貝原益軒から小野蘭山へ、江戸の本草学はいかにして書斎から山野の採集へと舵を切ったのか?

山野を歩いた学者たちの足跡
1801年、73歳を迎えた本草学者・小野蘭山は、幕府の命を受けて伊豆半島の山々へ足を踏み入れた。高齢でありながら、彼が求めたのは書斎の中で書物を紐解くことではなく、崖や谷に生い茂る草木を自らの目で確かめ、採集することだった。蘭山はその後の数年間で、陸奥から東海、近畿に至る広大な地域を巡り、採薬の旅を重ねている。
しかし、その一世紀前、宝永6年(1709年)に『大和本草』を刊行した貝原益軒の時代、本草学はこれほど徹底した現地調査を伴うものではなかった。益軒も実地観察を重視した人物ではあったが、彼の学問の軸足はなお、中国の文献を読み解き、そこに記載された薬効や分類を日本の知識体系へと翻訳することに置かれていた。
わずか百年余りの間に、日本の自然を観察する眼差しはどのようにして変化したのだろうか。中国の学問の受容から始まった本草学が、いかにして泥臭い野外採集と厳密な実物検証の体系へと変貌を遂げたのか。その背後には、単なる個人の情熱にとどまらない、社会の要請と学問の構造的な転換が存在していた。
では、文献の解釈から出発した江戸の本草学者は、いかなる理由で書物を閉じ、靴を履いて山野へと繰り出すようになったのだろうか。
朱子学の書斎から試みの山野へ
江戸時代初期、日本の本草学は中国の明代に李時珍が編纂した『本草綱目』を絶大な絶対的権威として仰いでいた。1596年に成立した『本草綱目』は、1600年代半ばには日本に輸入され、和刻本が出版されると、医者や儒者のあいだで必読の書となった。植物、動物、鉱物を網羅したこの大著は、万物の理を解明しようとする朱子学的な自然観とも深く結びついていた。
貝原益軒が79歳の時に完成させた『大和本草』全16巻(付録2巻)は、この『本草綱目』の枠組みを基本としながらも、日本独自の博物誌を作ろうとした最初の大規模な試みであった。益軒は『本草綱目』に記載された1880種余りの品目のうち、日本に産するものや独自に知られたものなど約1360種を選び出し、和名や日本の用法を付記した。益軒の画期的な点は、中国の書物に書かれた記述を鵜呑みにせず、「日本の実情に合わないものは正す」という姿勢を示したことにある。
しかし、益軒の『大和本草』における分類や記述の多くは、なお文献の比較と伝聞、そして身近な観察の域を出ていなかった。当時の本草学者にとって、自ら遠方の深山に分け入り、標本を採集して観察するような手法は一般的なものではなかったのである。
状況を大きく変えたのは、享保の改革を推進した8代将軍・徳川吉宗による経済・産業政策であった。18世紀前半、幕府は膨大な金銀の国外流出を防ぐため、中国や朝鮮から輸入していた高価な薬種(特に朝鮮人参や甘草など)の国産化を急務とした。1720年前後から、吉宗は阿部将翁や丹羽正伯らのお抱え本草学者に命じ、全国の諸藩に対して領内の産物や薬草を調査・提出させる「野州採薬」や全国的な産物調査を実施した。
この国家規模の要請によって、本草学は儒者の教養や医療の補助手段から、実用的な国家産業の礎へと位置づけを変えた。全国各地の山川草木を実際に調査し、有用な植物を探し出す必要が生じたのである。吉宗の命を受けた阿部将翁らは、奥羽や北陸、西日本の深山幽谷へと派遣され、現地の採薬者や薬種商と協力しながら、野生の薬用植物を発掘・採集していった。
さらに、京都を中心に稲生若水が始めた『庶物類纂』の編纂事業や、各地で結成された「採薬会」と呼ばれる同好のネットワークが、研究者たちの交流を加速させた。18世紀半ばを過ぎると、文献上の名称と実際の植物を一致させる「名実同定」の作業が本草学の中心課題として浮上する。
