都の外側だった白河が、国家の最高権力の中枢へとどのようにして変貌していったのか

東の境界に流れる白い砂の川
京都の町を歩いていて「白川」という名に出会うとき、多くの人が思い浮かべるのは祇園の風情かもしれない。石畳の道に沿って澄んだ浅い流れがあり、柳の枝が水面を撫で、茶屋の格子窓が連なる。あるいは、寺院の方丈庭園に敷き詰められた白砂、いわゆる「白川砂」を思い出す人もいるだろう。比叡山の花崗岩が風化して生まれたその砂は、光を柔らかく反射し、京都の枯山水に欠かせない素材として知られている。
しかし、平安時代から中世にかけての古記録を開くと、白川(白河)という言葉は、単なる河川の名を超えた、ある特定の巨大な空間を指す固有名詞として現れる。しかもその場所は、平安京の条坊制が敷かれた碁盤の目の内側ではなく、鴨川を渡った東側の「洛外」であった。
都の外側でありながら、ある時期の白河は、天皇や上皇が居並び、事実上の国家の最高権力が振るわれる政治の中枢として機能していた。本来、平安京の周縁であり、鳥辺野と並ぶ葬送の地でもあった東山の裾野が、なぜ都そのものを凌駕する権力の座へと変貌したのだろうか。都の東の境界に横たわるこの土地の来歴をたどると、中心と周縁が逆転していった京都の構造的な力学が浮かび上がってくる。
葬送の野から「京白河」へ
白川は、比叡山と如意ヶ嶽の谷あいを源流とし、山中越の街道沿いを下って京都盆地へと注ぐ、全長約9.3キロメートルの小河川である。東山の山麓に白川が形成した扇状地には、縄文時代の住居跡が発掘されるなど、古くから人々の営みがあった。だが、延暦13年(794年)に平安京が建設された当初、鴨川の東側に広がる白河の地は、国家の都市計画の外側に位置していた。
当時の白河は、平安京から東国や近江へと向かう粟田口の街道筋であり、同時に鳥辺野や蓮台野などと同様に、死者を送る葬送の地でもあった。生者の暮らす整然とした条坊都市の外側に、山から運ばれる砂と水が広がる荒涼とした野が広がっていたのである。
この地の性格が変わり始めるのは、平安時代前期、貴族たちが別荘(別業)を構え始めてからである。承和年間以降、摂政となった藤原良房が白河の地に「白河殿」を造営したのを皮切りに、藤原道長をはじめとする摂関家の人々や、藤原済時、藤原公任といった貴族たちがこぞってこの地に別邸を築いた。東山の豊かな緑と白川の清らかな水流は、平安貴族にとって都市の喧騒を逃れ、観桜の宴や四季の詩歌の会を催す絶好の風流の舞台となったのである。
だが、白河が決定的な変貌を遂げるのは平安時代後期、摂関家から皇室へと権力の主導権が移る「院政」の時代である。
藤原師実の代に、白河殿は時の白河天皇へ献上された。白河天皇はこれを契機として、承保4年(1077年)に法勝寺を建立する。法勝寺には巨大な八角九重塔がそびえ立ち、洛外の風景を一変させた。以降、歴代の天皇や女院によって尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺が次々と建立され、すべて寺名に「勝」の字がつくことから「六勝寺」と総称される大寺院群が白河の一帯を埋め尽くした。
さらに白河上皇は、退位後の寛治4年(1090年)頃、法勝寺の別当であった覚円の僧房を改修して御所(白河泉殿)とし、永久3年(1115年)には白河南殿、元永元年(1118年)には白河北殿を新造した。上皇はこの二つの御所を行き来しながら政務を執り、公卿たちが連日この洛外の御所へと伺候した。国家の重要な決定が内裏ではなく鴨川の東側で行われるようになり、当時の貴族の日記には、この地を指して「京白河」という言葉すら記されるようになったのである。
都の外側であったはずの白河は、こうして都の中心そのものを呑み込む巨大な政治・宗教都市へと発展した。だが、治承・寿永の乱(源平合戦)が勃発すると、東国への交通の要衝であった白河は兵乱に巻き込まれ、相次ぐ戦火と略奪によって急速に荒廃していく。鎌倉時代に入ると、白河の中心部は「岡崎」と呼ばれるようになり、承元2年(1208年)に後鳥羽上皇が「岡崎御所」を構えるなど一部の再建は見られたものの、かつての六勝寺の威容は次第に失われていった。
