個人コレクションでありながら国立博物館のように通史を網羅する、京都・細見美術館はどのようにして生まれたのか?

吹き抜けの底に広がる静寂
京都・岡崎の文化エリアを歩くと、巨大な赤い鳥居や重厚な車寄せを持つ大きな公立美術館が目に入る。そうした巨躯の建築が並ぶ通りから少し北へ折れた角に、ごく控えめな佇まいの建物がある。地上から見上げると、2階建てか3階建ての小ぶりな和風モダン建築に過ぎないように思える。
しかし一歩足を踏み入れると、視界は下方に向かって大きく拓ける。建物の中心に地下2階から地上3階までを貫く広大な吹き抜けの中庭があり、来館者は階段やエレベーターを使って半地下の回廊へと降りていく構造になっている。光が上方から差し込み、影が地下の壁面を静かに滑る。
一般に個人のコレクションを基盤とする私立美術館といえば、一人の実業家が揺るぎない審美眼で集めた「一貫した美学の展示場」であるか、あるいは特定の流派や作家を極めた専門館であることが多い。根津美術館の茶道具、出光美術館の東洋陶磁や仙厓、足立美術館の近代日本画などがその代表だろう。
だが、この細見美術館の収蔵庫に眠る約1000点におよぶ作品群の目録を眺めると、戸惑いを覚える。そこには平安・鎌倉時代の密教法具や神鹿御正体、室町時代の水墨画や茶の湯釜があるかと思えば、江戸時代の伊藤若冲による濃密な花鳥画や、尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一らの琳派の絵画、さらには明治・大正期の神坂雪佳までが並んでいる。
縄文や弥生の古代から近代に至るまで、日本の美術工芸のほぼあらゆる分野と時代が、過不足なく網羅されている。一家族の私蔵品でありながら、なぜこれほどまでに国立博物館の縮小版のような多層性と通史的な幅を持つに至ったのだろうか。
毛織物から古美術への道筋
コレクションの起源は、大阪府泉大津市で毛織物業を営んでいた実業家、細見亮市(1901-1978、号して初代古香庵)にさかのぼる。泉州地域の毛織物産業で財を成した彼は、戦前から戦後にかけての社会の激動期に、旧家や寺院から流出した古美術品を精力的に買い集めた。
初代古香庵が求めたのは、造形の厳しさであった。彼は「世界最高の美術品は日本の藤原時代の仏画だ」「自分は金属工芸からこの道に入ったので、ものの形の厳しさと甘さがわかる」と言い遺している。彼にとっての美の頂点は、平安時代後期の仏画や、真言密教の法具、神社に納められた神鹿御正体といった宗教美術に存在した。
金属という素材が持つ硬質さ、信仰の切実さが生み出す無駄のないフォルム、それらの「厳しさ」を鑑賞する眼が、初代の収集の軸であった。具体的には、重要文化財に指定されている《金銅春日鹿御正体》や《絹本著色愛染明王像》、あるいは芦屋釜に代表される古釜や銅鏡などが、この時期に細見家の蔵へと納められていった。
だが、現在の細見美術館を訪れる人々が期待する看板の多くは、そうした厳格な宗教美術ばかりではない。多くの観客を引きつけるのは、伊藤若冲の《雪中雄鶏図》や《糸瓜群虫図》、あるいは酒井抱一の《白蓮図》、鈴木其一の《朴に尾長鳥図》といった、華やかで意匠性に富んだ江戸時代の絵画群である。
この二つ目の巨大な軸を打ち立てたのが、初代の長男である細見實(1922-2006、二代古香庵)だった。二代古香庵は、早くから父の薫陶を受けて美術品に触れて育ったものの、やがて父とは全く異なる領域へと強い関心を寄せるようになる。
父の亮市が宗教的な厳粛さを至上としたのに対し、息子の實が魅了されたのは、江戸時代の都市文化の中で咲き誇った絵画の世界だった。昭和40年代、伊藤若冲がまだ世間一般には「奇想の絵師」として再評価される以前から、二代古香庵は妻の有子とともに、若冲の作品を精力的に蒐集し始めた。
当時はまだ美術市場において若冲の評価は定まっておらず、顧みる者も少なかった時代である。二代古香庵は《瓢箪・牡丹図》を手に入れたことを契機に若冲の描写力と独自性に開眼し、まだ安価であった名品を次々と買い求めていった。
当然ながら、宗教美術至上主義であった父と、江戸時代の町人文化や装飾画に傾倒した息子との間には、コレクションの方向性をめぐって浅からぬ葛藤や相克が存在したとされる。父から見れば、息子の集める江戸絵画は「軽薄で世俗的な装飾」に見えたかもしれない。
しかし、父子の美意識の違いは、コレクションを分裂させるのではなく、結果として細見家の蔵の中に二重の地層を形成することになった。1994年、これらの膨大なコレクションを保存・公開するために財団法人細見美術財団(現・公益財団法人)が設立され、1998年3月に現在の京都・岡崎の地に細見美術館が開館したのである。
