2026/6/5
熊谷の銘菓・五家宝、宿場町で育まれた歴史と職人の技

熊谷の五家宝について詳しく知りたい。
キュリオす
熊谷の銘菓「五家宝」の起源には諸説あるが、宿場町としての地の利と、もち米の「タネ」ときな粉の「皮」という独自の製法、そして職人の手わざがその発展を支えてきた。現代でも地域に根差した食文化として再評価され、新たな試みも行われている。
熊谷の街を歩くと、時折、ふわりと香ばしいきな粉の匂いが漂ってくることがある。それは、この土地で長く愛されてきた銘菓「五家宝」の香りだ。素朴な見た目と、口に含むとほろりと崩れる独特の食感は、多くの人にとって郷愁を誘うものだろう。なぜ、この埼玉の地で、これほどまでに五家宝が根付き、親しまれてきたのか。その背景には、江戸時代の宿場町としての賑わいと、菓子職人たちの工夫があった。
五家宝の正確な起源は、現在でも定かではない。江戸時代中期以降に北関東でその原型が作られ始めた、というのが一般的な見方である。文献上では、江戸時代後期の狂歌師であり洒落本作家でもあった大田南畝(おおたなんぽ)、通称「蜀山人」の随筆『奴師労之(やっこしのろうし)』に、安永年間(1772〜1780年)に将軍家治の日光社参に同行した際に食した「五荷棒」や、その約40年後に友人から贈られた「武州忍領北秩父辺の菓子」としての「五かぼう」の記述がある。ただし、これらが現在の五家宝と同一のものであったかについては、当時の原材料や製法を考えると、味や食感は大きく異なっていた可能性が高い。
五家宝の由来には複数の説が存在する。一つは、茨城県五霞村や上州甘楽郡五箇村(現在の群馬県邑楽郡千代田町)が発祥とする地名由来説だ。もう一つ有力なのは、水戸藩の銘菓「吉原殿中」を模して熊谷で作られたという説である。文政年間(1818〜1829年)には、水戸出身の水役人であった水野源肋が熊谷宿付近に移り住み、故郷の「吉原殿中」を参考に「五嘉棒」として売り出したことが、熊谷における五家宝の始まりとされる。水野源肋は、後に熊谷の菓子店「水戸屋」の初代となる人物だ。
しかし、五家宝が現在の味と形へと発展したのは、明治期以降のことだと言われている。天保14年(1843年)に玉井村(現在の熊谷市)で生まれた高橋忠五郎という人物が、従来の五家宝の原材料や製法に改良を加え、現在の五家宝の基礎を築いたとされる。彼の店で修行した水野丑松(水戸屋5代目)は、伸ばしてから切るという現代の製法を考案した。さらに明治16年(1883年)に高崎線が開通すると、熊谷停車場特設販売品として五家宝の駅売りを開始し、その販路を全国へと広げるきっかけを作った。泉鏡花や尾崎紅葉といった文豪の作品にも五家宝の記述が見られることから、その名声が当時すでに確立されていたことが窺える。
「五家宝」という現在の漢字表記に変わった経緯も興味深い。水戸屋4代目の水野市三郎が、「五穀は家の宝である」という願いを込めてこの名を付けたと言われている。主要な原材料であるもち米(米)、麦芽糖(麦)、きな粉(豆)が五穀に通じることから、五穀豊穣を祈る意味合いが込められているのだ。このように、五家宝の歴史は、明確な一つの起源を持つというよりも、複数の地域での試行錯誤と、熊谷の地で花開いた職人たちの工夫が重なり合って形成されてきたものだと言えるだろう。
五家宝が熊谷の地で銘菓として定着し、発展した背景には、いくつかの要因が重なっている。まず、熊谷が江戸時代に中山道の宿場町として栄え、交通の要衝であったことが挙げられる。高崎線や上越新幹線、国道17号線が交差する現在の熊谷も、その交通の利便性は変わらない。この地の利は、菓子の原材料の確保と、製品の流通に有利に働いた。
五家宝の主原料は、もち米、きな粉(大豆)、砂糖、水飴の四つである。熊谷周辺は、かつて「石原米」と呼ばれる良質な米の産地であり、田の畔では大豆が豊富に作られ、水飴の原料となる大麦も多く生産されていた。つまり、五家宝の製造に必要な主要な原材料が、すべて地元で調達可能だったのだ。これは、遠方から材料を運ぶ必要がないため、安定した供給とコスト面での優位性をもたらしたと考えられる。