こうした時代の到達点に立ったのが、小野蘭山であった。蘭山は京都で私塾を開き、数千人におよぶ弟子を育てたが、享和3年(1803年)から文化3年(1806年)にかけて出版された『本草綱目啓蒙』全48巻において、日本の本草学の集大成を成し遂げた。蘭山は単に文献を引用するのではなく、自ら全国を歩いて採集した標本と、日本各地の方言、さらには幕府の命で実施した現地調査の成果を網羅し、植物や動物の実体を極めて高い精度で特定してみせたのである。
書物の正誤を目の前の草木で正す
益軒の『大和本草』から蘭山の『本草綱目啓蒙』に至る100年間の変化において、最も本質的な転換は「分類の基準」と「採集の方法」の双方が、文献依存から現場の実物検証へと移行したことにある。
まず、分類の基準における変化を見てみたい。
貝原益軒の『大和本草』は、基本的に『本草綱目』の分類体系を踏襲していた。『本草綱目』は自然物を「水・火・土・金石・草・木・服器・虫・鱗・介・禽・獣・人」の16部に分け、さらに草部を「山草・芳草・湿草・毒草・水草・石草・苔類・雑草」などに類別している。益軒はこの大枠を受け入れつつも、人間の生活における「利用価値」や「効能」、あるいは身近な生息環境(陸の上か水の中か)を基準に項目を並べ替えた。例えば、益軒は人間の食用や薬用になるか否かという実用的な観点を重視しており、分類の根底には「萬物は人間の用に供するために存在する」という儒教的な自然観が強く残っていた。
これに対し、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』では、項目配列こそ『本草綱目』の順序に従っているものの、分類の内部における判断基準が「形態的特徴」と「方言の網羅による同定」へと大きくシフトしている。
中国の文献に登場する植物名(本草名)が、日本のどの植物に当たるのかを突き止める作業は「名同して実異なり(名前は同じだが別の植物)」あるいは「名異にして実同なり(名前は異なるが同じ植物)」という混乱との格闘であった。蘭山は、葉の形、花弁の数、茎の毛の有無、根の形状といった外形的・形態的な特徴を詳細に観察し、文献の記述と照らし合わせた。
さらに、蘭山が重視したのが全国各地の「方言(地方名)」であった。同じ植物であっても、陸奥、越後、薩摩で呼ばれ方が異なる。蘭山は各地から集まった弟子や、自身の採薬の旅で得た方言を膨大に収集し、それらを比較検討することで、「文献の言葉」と「日本の実物」を寸分の狂いもなく結びつけようとした。効能や利用価値ではなく、形態と名称の整合性こそが分類・判定の基準となったのである。
次に、採集方法の変化である。
『大和本草』の時代、採集は主に身近な庭園や近郊の野山で行われるか、商人から手に入れる標本(多くは乾燥した薬種)の観察にとどまっていた。益軒自身、自宅の庭に多くの植物を植えて観察したが、それは限定された環境でのものだった。
しかし、18世紀後半から蘭山の時代にかけて、採集は「集団化」「広域化」「生体観察の重視」という特徴を帯びるようになる。
その象徴が「採薬会」の流行である。江戸や京都、大坂などの都市では、本草学者、医師、薬種商、愛好家たちが定期的に集まり、自ら山野で採集してきた生きた植物や動物、鉱物の標本を持ち寄って品評会を開いた。平賀源内が宝暦7年(1757年)から開催した物産会はその代表例である。
採集は、単に乾燥した生薬を買い求めることではなく、植物が自生している「そのままの姿(生体)」を現地で確認する作業へと変貌した。根の張り方、花の咲く時期、自生する土壌や日当たりの条件など、現地でしか得られない生態的情報が重視されるようになった。
