2026/7/2
「鬼は悪者」の常識を覆す?長田神社の追儺式と神戸の地名の由来

神戸の長田にある長田神社について詳しく知りたい。
キュリオす
神戸の長田神社は、神功皇后の時代に創建された古社。主祭神・事代主神は恵比寿様として親しまれる一方、節分の追儺式では鬼が悪者ではなく神のお使いとして登場。神戸の地名の由来とも深く関わる神社の歴史と信仰の多様性を辿る。
神功皇后の託宣から
長田神社の創建は『日本書紀』に記されている。神功皇后が新羅からの帰途、西暦201年(摂政元年)のこととされる。皇后の乗る船が武庫の水門(現在の神戸市駒ヶ林あたり)で進まなくなり、神託を求めたところ、事代主神より「吾を長田の国に祀れ」との言葉を受けたという。この神託に従い、山背根子の娘である長媛(ながひめ)を奉仕者として、この地に社が創建されたのが始まりである。同じ神功皇后の創建伝承を持つ生田神社、廣田神社と並び、長田神社は神戸の歴史を語る上で欠かせない古社の一つに数えられるのだ。
古代において、長田神社は朝廷からの崇敬も篤かった。平安時代に編纂された『延喜式神名帳』には「名神大社」として記載され、さらに雨乞いの祈願を行う「祈雨八十五座」の一つにも列せられたという。これは、長田神社が単なる地域の鎮守としてだけでなく、国家的な祭祀においても重要な役割を担っていたことを示している。この役割を裏付けるものとして、祭祀を支えるために朝廷から「神戸(かんべ)」と呼ばれる41戸の民戸が与えられたという記録がある。この「神戸」が、やがてこの地の地名、すなわち現在の「神戸(こうべ)」の語源となったと伝えられている。地名そのものが神社の存在に由来するという事実は、この社が地域と一体となって発展してきた歴史の重みを物語る。
中世以降の記録は断片的な部分もあるが、室町時代にはすでに、現在の長田神社の特徴的な神事である「追儺式神事(ついなしきしんじ)」が行われていたことが古文書などから伺える。近世に入ると、豊臣秀吉による社領の寄進などもあったとされ、武門からの信仰も厚かったことが窺える。
明治時代に入ると、近代社格制度のもとで長田神社は明治4年(1871年)に県社に列格し、さらに明治29年(1896年)には官幣中社へと昇格した。これは皇室からの崇敬が篤かった事代主神を祀る社としての地位が、近代国家においても再認識された結果である。しかし、その歴史は平坦ではなかった。大正13年(1924年)には漏電による火災で社殿の大部分を焼失する憂き目に遭い、現在の社殿は昭和3年(1928年)に再建されたものである。そして平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災では甚大な被害を受けたものの、本殿をはじめとする主要な建物は倒壊を免れ、氏子や崇敬者の厚い奉賛によって平成12年(2000年)には復興を遂げている。幾多の災禍を乗り越えながら、その都度再建され、信仰の場としてあり続けてきたことが、長田神社の歴史である。
恵比寿と鬼の異聞
長田神社の主祭神である事代主神は、世に広く「恵美主(えびす)さま」「福の神」として親しまれている。商工業をはじめ、あらゆる産業の守護神、開運招福、厄除解除の神として篤い崇敬を集めてきたのだ。この事代主神は、日本神話の「国譲り」において、父神である大国主神(おおくにぬしのかみ)の意思を尊重し、平和裏に国土を天照大御神(あまてらすおおみかみ)に譲ることを承諾したとされる神である。この神話は、単なる力の継承ではなく、平和と円満を重んじる精神の具現と捉えられ、その福徳円満な御神徳が、今日の商売繁盛や産業発展の信仰へと繋がっているという見方もできるだろう。
長田神社の特異性を際立たせるのは、毎年節分に行われる「古式追儺式神事(こしきついなしきしんじ)」である。一般的に追儺式といえば、豆をまいて邪悪な鬼を追い払う「鬼やらい」を想像するが、長田神社の鬼は異なる意味を持つ。ここでは鬼は「神々のお使い」とされ、災いを払い清め、清々しい新年を迎えることを祈り舞う存在なのだ。室町時代から約650年続くこの神事は、兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されている。
