へと形を変えた。しかし、その根底には、多様な要素を受け入れ、融合させてきたこの土地固有の歴史的連続性がある。厚木駅が海老名市にあるという一見奇妙な事実は、交通インフラの発展が都市のアイデンティティにいかに複雑な影響を与え得るかを示す一例でもある。現在の厚木市は、首都圏の業務核都市として、新たな「交差点」としての役割を担い続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。