父の造形美と息子の江戸絵画
なぜ、初代と二代の間の趣味の対立が、コレクションの散逸や破綻を引き起こさず、日本美術史を包括する奇跡的な相乗効果を生み出したのだろうか。その理由は、二人が見ていた「美の構造」の補完関係にある。
初代・細見亮市が選んだ品々は、いずれも「祈り」や「儀礼」の衝動から生まれたものだった。南北朝時代の《金銅春日鹿御正体》は、神仏習合の思想のもとで春日大社の神域を金属で立体化した垂蹟曼荼羅の一種であり、そこには一切の妥協を許さない彫金の緊張感がみなぎっている。あるいは室町時代の水墨画や茶の湯の釜も、禅的な静寂や緊張感を内包していた。
それに対して、二代・細見實が蒐集した作品群は、「生活を彩る」あるいは「見る者を驚かせる」という世俗の動機から生まれたものだった。伊藤若冲の《糸瓜群虫図》には、伸びやかな糸瓜の蔓の間に、蛙やバッタ、甲虫など11種類もの生き物が緻密かつ滑稽に描き込まれている。若冲が描く鶏の羽毛や鋭い眼光は、宗教的な威厳ではなく、生命の形態に対する偏執的なまでの観察眼と絵画的実験の賜物であった。
また、二代古香庵が熱心に集めた琳派のコレクションは、俵屋宗達や本阿弥光悦に始まり、尾形光琳・乾山兄弟、江戸琳派の酒井抱一や鈴木其一、さらには明治から大正にかけて京都で活動した神坂雪佳に至るまで、約350年にわたる流派の継承をそっくりそのまま辿ることができる規模を誇る。
酒井抱一の《白蓮図》に見られる洗練された抒情、鈴木其一の《朴に尾長鳥図》における朴の葉に施された「たらし込み」の技法と鮮烈な色彩の対比。二代古香庵は、父が排除しようとした「装飾性」や「遊び」の中に、日本美術のもう一つの本質であるデザイン性と意匠の系譜を見出していたのである。
父が蒐集した「神話と祈りの造形」という強固な垂直軸の上に、息子が蒐集した「装飾と観察の絵画」という伸びやかな水平軸が交差した。この二つの軸が揃ったことで、細見コレクションは単なる実業家の道楽を越え、日本美術が古代から近世へと至る精神史の移り変わりをそのまま反映する構造を獲得した。
さらに、三代目となる細見良行(1954-、現館長)は、この二代にわたる膨大な蓄積を、個人蔵の秘宝から開かれた美術館の蔵書へと転換させる役割を担った。常設展示室をあえて作らず、企画展ごとにテーマを変えて展示品を入れ替える手法を採ったことで、1000点に及ぶ所蔵品は硬直化することなく、常に新しい文脈の中で光を照射されることになったのである。
個人の眼がつくった美術館の比較
日本の私立美術館の成り立ちを振り返ると、コレクターの個性が館の性格を強固に規定しているケースが多い。細見美術館の持つ独自性は、他の代表的な私立美術館や個人コレクションと比較することで、より明確になる。
たとえば、東京の根津美術館は、東武鉄道などを率いた実業家・初代根津嘉一郎のコレクションを基盤とする。根津の収集は「茶の湯」を中心軸に据えており、中国古代の青銅器から国宝の『燕子花図屏風』に至るまで、茶席の取り合わせや客をもてなす文脈において美が見出されている。収集のスケールは壮大だが、全体を貫くのは「大茶人」としての見立ての美学である。
あるいは、出光美術館は出光興産の創業者・出光佐三の眼によって築かれた。仙厓義梵の自由奔放な禅画や、中国・日本の陶磁器を中心とするコレクションは、出光佐三個人の人間観や事業観、東洋哲学への傾倒と深く結びついており、館全体に創業者個人の確固たる精神的磁場が漂っている。
また、海外に目を向けるならば、アメリカのエレクトロニクス技術者ジョー・プライスによるプライス・コレクションが挙げられる。プライスは日本の伝統的な美術史の評価に惑わされず、自らの視覚的な直感だけを頼りに伊藤若冲や江戸時代の絵画を買い集めた。その結果、偏執的なまでに鋭く尖った、若冲研究の先駆となるコレクションが形成された。
これらと比較したとき、細見美術館のコレクションは極めて特異な構造を持っていることがわかる。
根津や出光のような単一の偉大な創業者による「一つの美学」で完結していない。さりとて、プライス・コレクションのように特定の作家や時代だけに極端に尖鋭化してもいない。細見美術館は、初代の「厳格な金工・神仏美術」と二代の「華麗な江戸絵画・琳派」という、相反する二つの強い個人の眼が相克しながら同居している。
公立の国立博物館や市立美術館が、行政的な公平さや教育的予算に基づいて「日本美術史の各時代を漏れなく揃える」という意識で収集を行うのとは、成り立ちが根本から異なる。細見美術館にある約1000点は、歴史の教科書を作るために集められたのではなく、ひとつの家族の父と息子が、それぞれの時代において自らの審美眼を極限まで研ぎ澄ませた結果として集まったものだ。