都の規制を免れた三つの条件
なぜ平安京の内側ではなく、鴨川を越えた白河の地に、あれほど巨大な権力空間が形成されたのか。そこには、空間の制約、交通網の構造、そして都市法制上の自由という三つの要因が複合的に絡み合っていた。
第一の要因は、条坊制都市としての平安京の制度的限界である。平安京の内部は、厳格な条坊制によって土地が格子状に区画され、貴族の邸宅であっても敷地の広さや用途に一定の制限が存在した。さらに内裏の内部や京中では、火災の頻発や死穢・産穢といった宗教的禁忌(穢れ)に対する厳しい規定が課されていた。天皇が退位して上皇となり、摂関家の統制を離れて独自の専制権力を振るおうとしたとき、既存の都市空間のルールに縛られない広大な用地が必要とされたのである。洛外の白河は、土地利用の制限を受けることなく、八角九重塔のような規格外の巨大建造物や、広大な池泉を持つ御所を自由に設計できるフロンティアであった。
第二の要因は、地勢と水利、そして東国へと通じる街道の結節点であったことだ。白川がもたらす花崗岩の扇状地は水はけが良く、東山の山麓から湧き出る清冽な水は庭園の遣水として格好の条件を備えていた。また、南の粟田口は逢坂関を越えて東海道・東山道へ向かう京都の最大の東の玄関口であり、白川沿いを遡る山中越は琵琶湖西岸の近江へと抜ける重要な軍事・交通の短絡路であった。近江は皇室や貴族の重要な経済基盤(荘園)が集中する地域であり、東国武士団の動向を監視し、物資を直接引き入れる上でも、白河は内裏よりもはるかに実利的な位置にあった。
第三の要因は、比叡山延暦寺との政治的・宗教的距離感である。平安時代後期、延暦寺の僧兵集団は強大な軍事力を持ち、神輿を担いで強訴を繰り返すなど、朝廷にとって最大の脅威となっていた。白河上皇自身、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と嘆いたと伝えられる。白河の地は、比叡山から京都へ下るルートの途上にあり、延暦寺の勢力を懐柔しつつ、その宗教的権威を王権の守護へと組み込むための防衛線であり結界でもあった。六勝寺の造営は、天台宗の有力僧侶を別当に据えることで、寺社勢力を院の統制下に引き入れる政治的装置としての役割も担っていたのである。
こうして、制度の制約を外れ、交通と経済の動脈を押さえ、宗教勢力と対峙する場として、白河は選ばれるべくして選ばれた。
洛南・鳥羽と洛西・嵯峨との対比
平安京の周縁に築かれた権力拠点という視点で見ると、白河の特異性は、同時期の他の郊外拠点と比較することでより明確になる。
最も直接的な比較対象となるのは、白河と並ぶ院政期の二大拠点であった洛南の「鳥羽(鳥羽離宮)」である。白河上皇や鳥羽上皇は、洛東の白河だけでなく、鴨川と桂川の合流点に近い鳥羽にも広大な離宮と勝光明院などの寺院を造営した。
鳥羽が選ばれた最大の理由は、淀川を通じて瀬戸内海、西国へと通じる水上交通の要衝(鳥羽津)であった点にある。西国からの貢納物資や武士団の集結地を押さえる港湾都市としての性格が鳥羽の本質であったのに対し、白河は東海道・東山道・北陸道方面を視野に入れた陸上交通の要衝であり、比叡山との直接的な対峙空間であった。鳥羽が「西の港湾・物流拠点」であったとすれば、白河は「東の結界・軍事街道の要塞」としての性格を強く帯びていたといえる。
一方、平安時代初期に嵯峨上皇が離宮(嵯峨院、後の大覚寺)を築いた洛西の「嵯峨」との対比も興味深い。嵯峨もまた、平安京の西の境界に位置し、保津川(大堰川)の景勝地として貴族の別荘地となった。しかし、嵯峨は主に文化的な隠退の場、風流の地としての性格に留まり、国家の行政機構そのものが恒常的に移転して都を圧倒するほどの政治副都化は起こらなかった。
嵯峨が「都からの退避」であったのに対し、白河は「都の再編と権力の拡張」のために用いられたという決定的な違いがある。白河は単なるリゾート地ではなく、平安京という旧来の枠組みを乗り越えるために意図的に構築された、新しい王権のための実験場であった。
