2026/6/8
小松の歴史:石の文化から重機産業へ

小松の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
石川県小松市は、古代の「石の文化」を基盤に、前田利常による城下町整備、そしてコマツ創業に始まる重工業の一大拠点へと発展した。梯川の畔に佇むこの町は、多様な歴史と現代の産業が共存する。
石川県南部に位置する小松市を訪れると、その風景の多様さに目を奪われる。日本海に面した安宅の湊には北前船の記憶が残り、市街地には前田利常が築いた城下町の面影が散見される。しかし、それ以上に強い印象を与えるのは、巨大な建設機械が展示された「こまつの杜」や、市内に点在する工場群が象徴する「ものづくりの町」としての顔だろう。古代から現代に至るまで、この地がどのようにして多様な歴史を紡ぎ、特に重工業の一大拠点へと変貌を遂げたのか。その問いの根源には、地形、資源、そして時代を動かす人々の選択が複雑に絡み合っている。
小松の地は、縄文時代から人々が生活を営んできた歴史を持つ。弥生時代には、八日市地方遺跡から農耕の痕跡が見つかっており、碧玉の勾玉作りが始まったのもこの頃とされる。約2300年にもわたり、「石の文化」がこの地の基盤を形成してきたのだ。那谷・菩提・滝ヶ原地区は弥生から古墳時代にかけて、高品質な碧玉の最大の産地であり、当時の最先端技術で加工された宝飾品は全国の有力者に流通していたという。この「石の文化」は、後の小松のものづくりブランドの萌芽ともいえるだろう。
平安時代には、花山法皇が北陸巡礼の際に「園の小松原」と名付けたことが、「小松」という地名の由来になったという説が伝えられている。中世に入ると、加賀一向一揆の拠点として小松城が築かれ、戦国時代には織田信長配下の柴田勝家が一向一揆を鎮圧した後、村上頼勝や丹羽長重が城主を務めた時期もあった。
小松の歴史において決定的な転換点となったのは、江戸時代初期、加賀藩2代藩主前田利常の隠居地となったことである。元和元年(1615年)の一国一城令により小松城は一時廃城となるが、寛永16年(1639年)に利常の隠居城として幕府の許可を得て大規模な再築が始まった。この時、梯川の蛇行によってできた沼地を利用し、川の水を引き入れた広大な堀の中に8つの島を配した「浮城」として整備された。その城域は金沢城の倍近い約56万平方メートルにも及び、堀が城地の約30%を占める特異な景観を呈していたという。
利常は小松城下町の整備にも力を入れ、職人を集めて「ものづくり」を奨励した。九谷焼や小松瓦、そして加賀絹などの伝統産業の基盤がこの時代に確立されたのである。また、梯川河口に位置する安宅は、古くから北前船の寄港地として栄え、海上交通の要衝としての役割も担っていた。このように、小松は前田利常という強力な藩主の意向と、豊かな自然資源、そして水運に恵まれた立地が重なり、単なる城下町に留まらない独自の発展を遂げていった。
明治維新を迎え、廃藩置県によって城下町としての機能を失った小松は、新たな産業の道を模索する時代に入る。江戸時代から続く「ものづくり」の素地はあったものの、本格的な近代化は鉱山開発とそれに伴う機械化が牽引することになる。
その中心にあったのが、現在の株式会社小松製作所(コマツ)の創業である。コマツの創始者である竹内明太郎は、土佐出身の実業家・竹内綱の子であり、明治35年(1902年)に遊泉寺銅山の鉱山権を買収したことから、小松の近代産業史が大きく動き出す。明太郎は鉱山用電力の必要性から発電所を建設し、さらに欧米の最新技術を導入して遊泉寺銅山を一大鉱山町として発展させた。最盛期の明治40年代には、銅産出高が全国12位にまで上昇し、町には軽便鉄道も敷設されたという。
明太郎は鉱山経営の傍ら、鉱山用機械の内製化の重要性に着目し、1917年に小松鉄工所を設立する。これは、自社の鉱山に必要な機械を自前でまかなうという発想から生まれたものであった。第一次世界大戦後の不況で遊泉寺銅山が閉山に追い込まれる中、小松鉄工所は1921年5月13日に竹内鉱業から分離独立し、株式会社小松製作所として新たなスタートを切る。当初は経営に苦難を伴ったが、1932年には農林省からの要請を受け、日本初の国産トラクター「T25トラクタ」を開発するなど、技術開発に力を注いだ。太平洋戦争中には日本海軍の要請で兵器生産も行ったが、戦後はブルドーザー、モーターグレーダー、フォークリフト、ダンプトラックなど、重機製造へと重点を移し、世界的な建設機械メーカーへと成長していった。
一方で、小松の近代化はコマツ一社に留まらない。江戸時代から続く繊維産業も、明治期にはバッタン機やジャカード機が導入され、力織機の普及とともに工業化が進んだ。特に紋織物においては、産地同業組合の設立と研究によって目覚ましい発展を遂げ、日本の繊維産業史に特筆される一大産地となったのである。しかし、昭和5年(1930年)と2年後の昭和7年(1932年)には、中心市街地が二度の大火に見舞われ甚大な被害を受けた。この経験を教訓に、町割りの背割り部分に蔵を配置したり袖壁を設けたりするなど、延焼防止を考慮した都市計画が進められた。
