2026/6/7
上越の春日山城から高田城へ、移ろいと定着の城下町

上越の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
古代の越後国府から戦国時代の春日山城、江戸時代の高田城へと政治・軍事の中心が移り変わった上越。日本海に面した港と内陸を結ぶ交通の要衝としての地理的条件が、その歴史と都市形成に影響を与えてきた。
上越の歴史は、古代にまで遡る。早くも奈良時代には、この地に越後国の国府が置かれ、政治・文化の中心地としての役割を担っていた。直江津港は当時「水門都宇(みなと)」と記され、日本海側の重要な港として栄えたという。 中世に入ると、戦乱の時代を迎え、越後国は守護である上杉氏、そしてその守護代であった長尾氏の支配下に置かれる。特に戦国時代には、「越後の龍」と称された上杉謙信の居城として、春日山城が天下にその名を轟かせた。 春日山城は、標高約180メートルの春日山全体を巧みに利用した山城で、複雑な地形を活かした土塁や空堀が巡らされ、難攻不落の要塞として機能した。 謙信はここを拠点に、川中島の戦いや関東への遠征を繰り返したのである。城内には家臣団の屋敷が多数配置され、直江兼続の屋敷跡も残る。 しかし、天正6年(1578年)の謙信の死後、家督を巡る「御館の乱」を経て上杉景勝が後を継ぐものの、慶長3年(1598年)には豊臣秀吉の命により会津へと移封されることとなる。 替わって越後に入封したのは豊臣大名の堀秀治であった。秀治は春日山城の不便さから、直江津港に近い平地に福島城を築くが、その子忠俊の代に御家騒動で改易となる。
堀氏の改易後、慶長15年(1610年)には徳川家康の六男である松平忠輝が信濃川中島から越後に入封し、福島城主となる。 しかし、福島城は度重なる水害に見舞われたため、忠輝は新たな城の築城を決意する。 慶長19年(1614年)、徳川家康の命による「天下普請」として、高田城の築城が開始された。 この普請には、忠輝の舅である伊達政宗が総裁を務め、上杉景勝や前田利常ら13家もの大名が動員されたという。 大坂の陣を目前に控えたこの時期、高田城は豊臣方の重臣である加賀前田家を牽制する重要な拠点として位置づけられたのだ。 築城はわずか4ヶ月という短期間で完了したとされ、外堀を含めると60ヘクタールを超える広大な城郭が築かれた。 高田城には天守閣が建てられず、石垣もほとんど用いられず、全域が土塁で構築された点が特徴である。これは、完成を急ぐ必要があったためと考えられている。 高田城の完成とともに、城下町も高田へと移され、碁盤目状に整備された町割りの中に武家屋敷や町人地が形成された。特に城の西側には、現在も60以上の寺院が残る日本有数の寺町が築かれたのである。 これにより、上越の政治・経済の中心は、春日山から高田へと大きく移行した。
上越の地勢は、その歴史を決定づける重要な要素であった。日本海に面した直江津港は、古くから海上交通の要衝であり、奈良時代の国府の港から、中世には「日本海七湊」の一つに数えられた「江澗」として、北前船の寄港地として栄えた。 米や塩鮭、綿布、麻布などが京阪地方へと運ばれ、遠くは九州や北海道とも交易が盛んに行われたという。 この港の存在が、越後国が持つ豊かな生産物を各地へと流通させる基盤となったのだ。 また、上越は陸路においても重要な役割を担ってきた。北国街道が城下町高田を通り、奥州道や信濃道が交差する地点として、人や物の往来が絶えなかった。 この交通の要衝という地理的条件が、上越が常に政治的・軍事的に注目される理由の一つであった。 しかし、この地は同時に厳しい自然環境にも直面している。日本有数の豪雪地帯である越後において、高田の町並みには「雁木(がんぎ)」と呼ばれる庇が連なる独特の建築様式が発達した。 これは、雪深い冬でも人々が軒下を行き交い、商売を続けられるように工夫されたもので、自然への適応と生活の知恵が形になったものと言えよう。海からの恵み、陸路の要衝性、そして雪との共存という三つの要素が、上越の歴史と文化の骨格を形成してきたのである。
