2026/6/4
藤沢はなぜ宿場町・別荘地・住宅都市と顔を変えてきたのか

藤沢の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
藤沢の歴史は、遊行寺の門前町から東海道の宿場町、近代の別荘地、そして現代の工業・商業・住宅都市へと、時代と共にその機能を変えてきた。交通の要衝という地理的優位性を活かし、信仰、物流、観光、居住といった多様な役割を柔軟に担ってきた土地の変遷を辿る。
藤沢の街を歩くと、その足元に幾層もの歴史が重なっていることに気づかされる。東海道線の駅前には現代的な商業施設が立ち並び、江の島へと向かう江ノ電は観光客を乗せて海岸線を走る。しかし、一歩路地に入れば、時宗総本山である遊行寺の静謐な空気が漂い、かつての宿場町の面影が垣間見えるのだ。なぜこの地が、これほど多様な顔を持つ都市として発展してきたのか。その問いは、この土地が持つ地理的条件と、時代ごとの人々の営みが織りなした複雑な歴史の中に答えを求めている。
藤沢の歴史は、古代にまで遡ることができる。奈良時代には「土甘郷」や「片瀬郷」として記録に登場し、鎌倉時代には鎌倉権五郎景政が開発した「大庭御厨」として伊勢神宮に寄進された地域を含んでいた。武士の時代に入ると、正中2年(1325年)に時宗四代目の呑海上人によって「藤澤山無量光院清浄光寺」、通称「遊行寺」が開山される。これにより、遊行寺の門前町として、藤沢の地は宗教的な求心力を持つようになるのだ。
戦国時代には、小田原北条氏がこの地を支配し、弘治元年(1555年)には藤沢大鋸町に伝馬が置かれるなど、交通上の要衝としての重要性が増していく。この時期には、城郭の築造や修理に携わる職人集団「大鋸引き」が北条氏の直属として藤沢に集落を形成していたという。
江戸時代に入ると、藤沢はさらにその性格を強める。慶長元年(1596年)には徳川家康の宿泊施設である「藤沢御殿」が築かれ、家康自身も関ヶ原の合戦や関東巡視の際に28回もの休泊に利用した記録が残る。そして、慶長6年(1601年)に東海道が整備されると、藤沢は江戸日本橋から数えて六番目の宿場「藤沢宿」として正式に成立した。この宿場は、境川を挟んで東岸の大鋸町と西岸の大久保町・坂戸町の三町で構成され、江戸方見附から京方見附までが宿場範囲であった。遊行寺の門前町としての機能に加え、東海道の宿場町としての役割が加わることで、藤沢は人流と物流の拠点として発展を遂げていく。
藤沢が歴史の中で発展を遂げた背景には、複数の要因が絡み合っている。まず、その地理的な位置が挙げられるだろう。藤沢は東海道という幹線道路が通るだけでなく、江の島弁財天への参詣路である江の島道、大山阿夫利神社へ向かう大山道、さらには八王子道や厚木道、鎌倉道といった多くの街道が交差する交通の要衝であった。これにより、旅人や物資の往来が活発になり、流通の中心地としての性格を確立していったのだ。
次に、信仰の地の存在が藤沢の発展を後押しした。時宗の総本山である遊行寺は、開山以来、多くの信者を集め、その門前町は常に賑わいを見せた。特に、遊行寺で行われる「開山忌」のような行事の際には、全国から老若男女が集まり、宿場は宿泊客で溢れたという。また、藤沢宿から約1里(約4km)南に位置する江の島も、古くから弁財天信仰の地として知られ、江戸時代には庶民の間で「江の島詣」が流行した。これらの信仰の道の中継点として、藤沢宿は大きな役割を担い、旅籠や茶屋などの商業施設が栄えることになった。
さらに、江戸幕府による政策的な整備も要因の一つである。慶長6年(1601年)に宿駅制度が定められ、藤沢宿には本陣や脇本陣、問屋場といった施設が設けられた。これらは大名や幕府の公用旅行者の宿泊、人馬の継ぎ立て、幕府の書状や荷物の輸送を担う重要な役割を果たしたのだ。遊行寺が徳川家康の保護を受けたことも、寺の再建と発展、ひいては門前町の繁栄に繋がったと言える。このように、藤沢は単なる交通の要衝ではなく、宗教的、政策的、そして経済的な複数の条件が重なり合うことで、その独自の発展を遂げていったのである。
東海道五十三次の宿場町として栄えた藤沢宿は、他の宿場と比較するといくつかの特徴が見えてくる。天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によれば、藤沢宿の人口は4,089人、総家数は919軒、旅籠は45軒と記録されている。これは、城下町であった小田原宿や湊を持つ神奈川宿に次ぐ人口規模であったものの、旅籠の数自体は戸塚宿や川崎宿、保土ヶ谷宿と比較して少なかった。この背景には、遊行寺や江の島への日帰り参詣者が多く、宿泊を伴わない利用が多かった可能性も指摘される。旅籠の軒数に占める割合が低いことは、藤沢が単なる宿泊地ではなく、参詣客の休憩や飲食、あるいは物資の集散地としての機能も強く持っていたことを示唆しているだろう。