「私蔵の濃密な執着」でありながら、結果として「公的な通史の網羅性」を達成している。この二重性こそが、他のいかなる私立美術館とも異なる細見美術館の足場となっている。
吹き抜けと半地下の展示空間で
こうした三代の歴史と膨大なコレクションを受け止めるため、1998年に作られた建築自体も、周到な設計思想に基づいている。設計を手掛けたのは建築家の大江匡(1954-2011)である。
岡崎公園に近接するこの地は、京都市の厳格な風致地区指定や高さ制限が適用される場所である。大江匡は地上部分のボリュームを極力抑え、和の要素を取り入れた端正な外観を持たせつつ、建物の中心部を地下深くへと掘り下げた。
地上3階から地下2階までを貫くパティオ(中庭)の吹き抜けは、京都の伝統的な町家に見られる「通り庭」や「中庭」の空間構造を現代建築へと翻訳したものである。来館者は地上から光の差し込む吹き抜けを眺めながら地下へと降り、展示室を回廊のように巡っていく。
あえて常設展示室を配置していない点も、この建築の機能と密接に関わっている。1000点におよぶ所蔵品は、温度や湿度が厳重に管理された収蔵庫に保管され、年に数回開催される企画展ごとに選ばれて展示室へと引き出される。
平安時代の密教法具が整然と並ぶ神聖な空間になったかと思えば、次のシーズンには若冲の鶏や琳派の草花が壁面を埋め尽くす。展示空間そのものが、企画展のテーマに応じて表情を変える柔軟な器として機能しているのである。
さらに、館内には美術鑑賞の余白を担保する空間が巧みに配置されている。最上階の3階には本格的な数寄屋造りの茶室「古香庵」が設けられており、岡崎の東山連峰を遠望しながら薄茶と和菓子を楽しむことができる。
また、地下から1階にかけては吹き抜けに面したカフェ「CAFÉ CUBE」や、ミュージアムグッズや和雑貨を扱うショップ「ARTCUBE SHOP」が併設されており、地下の展示室で美術品と対峙した後の視線を、緩やかに日常へと戻すクッションの役割を果たしている。
近隣にある京都市京セラ美術館の壮大な近代建築や、京都国立近代美術館の現代的なガラス張り外観と比べると、細見美術館は街の風景の中にひっそりと潜み、訪れた者を地下の静寂へと誘い込む構造になっている。
ひとつの家族が重ねた層の厚み
細見美術館の展示室に立つとき、私たちが目にするのは単なる「名品の羅列」ではない。それは、大阪の毛織物産業を支えたひとつの家族が、三代にわたって美術品と向き合い、格闘してきた時間の累積である。
初代・細見亮市が金属の冷たさと厳しさに求めた「祈りの造形」。二代・細見實が若冲や抱一の筆致に見出した「世俗の装飾美と意匠の遊戯」。そして三代・細見良行がそれを現代の都市の中にひらき、流動的な企画展として提示し続ける「継承の仕組み」。
日本の美術史を語るとき、しばしば「平安・鎌倉の宗教的な世界観」と「江戸時代の町人文化による装飾性」は、断絶したもの、あるいは対立するものとして記述されがちだ。しかし、この岡崎の半地下の展示室では、それらが同じひとつの家族の収集という器の中で、不思議な調和を保ちながら隣り合っている。
平安時代の《金銅春日鹿御正体》に宿る神聖な造形の厳しさを知る眼があるからこそ、江戸時代の伊藤若冲が描く《雪中雄鶏図》の羽毛の極彩色や構図の破格さが、単なる奇抜さではなく、日本美術の深層から湧き出た革新であったことが理解できる。
細見美術館という場所は、個人の苛烈な執着が集積された末に、個人の枠を越えて日本美術の構造そのものを照射し始めた、極めて稀有な空間として京都市岡崎の街に建っている。地下へと向かう階段を降り、薄暗い展示室のガラス越しに作品と向き合うとき、そこには一族が重ねた静かな美の地層が広がっている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 細見美術館 | 京都観光情報 KYOTOdesignkyoto-design.jp
- 細見美術館、開館25周年で振り返る蒐集の歴史|美術手帖bijutsutecho.com
- 細見美術館|【京都市公式】京都観光Navija.kyoto.travel
- 京都 細見美術館-細見美術館についてemuseum.or.jp
- 京都 細見美術館-細見美術館についてemuseum.or.jp
- 細見美術館 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 細見美術館 | 京都で遊ぼうART ~京都地域の美術館、展覧会、アート系情報ポータルサイト~kyotodeasobo.com
- 細見美術館 | ミュージアム検索 | 京博連kyoto-museums.city.kyoto.lg.jp