日本の城下町は、多くの場合、藩主の居城とともにその姿を大きく変えることなく存続した。例えば、加賀藩の金沢や仙台藩の仙台のように、一度築かれた城下町が幕末までその地域の中心であり続けた例は少なくない。しかし、上越の歴史を見ると、春日山城を拠点とした「越後府中」から、堀氏の築いた「福島城」、そして徳川家康の六男・松平忠輝が高田に築いた「高田城」へと、短期間のうちに主要な都市機能が移動している点が特徴的である。 この移ろいは、単なる藩主の交代以上の意味を持つ。春日山城が山城としての防御力を重視したのに対し、福島城は平城としての利便性を追求した。さらに高田城は、天下普請によって短期間で築かれた平城であり、その設計思想には軍事的な牽制という幕府の明確な意図が込められていた。 このように、上越の地では、時代の要請や権力者の戦略に応じて、都市の核となる場所が変化してきたのである。 一方で、高田の城下町は、松平忠輝の改易後も、酒井氏、松平氏、稲葉氏、戸田氏、そして榊原氏と、短期間で藩主が交代する不安定な時期を経ながらも、その都市としての骨格を維持し続けた。 特に榊原家が15万石で入封してからは、高田藩は安定期を迎え、現在の高田の町の基礎が築かれることになる。 これは、一度確立された交通の要衝としての機能や、計画的な町割りが持つ都市としての耐久性を示していると言えるだろう。
明治維新を迎え、廃藩置県によって高田藩は高田県となり、その後新潟県に編入される。 城下町高田は、新たな時代の中でその役割を模索することになるが、明治41年(1908年)には陸軍第13師団が置かれ、軍都としての性格を帯びた。 これに伴い、高田城跡には桜が植えられ、今日の高田城址公園の桜並木の基礎が築かれたという。 交通網の整備も進んだ。明治21年(1888年)には信越線が直江津から長野方面へ開通し、直江津は中部日本への海上交通の玄関口となると同時に、鉄道の要衝としても発展した。 その後、明治31年(1898年)には直江津から新潟駅間、大正2年(1913年)には北陸線が全線開通し、直江津は日本海側の鉄道網の結節点としての地位を確立する。 さらに、関東と新潟を結ぶ最短ルートとして、難工事の末に昭和6年(1931年)に上越線が全通すると、上越の交通における重要性は一層高まった。 戦後、昭和46年(1971年)には高田市と直江津市が合併し、「上越市」が誕生する。 これは、長らく異なる歴史を歩んできた二つの都市が、新たな時代の中で一体となることを選択した瞬間であった。現代の上越市は、直江津港がLNG火力発電所やLNG基地を擁するエネルギー港湾として発展を続ける一方で、高田城址公園の桜や雁木通りの町並みが観光資源として多くの人々を惹きつけている。
上越の歴史を辿ると、この地が常に「結節点」としての役割を担ってきたことが浮き彫りになる。古代の越後国府から、戦国の春日山城、江戸の高田城と、政治・軍事の中心が移り変わっても、日本海に面した港と内陸を結ぶ交通の要衝という地理的条件は変わらなかった。それは、異なる時代の権力者がこの地の重要性を見出し、それぞれの思惑で都市を形成してきた結果だと言える。 また、上越の歴史は、中央の政治状況が地方に与える影響の大きさを物語っている。徳川幕府による天下普請の高田城は、まさに関東と北陸を結ぶ戦略拠点として築かれたものであり、その後の高田藩の不安定な藩主交代も、幕府の政策と無縁ではない。しかし、そうした中央の動きに翻弄されながらも、直江津の港や高田の城下町は、海上交通や陸上交通の要衝としての機能を維持し、人々の生活と文化を育んできた。 現代の上越市は、多様な歴史の層を内包しながら、幹線道路と鉄道、そして港が交差する「結節点」としての機能を継承している。その風景は、過去の積み重ねが形作った現在地を示しているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。