五家宝の製法は、シンプルながらも職人の熟練した技術を要する。まず、もち米を粉に挽き、水や湯を加えて練り、蒸してから砂糖を加えながら臼でつく。これを薄く伸ばして乾燥させ、細かく砕いて煎り、あられ状の「タネ」(おこし種)を作る。この「タネ」が五家宝のサクッとした歯ざわりを決定づける重要な要素となる。初期の五家宝が単なる煎り米であったことを考えると、この「タネ」を一度餅にしてから砕くという改良は、口当たりの良さを追求した結果だろう。
次に、きな粉に砂糖蜜を加えて練り上げ、「皮」となる生地を作る。このきな粉の風味が五家宝の味の決め手となるため、きな粉自体の質も重要だ。多くの製造元では国産大豆を使用し、中には自家製きな粉にこだわる店もある。
そして、砂糖蜜を絡めた「タネ」を円筒状にまとめ、その周りをきな粉の「皮」で巻き付ける。これを「より板」と呼ばれる道具で長く伸ばし、適切な長さに切っていく。この伸ばす工程は飴の製法にも似ており、その日の気温や湿度によって水飴の濃度を調整するなど、熟練した職人の「勘」が求められる。夏は暑さで柔らかくなりすぎないよう蜜を濃く、冬は寒さで硬くならないよう薄くするなど、微細な調整が日々の製造でなされているのだ。
このように、熊谷という土地が持つ豊かな農産物と交通の便、そしてそれらを最大限に活かす菓子職人の手わざが重なり合うことで、五家宝は単なる駄菓子から、埼玉を代表する銘菓へと昇華していったのである。
五家宝は、きな粉を使った棒状の和菓子という点で、他の地域にも類似の菓子が見られる。特に比較されることが多いのは、水戸の「吉原殿中」と、より一般的な「きなこ棒」だろう。これらを並べて見ると、五家宝の独自性がより明確になる。
水戸の「吉原殿中」は、五家宝の起源の一つとも言われるほど共通点が多い。どちらももち米ときな粉を主原料とするが、製法と食感には明確な違いがある。吉原殿中は、もち米を細かく砕いて煎ったものに水飴を多く絡め、棒状にまとめた後、オブラートに包んでからきな粉をまぶすのが一般的だ。そのため、口に入れると軽くふんわりとしたサクッとした食感で、水飴の甘さが強く感じられる。オブラートで包まれているため、きな粉がこぼれにくく、手も汚れにくいという利点もある。
一方、五家宝は、もち米を一度餅にしてから砕き、あられ状にした「タネ」を使い、それをきな粉と水飴で練り上げた「皮」で包み、さらにたっぷりのきな粉をまぶす。この製法により、五家宝は吉原殿中よりも芯がしっかりとしており、サクッとした歯ざわりの中に、もち米の粒感が感じられる独特の食感を持つ。きな粉の量が多く、甘さが控えめなため、口の中の水分が奪われやすいと感じる人もいるかもしれない。きな粉が直接表面にまぶされているため、口元や手が汚れやすいという点も、吉原殿中とは異なる。
また、駄菓子として親しまれる「きなこ棒」との比較も興味深い。きなこ棒は、きな粉に水飴や砂糖を混ぜて練り固めた、よりシンプルな菓子だ。もち米を加工した「タネ」を持つ五家宝とは異なり、きな粉そのものの風味と粘り気のある食感が特徴である。五家宝が「おこし類」に分類される干菓子であるのに対し、きなこ棒はより素朴で、日常的なおやつとしての位置づけが強い。五家宝は、その歴史や製法の手間、そして「五穀は家の宝」という名に込められた意味合いから、より格式高い「銘菓」として扱われることが多い。
これらの比較から見えてくるのは、五家宝が単にきな粉を使った菓子というだけでなく、もち米を「タネ」として加工する独自の工程と、それをきな粉の「皮」で包むという二重構造を持つ、比較的珍しい菓子であるという点だ。そして、その食感や風味の奥深さは、職人の手わざによる繊細な調整が支えていることがわかる。
