2026/6/7
越後國一之宮 居多神社、出雲神話から親鸞伝説までを辿る

越後國一之宮 居多神社について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
新潟県上越市の居多神社は、越後国一之宮として古代から信仰を集めてきた。出雲神話との関連、戦乱による焼失、海岸侵食による遷座、そして親鸞聖人との関わりなど、その長い歴史と信仰の変遷を辿る。
新潟県上越市、日本海に面した直江津の町を歩くと、時折、潮風とは異なる古びた気配を感じることがある。それは、この土地が持つ歴史の重み、あるいは幾度となく打ち寄せる波が刻んできた時間の痕跡なのかもしれない。特に五智の小高い丘に鎮座する居多神社は、越後国一之宮と称される古社であり、その存在自体がこの地の歴史を静かに問いかけてくる。
なぜ、この海岸近くの地に、これほど格式高い神社が置かれたのか。そして、その長い歴史の中で、どのような変遷を辿り、今に至るのか。居多神社は、ただ古いだけでなく、神話の時代から現代まで、この越後の地に生きた人々の信仰と、時に抗いがたい自然の力、そして権力者の思惑が複雑に絡み合った様を今に伝えている。その背後には、古代の出雲と越の国の交流、中世の戦乱、そして近代の海岸侵食という、重層的な物語が隠されているのだ。
居多神社の創建は定かではないが、その淵源は神代の時代に遡ると伝えられる。主祭神として祀られるのは、大国主命、奴奈川姫、建御名方命、そして事代主命の四柱である。中でも重要なのは、大国主命と奴奈川姫の神話的な結びつきだろう。
『古事記』には、八千矛神(大国主命)が高志国(越前・越後の前身)の沼河に住む沼河比売(奴奈川姫)に求婚する歌を詠み、翌夜に結婚したという記述がある。 この神話は、出雲の勢力が越の国へ進出し、その地の豪族と婚姻関係を結ぶことで勢力を拡大していった過程を象徴するものと解釈されることが多い。奴奈川姫は、特に糸魚川周辺で産出される翡翠を司る女神としても知られ、その美しさと霊力は古代において非常に価値の高いものと認識されていた。 居多神社が、元来「けた」と訓じられ、能登の気多大社や越中の気多神社と同様の出雲系の神社であったという説は、この古代の勢力図と深く関連している。
平安時代には、927年(延長5年)に編纂された『延喜式神名帳』に「越後国頸城郡 居多神社」として記載され、朝廷からも式内社としてその存在が認められていた。 さらに、813年(弘仁4年)には従五位下、861年(貞観3年)には従四位下の神階を朝廷から授けられるなど、早くから越後国における重要な神社としての地位を確立していたことがわかる。 このような朝廷からの厚い保護は、居多神社が単なる地方の信仰の場に留まらず、国家的な祭祀体系の中に組み込まれていたことを物語っている。その立地が越後国府の近くであったことも、国司からの篤い崇敬を受ける要因となった。
居多神社が「越後国一之宮」としての地位を確立したのは、国府に近接するという地理的条件が大きく作用した。古代から越後国司の保護を受け、国府が置かれたこの地域における祭祀の中心を担っていたのだ。 室町時代に入ると、越後守護の上杉家、特に戦国時代の名将・上杉謙信からも厚い崇敬を受けた記録が残る。 謙信は、1560年(永禄3年)に居多神社に制札を掲げ、その神威を重んじたとされる。
しかし、その隆盛は永続するものではなかった。1578年(天正6年)に勃発した上杉景勝と景虎の家督争い「御館の乱」では、居多神社は景虎方に加担したため、景勝軍の攻撃を受け社殿が焼失するという甚大な被害を被った。 この戦乱により、代々神職を務めてきた花ヶ前氏も能登や越中へと流浪を余儀なくされたという。
戦乱が収束し、上杉景勝が会津に移封された後、花ヶ前氏はようやく越後へ帰還を果たす。江戸時代に入ると、幕府や高田藩主松平家など歴代の領主から保護を受け、1648年(慶安元年)には徳川三代将軍家光から百石の朱印地を賜るなど、再び復興の道を歩むことになった。 この時期には、俳人・松尾芭蕉も『おくのほそ道』の道中に居多神社を訪れたと伝えられている。
しかし、神社の歴史には人為的なものだけでなく、自然の猛威も刻まれている。元々、居多神社は現在の社地から北西約1キロメートルの身輪山(みのわやま)、日本海に面した場所に鎮座していた。 しかし、貞和年間(1345~1349年)には社地が陥没し、さらに1866年(慶応2年)には海岸侵食により境内が崩壊するという事態に見舞われた。 このため、1879年(明治12年)に現在の五智の地へと遷座することになる。 遷座後も、1902年(明治35年)には火災で社殿を焼失するなど、苦難は続いたが、その都度再建され、信仰が途絶えることはなかった。