また、近代以降の藤沢の発展を、同時期に別荘地として栄えた他の地域と並べてみると、その独自性が浮かび上がる。例えば、大磯や鎌倉も明治期から富裕層の別荘地として開発が進んだが、鵠沼海岸一帯(現在の鵠沼松が岡など)は、大給子爵による広大な土地の計画的な分譲によって別荘地が形成された点が特徴的である。当初は1区画3000坪という広大な区画で販売され、防砂のために松が植えられ、一面の松原へと変貌していったという。個別の別荘建築が中心だった他の地域に対し、鵠沼はエリア全体として別荘地開発が進められたことで、その後の定住化へとスムーズに移行していった側面もある。
このように、藤沢は江戸時代には旅人を「泊める」機能よりも「集める」機能に特化し、近代には他の別荘地が個々の富裕層の意向で形成されていく中で、より計画的・大規模な開発によってその姿を整えていった。それぞれ異なる時代において、その土地の特性と、それを見出した人々の思惑が重なり、独特の都市景観を形成していったと言えるだろう。
明治時代に入ると、藤沢の街は大きな変貌を遂げる。明治20年(1887年)に横浜と国府津を結ぶ東海道本線が開通し、藤沢停車場(現在の藤沢駅)が設置された。さらに明治35年(1902年)には江之島電気鉄道(現在の江ノ島電鉄)が藤沢・片瀬間に開通し、交通の利便性が飛躍的に向上する。これにより、藤沢は遊行寺周辺の旧宿場町から、鉄道駅を中心とした新たな商業地へと賑わいの重心を移していくことになる。
鉄道の開通は、藤沢を保養地や別荘地としても注目させるきっかけとなった。明治期には、エドワード・S・モースが江の島に日本初の臨海研究施設である江ノ島臨海実験所を設置したり、サムエル・コッキングが江の島に植物園を設立したりするなど、外国人による活動も見られた。大正12年(1923年)の関東大震災後には、都心から移住する文化人や著名人も増え、療養目的で移り住む例も多かったとされる。
第二次世界大戦後、昭和22年(1947年)に鎌倉郡片瀬町が藤沢市に編入合併されたことで、鵠沼海岸、片瀬西浜、江の島といった観光資源が一体的に整備・開発される基盤が整う。昭和30年代以降の高度経済成長期には、市北部を中心に多くの工場が誘致され工業都市としての性格を強める一方、1970年代には大型商業施設が進出し、湘南地域の商業の中心地へと発展していった。同時期には、東京からの50キロ圏という地理的優位性から、大規模な宅地開発が進み、多くの人々が移り住む首都圏近郊の住宅都市としての側面も強めていく。
現在、藤沢駅周辺では「藤沢駅南口391地区市街地再開発事業」をはじめとする再開発が進行中であり、駅の利便性向上や商業施設の充実が進められている。JR東海道本線、小田急江ノ島線、江ノ島電鉄、湘南モノレール、相鉄いずみ野線、横浜市営地下鉄といった多様な公共交通網が整備され、交通の結節点としての役割を担い続けている。また、1964年と2020年の東京オリンピックではセーリング競技の会場となるなど、国際的なイベントの舞台としてもその名を知らしめている。
藤沢の歴史を辿ると、この土地が持つ多面的な潜在力が浮き彫りになる。中世の遊行寺門前町から、江戸時代の東海道六番目の宿場町、そして近代の保養地・別荘地、さらには現代の工業・商業・住宅都市へと、その機能は時代とともに変化し、積み重ねられてきた。
この変遷は、藤沢が特定の単一機能に固執することなく、常に時代の要請に応じた役割を柔軟に担ってきたことを示している。交通の要衝という地理的優位性は、信仰の拠点として、あるいは物流の結節点として、そして後には観光や居住の利便性として、形を変えながらこの土地の発展を支え続けた。
現代の藤沢は、かつての宿場町の面影を残しつつ、駅周辺の再開発が進む都市の顔、江の島を擁する観光地の顔、そして都心へのアクセスに優れた住宅地の顔を併せ持つ。これらの複合的な機能は、一見すると無秩序な発展に見えるかもしれないが、むしろ各時代のニーズを吸収し、その都度新たな役割を付加してきた結果である。藤沢の歴史は、土地が持つ本質的な価値と、それを見出し活用しようとする人々の営みが、いかにして都市の姿を形成してきたかを物語っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。