追儺式では、一番太郎鬼、赤鬼、青鬼、姥鬼、呆助鬼、餅割鬼、尻くじり鬼の七匹の鬼が登場する。彼らは祭りの前日から「鬼宿」に籠り、身を清めるために井戸水を浴び、さらに当日の早朝には須磨の海岸で海中に入って禊を行うという。これは、鬼が単なる悪役ではなく、神の代理として重要な役割を果たすための厳格な準備である。社殿前には舞台が設けられ、太陽と月、天地を表す「泰平の餅」、日本全国を表す「六十四州の餅」、そして一年十二ヶ月を表す「影の餅」が飾られる。鬼たちは太鼓や法螺貝の音に合わせて舞い、最後に「影の餅」を斧で割ることで、一年の災厄を祓い清め、豊穣と平和を願うのだ。
また、長田神社には「鶏のお宮」という別称があった時期もある。かつては神の使いとして数百羽のニワトリが境内に放し飼いにされ、外国人からは「チキンテンプル」と呼ばれていたという。これは事代主神の神託とされる「鶏鳴の聞こゆる里は、吾が有縁の地なり」という言葉に由来するとされ、祈願の際にはニワトリを奉納したり、ニワトリの絵馬を捧げる風習もあった。
さらに、境内にある楠宮稲荷社の裏手には、樹齢800年を超えるとも推定される巨大なクスノキがそびえ立つ。このクスノキは御神木として崇められ、この木に宿る神の化身が「赤エイ」であるという伝説が伝わる。特に痔病平癒に霊験があるとされ、今も「赤えい」を描いた絵馬が多数奉納されているのだ。このように、長田神社は、単一の祭神信仰にとどまらず、地域の歴史、伝承、そして人々の具体的な願いに寄り添う、多様な信仰の層を内包している。
鬼の役割をめぐる対比
日本の各地で節分に行われる追儺式は数多いが、その多くは邪気を祓い、悪鬼を追い払うことを目的とする。宮中の年中行事として始まった追儺も、やがて民間に広がり、現代の豆まきへと繋がったとされる。しかし、長田神社の追儺式における鬼は、こうした一般的な鬼のイメージとは一線を画している。長田の鬼は、災いをもたらす存在ではなく、むしろ神々に代わって災いを払い清め、福を招く「神のお使い」なのだ。
この「善き鬼」という概念は、東北地方の「なまはげ」や「おしらさま」といった民俗信仰にも通じるものがある。なまはげもまた、怠け者を戒め、福をもたらす来訪神であり、単なる恐怖の対象ではない。長田神社の追儺式に見られる鬼の役割は、外来の思想である「鬼は悪しきもの」という概念が、日本古来の多神教的な信仰や、自然を畏れ敬う精神と融合する中で、独自の解釈と変容を遂げた一例と捉えることができる。これは、普遍的な年中行事である「鬼やらい」が、特定の地域文化の中でいかに多様な意味を持ち得るかを示す興味深い事例だろう。
また、長田神社は神戸という地名の由来になった「神戸(かんべ)」という歴史を持つ点で、他の多くの神社とは異なる重層的な意味合いを帯びている。伊勢神宮や住吉大社など、全国の主要な神社にも「神戸」が設定された例は存在するが、長田神社の場合、その「神戸」が直接、今日の政令指定都市「神戸市」の名称に繋がったという歴史的経緯は、この地の歴史的形成において極めて重要である。多くの神社が地域に根ざしながらも、都市名そのものの起源となる例は決して多くない。これは長田神社が、単なる信仰の対象としてだけでなく、この地の地理的・経済的な発展と深く結びついてきた証左とも言える。
さらに、同じ神戸市内に鎮座し、神功皇后の創建伝承を共有する生田神社や廣田神社と比較すると、それぞれの神社の主祭神と御神徳の違いが際立つ。生田神社は稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀り縁結びや安産に、廣田神社は天照大御神の荒魂(あらみたま)を祀り国家鎮護の性格が強い。これに対し長田神社は事代主神を主祭神とし、商売繁盛や産業の守護、そして平和的な国譲りの精神を象徴する。この三社がそれぞれ異なる御神徳を持ちながら、神戸という地で共存し、それぞれの役割を果たしてきたことは、この地域の信仰の多様性と深さを示している。長田神社は、特に「恵比寿さま」としての親しみやすさから、中小企業が多く集まる長田区において、市民生活に密着した「市民的神社」としての性格を強く持つに至ったのである。
都市の変遷と境内の現在
現代の長田神社は、神戸市の中心部からほど近い長田区の市街地に位置している。神戸市営地下鉄や阪神高速長田駅から徒歩圏内にあり、参道は「長田神社前商店街」へと続き、古くからの信仰の場が現代の都市生活の中に溶け込んでいる。この商店街は、震災からの復興を経て、地域住民の生活を支えるとともに、神社の祭りや行事と連携しながら活気を保っているという。