小松の歴史を辿ると、その発展が特定の産業や時代に限定されない多層的な構造を持つことに気づく。他の城下町と比較すると、小松の「ものづくり」の根源が、前田利常の殖産興業政策以前、すなわち古代の「石の文化」にまで遡る点が特徴的である。日本列島の火山活動によって生まれた豊富な石の資源(銅鉱床、瑪瑙、オパール、水晶、碧玉、良質な凝灰岩、九谷焼の陶石など)を、人々が2300年以上にわたって活用し続けてきた歴史は、他の地域ではあまり見られない連続性を持つ。
例えば、金沢市も加賀藩の城下町として栄えたが、その産業構造は伝統工芸や観光が中心であり、重工業の集積は小松ほど顕著ではない。これは、金沢が藩の中心地として消費経済や文化の面で発展したのに対し、小松は恵まれた地下資源と水運の利を背景に、実用的な「ものづくり」の基盤を築いてきたことの表れだろう。前田利常が隠居城として小松を選び、城下町整備と同時に職人集積を奨励したことは、この地の潜在的な「ものづくり」の素地を見抜いていたとも解釈できる。
また、近代日本の工業化において、多くの地域が海外技術の導入や中央集権的な政策によって産業を興した中で、小松製作所の創業が竹内鉱業の「自社鉱山向けの機械を内製する」という現場からのニーズに端を発している点は注目に値する。これは、単に外部からの技術移転に依存するのではなく、地域に根差した課題解決型の「ものづくり」の精神が、その後の世界的な企業へと成長する原動力となったことを示唆している。
さらに、小松は「歌舞伎のまち」としても知られ、源義経と弁慶の「勧進帳」の舞台となった安宅の関や、260年の歴史を持つ曳山子供歌舞伎が今も伝承されている。重厚長大産業のイメージが強い一方で、こうした豊かな文化芸術が地域に深く根付いていることは、小松が単なる工業都市ではなく、多様な顔を持つ複合的な都市であることを物語っている。この文化と産業の二重性は、他の多くの工業都市が抱える画一化の課題とは異なる、小松独自の発展の軌跡と言えるだろう。
現在の小松市は、その多層的な歴史を現代の風景の中に映し出している。JR小松駅の東側には、コマツ小松工場跡地に創設された「こまつの杜」が広がり、世界最大級のダンプトラック「930E」や油圧ショベル「PC4000」が展示されている。これは、小松が世界に誇る建設機械メーカーの誕生の地であることを、視覚的に強く印象付ける場所だ。一方で、駅西側の中心市街地には、江戸時代からの町家や寺院が点在し、「こまつ町家」として保存されている地区もある。材木町地区では、市と「景観まちづくり協定」が結ばれ、かつての町並みが今も保たれている。
産業面では、コマツを中心とした機械産業のクラスターが形成されており、日本一のシェアを誇るパーティションメーカーや世界的な電子部品メーカー、日本有数のバス製造メーカーなど、多様な企業が集積している。高機能繊維産業も盛んであり、九谷焼などの伝統産業も脈々と受け継がれている。これらの産業は、古くからこの地で培われてきた「ものづくり」の技術力と、それを支える人材育成の基盤が現代に繋がっている証左である。
小松市は、小松空港、高速道路、鉄道といった交通インフラが整備された「北陸の空の玄関口」としての顔も持つ。2024年春には北陸新幹線が開業し、さらなる交流人口の増加が期待されている。市は「NEXT10年ビジョン」を策定し、国際都市を目指す中で、駅東を「未来タウン」、駅西を「伝統のまち」として再開発を進める計画を立てている。これは、過去の歴史遺産と未来志向の産業発展を両立させようとする、現代小松の試みと言えるだろう。
観光面では、歌舞伎「勧進帳」の舞台である安宅の関や、開湯1300年の歴史を持つ粟津温泉、奇岩が織りなす景観が美しい那谷寺などが、多様な観光客を惹きつけている。これらの要素は、小松が単一のイメージでは捉えきれない、重層的な魅力を備えた都市であることを示している。
小松の歴史を紐解くと、その根底には常に「ものづくり」の精神が流れていることがわかる。弥生時代に碧玉を加工し、古墳時代には石室を築き、中世には一向一揆の砦となり、近世には前田利常が「浮城」を築き職人を集めた。そして近代には鉱山機械から建設機械へと技術を転換させ、世界的な企業を生み出した。この一連の動きは、単なる偶然ではなく、この地に眠る豊かな地下資源と、それを活用し加工する人々の技術、そして絶えず変化に対応しようとする気質が、時代を超えて受け継がれてきた結果ではないだろう。
小松の歴史から見えてくるのは、変化を恐れず、むしろそれを取り込みながら自らを再構築してきた都市の姿である。城下町としての役割を終えれば、鉱山開発と重工業へと軸足を移し、大火で中心市街地が壊滅すれば、延焼防止を考慮した新たな都市計画で復興を遂げた。この柔軟性と適応力こそが、小松が現代まで多様な産業と文化を維持し、発展させてきた理由ではないか。
梯川は、小松の歴史の傍らを流れ続けてきた。かつては城の堀に水を満たし「浮城」の景観を形作り、水運を支えた。時には氾濫を繰り返したが、そのたびに治水事業が進められ、人々の暮らしを守るための知恵と技術が投入されてきた。現代の小松には、古代の石の痕跡も、利常が築いた城の石垣も、そして巨大な建設機械も、すべてが同じ風景の中に存在している。梯川の流れは、そうした変わりゆくものと、しかし本質的に変わらない「ものづくり」の系譜を、静かに映し出しているかのようだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。