「一之宮」という称号は、特定の地域において最も格式の高い神社を指す。越後国においては、居多神社の他に彌彦神社も一之宮として挙げられることがあり、その背景には歴史的な経緯と地域ごとの信仰のあり方が複雑に絡み合っている。 居多神社が国府に近い立地であったことから、国司の崇敬を早くから集め、行政的な意味合いでの一之宮としての地位を確立したのに対し、彌彦神社は古くからの越後平野の開拓神としての信仰が深く、民衆からの支持も厚かった。この二つの神社が並び称されるのは、越後という広大な地域における信仰の多様性を示している。
居多神社が持つ出雲系の神々、特に大国主命と奴奈川姫の神話は、北陸地方に広く分布する「気多神社」の系統と共通する。能登国一之宮の気多大社をはじめ、越中にも気多神社が存在し、これらの神社は大国主命を祭神とすることが多い。 これは、古代において出雲の文化圏が日本海沿岸を伝播していった歴史的な動きを物語っている。居多神社は、その最東端に位置する重要な拠点の一つであったと言えるだろう。翡翠の産地である糸魚川が近いことも、奴奈川姫信仰がこの地に深く根付いた理由の一つと考えられる。
また、居多神社と親鸞聖人の関わりは、神仏習合が進んだ中世日本における信仰のあり方を深く示している。1207年(承元元年)、越後へ配流された親鸞聖人が最初に居多ヶ浜に上陸し、居多神社に参拝したという伝承は、浄土真宗の歴史においても重要な意味を持つ。 聖人が祈願したところ、境内の葦の葉が一夜にして片方だけを向くようになったという「片葉の葦」の伝説は、「越後七不思議」の一つとして今に伝わる。 これは、神社の持つ霊的な力と、新たに広がりつつあった仏教信仰が、地域の中でどのように共存し、伝説として語り継がれていったかを示す興味深い事例である。
現在の居多神社は、上越市五智の小高い丘に鎮座している。かつて海岸侵食によって移転を余儀なくされた場所から内陸に入ったこの地で、その歴史を刻み続けているのだ。社殿は、2008年(平成20年)に大社造りの新しい本殿が完成し、優美な姿を見せている。 明治期に遷座し、火災に見舞われた後、長らく仮社殿のままだった時期もあることを考えれば、この再建は地域の人々の信仰の篤さを示すものだろう。
境内には、鎌倉時代の作と推定される上越市指定文化財の木造狛犬が安置されており、その古式ゆかしい姿は、神社の長い歴史を今に伝える。 また、中世から近世にかけての居多神社文書も市指定文化財となっており、年一回公開される機会もあるという。 これらの文化財は、居多神社が単なる信仰の場に留まらず、地域の歴史を伝える貴重な資料としての側面を持っていることを示唆している。
現代において、居多神社は縁結び、子宝、安産の神として信仰を集めている。 主祭神である大国主命と奴奈川姫が結ばれた神話に由来するものであり、特に境内の雁田神社は、子宝・安産の神として多くの参拝者が訪れる。 毎年5月3日には例祭、8月19日・20日には講社大祭が行われ、神輿渡御や奉納子供相撲など、地域に根ざした祭礼が催されている。 これらの行事は、かつての国司や武家の保護が、形を変えて現代の地域社会の祭りとして受け継がれている姿と言えるだろう。直江津駅からバスで数分、あるいは徒歩圏内というアクセスも、多くの人々が訪れる理由の一つとなっている。
居多神社の歴史を辿ると、この地が持つ多層的な時間の堆積が見えてくる。神話の時代にまで遡る出雲系神話の伝播、越後国府という政治的中心地としての役割、そして中世の戦乱による破壊と再興、さらには近代の海岸侵食による社地の移転。これらの出来事一つ一つが、居多神社の現在の姿を形作っている。
特に、海岸侵食という自然の力によって社地を移転せざるを得なかったという事実は、人間の営みが常に自然環境と隣り合わせであることを改めて認識させる。数百年、あるいは千年単位で場所を変えながらも、その信仰が途絶えることなく受け継がれてきたのは、祀られる神々の力だけでなく、地域の人々がその歴史と伝説を大切に守り伝えてきた証であろう。
親鸞聖人の伝説が残る「片葉の葦」も、神話と仏教、そして自然現象が融合した、この地ならではの物語である。それは、特定の信仰だけでなく、様々な文化や思想が交差する越後の地の特性をよく表している。居多神社は、単なる越後国一之宮というだけでなく、古代から現代に至るまで、この日本海沿いの地で人々が何に祈り、何を大切にしてきたのかを、その佇まい全体で静かに語りかけてくる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。