境内には、昭和3年(1928年)に再建された本殿、幣殿、拝殿をはじめとする16件の木造建築物が国の登録有形文化財に指定されている。これらは、漆下地丹塗や極彩色、銅板葺き、飾金具など、昭和初期の神社建築における復古新様式を代表する造形美を持つとされる。また、宝物庫には国指定重要文化財の「黒漆金銅装神輿」や、兵庫県指定重要有形文化財の「石灯籠」「太刀拵」などが収蔵されており、その歴史の深さを今に伝えている。特に「黒漆金銅装神輿」は、伝源頼朝奉納とも足利尊氏奉納とも言われるが、康正3年(1457年)の修理棟札が残るなど、中世からの歴史を持つ貴重な品である。
毎年2月に行われる「古式追儺式神事」は、現代においても長田神社の年中行事のハイライトである。多くの参拝者が訪れ、鬼が持つ松明の灰を浴びて厄除けを願ったり、餅花を食べて無病息災を祈る風習が今も息づいている。この神事は、地元の人々にとっては単なる観光イベントではなく、「長田さんにお参りに行く」という家族ぐるみの年中行事として、暮らしの中に深く根付いているのだ。正月三が日には、全国的に見ても多くの初詣客で賑わう光景が見られる。
平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災では、長田区は特に大きな被害を受けた地域の一つである。長田神社も社殿が大きく傾くなどの損傷を受けたが、倒壊は免れた。震災発生直後から、神社は参集殿を臨時避難所として提供し、境内を炊き出しの拠点として開放するなど、被災した地域住民の心の拠り所として機能した。この時の経験は、長田神社が単なる宗教施設にとどまらず、地域社会の基盤として、また災害時のセーフティネットとしての役割を担い続ける、その現代における姿を強く印象付ける出来事であった。
長田神社の歴史と現代の役割
長田神社の歴史と現在を辿ると、都市の発展と災害、そして人々の暮らしの変遷の中で、その存在がどのように息づいてきたかが見えてくる。神功皇后の託宣に始まる創建の物語から、神戸という地名の由来となり、やがて「恵比寿さま」として商工業の守護神となり、地域住民から「長田さん」と親しまれるに至るまで、長田神社は常にこの土地と共にあった。
特に、追儺式神事における「神のお使いとしての鬼」という解釈は、一般的に流布する鬼のイメージを反転させ、日本の信仰が持つ多様な受容の形を示している。災厄を追い払うだけの存在ではなく、清めと福をもたらす存在としての鬼の姿は、この地の文化が持つ独特な奥行きを感じさせるものだ。それは、普遍的な事象に対し、地域が独自の意味を付与し、伝承として育んできた証左である。
また、阪神・淡路大震災という未曾有の災害を経験し、社殿が大きく損傷しながらも、復興の拠点として機能し、再びその姿を取り戻したことは、長田神社が単なる歴史的建造物ではなく、今を生きる人々の精神的な支柱であり続けていることの何よりの証左だろう。都市化の波に洗われ、風景が目まぐるしく変わる中でも、古代からの伝承と、そこから派生した多様な信仰、そして地域との深い結びつきは、長田神社という存在を不動のものとしている。神戸という都市の歩みそのものが、この神社の歴史と深く重なり合っているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 長田神社 - 神仏霊場会【公式ページ】shinbutsureijou.com
- 長田神社genbu.net
- 御由緒の御案内nagatajinja.jp
- 御祭神・由緒・歴史 | 長田神社nagatajinja.jp
- 長田神社~鬼は神様、豆を投げてはいけない神社~|神社専門メディア 奥宮-OKUMIYA-okumiya-jinja.com
- 長田神社 | 神戸っ子kobecco.hpg.co.jp
- 長田神社のご利益・御朱印・完全ガイド|映画ロケ地も楽しめる参拝スポット | 心の安らぎと癒しを求めて、長田神社の魅力をお伝えします。jinjya2.shikake-hayame.com
- 名所めぐり:長田神社 | 兵庫県立歴史博物館:兵庫県教育委員会rekihaku.pref.hyogo.lg.jp