近世の村落から近代文化の集積地へ
戦乱によって六勝寺の伽藍が灰燼に帰した中世以降、白河の空間構造は南北で大きく二つに分かれていった。
南側の地域は「岡崎」と呼ばれるようになり、応仁の乱を経て田畑が広がる近郊農村へと戻っていった。一方、北側の「北白川」地域は、江戸時代を通じて「白川村」という独立した村落を形成した。
近世の北白川は、独自の産業と生活文化を育んだ。白川の急流を利用した水車による精米や製粉業が盛んになり、比叡山の山裾で採れる花を頭に乗せて京の町中へ売り歩く「白川女(しらかわめ)」の風俗が定着した。さらに、白川の川底から採掘される良質な白川砂は、宮殿や寺院の庭園用資材として珍重され、石工の町としても知られるようになった。
この地に再び劇的な転換が訪れたのは、明治維新以降の近代化の波である。
東京奠都によって活気を失った京都の復興事業として、明治23年(1890年)に琵琶湖疏水が完成すると、白河の景観は一変した。滋賀から引かれた膨大な水流は、京都市動物園の北側で白川と交差・合流し、かつての水無川に近い小河川に豊かな水量を注ぎ込んだ。
明治28年(1895年)、平安遷都1100年を記念して岡崎の地に平安神宮が創建され、第四回内国勧業博覧会が開催された。これを契機に、岡崎は博覧会跡地を利用した美術館、図書館、動物園、勧業館(みやこめっせ)などが立ち並ぶ、京都を代表する近代文化・文教ゾーンへと急速に再編されていった。かつて六勝寺の巨大伽藍が並んだ場所に、今度は近代国家の文化施設が敷き詰められたのである。山縣有朋が無鄰菴を構え、琵琶湖疏水の水を引き入れた名庭を作庭したのもこの時期である。
一方、北白川地域もまた、明治30年(1897年)の京都帝国大学の創設に伴い、北部キャンパス(理学部・農学部など)が設置されたことで、農村から学者や学生が集う閑静な文教・住宅街へと姿を変えた。
さらに、白川の下流部にあたる東山区の祇園白川では、江戸時代から続く花街の情緒を色濃く残す町並みが保存され、昭和の歌人・吉井勇が「かにかくに 祇園はこひし 寐るときも 枕のしたを 水のながるる」と詠んだ通りの風情が今も維持されている。一本の白川という水脈を軸にしながら、上流の住宅地、中流の近代文化地区(岡崎)、下流の花街(祇園)という、重層的で異なる顔を持つ都市空間が完成したのである。
境界であり続けた場所の必然
京都に「白河夜船」という故事がある。京都へ行ってきたと知ったかぶりをする男が、白河の様子を聞かれて川のことだと思い込み、「夜に船で通ったのでよく知らない」と答えて嘘が露見したという笑い話である。熟睡して前後を弁じないことを意味する言葉として残っているが、この逸話自体、江戸時代の人々にとって「白河」が川の名であると同時に、京都を代表する名高い地域名として認識されていたことを物語っている。
白河という土地の歴史を振り返ると、そこには一貫して「境界」としての役割が通底している。
平安京の時代には都市と山野の境界であり、生と死の境界であった。院政期には、旧来の貴族政治と新たな武家・専制権力の境界となり、制度の枠を突破する空間として機能した。近代においては、伝統的な古都と西洋的な近代文化が邂逅する実験場となった。
現在、岡崎の美術館通りを歩いても、かつて地上50メートルを超えたという法勝寺八角九重塔の痕跡は、わずかな石碑と解説板を残すのみで、視覚的にはほとんど残されていない。だが、琵琶湖疏水と白川が立体的に交差する水路の構造や、東山に向かって緩やかに傾斜する扇状地の地形、そして下流の古川町に架かる行者橋(千日回峰行を終えた阿闍梨が最初に渡る一本橋)の素朴な石造りの佇まいに、都の外側として聖と俗、東国と畿内を繋ぎ留めてきた土地の骨格が今も静かに刻まれている。
白河は、都の外側にありながら、都の輪郭そのものを更新し続けた場所であった。その歴史の厚みは、観光地の風景の背後に、確かな地形と人の意志の積層として横たわっている。
旅と食が好き。どこにでもいます。