かつて中山道の宿場町として栄え、五家宝の生産が盛んだった熊谷では、戦後の昭和30年代(1955〜1964年)頃には30軒以上の業者が五家宝を製造していたという。しかし、菓子の多様化や食の嗜好の変化に伴い、一時期は生産が低迷した時期もあった。現在、熊谷市内で五家宝を製造する業者は約10軒ほどとされているが、年間生産高は8億から9億円に上るという報告もある。
近年、五家宝は再び注目を集めている。2022年3月には、文化庁が地域に根付く食文化を「100年フード」として認定する新制度において、熊谷の五家宝が「伝統の100年フード部門」に選ばれ、さらに全国131件の中から15件に与えられる「有識者特別賞」も受賞した。これは、長年にわたり受け継がれてきた製法と、地域に深く根差した食文化としての価値が再評価された証と言えるだろう。
現代の五家宝製造業者たちは、伝統を守りながらも、新たな試みを取り入れている。例えば、もち米、きな粉、砂糖、水飴という基本的な原材料はそのままに、きな粉の種類にこだわる店がある。定番の黄色いきな粉に加え、青大豆を使った「うぐいすきな粉」を用いた五家宝は、その淡い緑色と独特の風味が人気を集めている。また、ココアや抹茶、アーモンド、黒蜜など、現代の味覚に合わせたフレーバー展開をする店も現れている。
包装においても工夫が見られる。かつてはまとめて袋詰めされることが多かった五家宝だが、近年は個包装にすることで、日持ちの良さに加えて、手を汚さずに食べやすいという利便性が向上した。ドライブ中に気軽に楽しめるカップ入りの商品も登場している。熊谷市も「五家宝マップ」を作成し、市内の取扱店舗を紹介するなど、地域全体で五家宝の魅力を発信しようとしている。
多くの店が「無添加」「無着色」にこだわり、自然食品としての五家宝の価値を打ち出している点も、現代の健康志向と合致している。職人の手作業による製造工程を見学できる機会を提供する店もあり、消費者が五家宝の背景にある物語や技術に触れる機会も増えている。このように、五家宝は単なる伝統菓子として過去に留まることなく、現代のニーズに応えながら進化を続けているのだ。
熊谷の五家宝を巡る旅は、単なる菓子を味わう以上の発見をもたらす。それは、一見すると地味なきな粉の菓子が、いかにしてこの土地の歴史、地理、そして人々の営みと深く結びついてきたかという問いへの答えを探す旅でもある。
五家宝の素朴な味わいは、五穀豊穣を願う人々の祈りから生まれたとされる「五家宝」という名に象徴されている。交通の要衝であり、良質な米や大豆、大麦が豊富に採れた熊谷という地の利が、菓子作りの基盤となった。そして、その地の恵みを最大限に活かすために、職人たちは試行錯誤を重ね、もち米を一度餅にしてから砕き、きな粉で包むという独自の製法を確立したのだ。
この菓子が吉原殿中やきなこ棒といった他のきな粉菓子と異なるのは、その二重構造にある。サクサクとした「タネ」と、しっとりとしたきな粉の「皮」が織りなす食感は、シンプルながらも奥深い。そして、この繊細な食感は、季節や天候によって水飴の濃度を調整する職人の「勘」と「手わざ」によって支えられている。機械化が進む現代においても、多くの製造元が手作業にこだわり続けるのは、この五家宝が持つ独特の風味と食感を守るためだろう。
五家宝は、単なる甘味として消費されるだけでなく、熊谷という土地の歴史、特に中山道の宿場町としての記憶を静かに伝えている。明治期に高崎線が開通し、駅売りが始まったことで全国に広まったという事実は、交通網の発達が地域の特産品をいかに変貌させるかを示す好例だ。それは、現代における「100年フード」としての再評価にも繋がる、普遍的な価値を持っている。五家宝を一口頬張るたびに、私たちは熊谷の豊かな土地と、そこに生きた人々の知恵と工夫、そして菓子に込められた素朴な願いを感じ取ることができる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。