小野蘭山自身も、各地の山々を歩く際には、単に標本を持ち帰るだけでなく、現地で草木を精密に観察し、その場でノートを記録した。蘭山の手法は、乾燥標本や文字情報だけに頼る学問の限界を打ち破るものであり、現地の生の姿を採集現場で直接捉えることこそが、正しい知識を得る唯一の道であるという確信に基づいていた。
欧州のリンネと清代の考証学
このような江戸期日本の本草学の変貌は、同時期のヨーロッパや中国における博物学の動きと比較することで、よりその固有の立ち位置が明確になる。
同時代のヨーロッパでは、スウェーデンのカール・フォン・リンネが『自然の体系』(1735年)や『植物の種』(1753年)を著し、近代的な分類学の礎を築いていた。リンネの体系は、植物の花弁や雄しべ・雌しべの数といった「生殖器官の形態」に着目し、すべての植物を幾何学的・超地域的な基準で分類するものであった。さらに、属名と種名を重ねる「二名法」を導入することで、世界中のあらゆる植物を統一されたラテン語の名称で記述する枠組みを作り上げた。
小野蘭山らの本草学も、実物の形態観察を重視した点ではリンネの目指した実証主義と共通していた。しかし、蘭山たちの分類体系は、どこまでも『本草綱目』という伝統的なテキストの枠組みを保ち続けた。彼らはリンネのように雄しべの数を数えて全く新しい網目を構築するのではなく、中国の古いテキストの語彙を、日本の膨大な方言と実物標本に「正しく当てはめる」ことに注力した。
つまり、ヨーロッパの分類学が既存の書物を離れて「世界共通の新しい言語」を作ろうとしたのに対し、日本の本草学は「既存の権威ある書物(本草綱目)」と「日本の多様なローカル情報(方言・生体)」を高精度で架橋しようとしたのである。
一方、同時期の中国(清代)に目を向けると、ここでは文献批判を中心とする「考証学」が隆盛を極めていた。清代の本草学や博古学でも、文献の誤りを正す作業が盛んに行われたが、その手法は主として古文書や古辞書を突き合わせる言語学的な比較校訂であった。実物を求めて山野を駆け巡るフィールドワークよりも、書物の中の文字の意味を極めることが重視されたのである。
日本においても、伊藤東涯のように文献的考証を重視する学者がいたが、蘭山をはじめとする日本の本草学者たちは、考証の最終的な決定権を書物ではなく「山野に自生する実物」に委ねた。
なぜ日本において、清代のような純粋な文献考証にとどまらず、ヨーロッパ的な現地採集と実物検証の方向へ大きく舵が切られたのか。その背景には、自国の風土が中国の風土と決定的に異なっているという地理的現実が存在していた。
中国の書物に書かれた草木が、どうしても日本の山野で見つからない、あるいは形態が微妙に異なる。この「ずれてしまう」感覚こそが、日本の学者たちを書斎から野外へと連れ出す強力なモチベーションとなった。中国の文献をいくら読み込んでも、日本の足元に生えている草の名前は分からない。この決定的な乖離が、実物観察と採集への傾倒を生み出したのである。
日光の山裾に残る標本と知の脈絡
小野蘭山が遺した仕事は、単に一時代の学問の成果にとどまらず、その後の日本の科学史のあり方を決定づけた。
蘭山の没後、彼の弟子や孫弟子たちは、その実証的な採集・観察手法をさらに推し進めた。例えば、伊勢の本草学者・飯沼慾斎は、文化・文政期から天保期にかけて『草木図説』を編纂した。慾斎は、蘭山らが深めた名実同定の成果を受け継ぎつつ、当時出島を通じて日本に入り始めていたリンネの分類体系(ツンベルクらの著作経由)をいち早く理解し、日本の植物を雄しべの数によって配列した図譜を作り上げた。
益軒から蘭山に至る100年間で蓄積された「日本の実物植物に対する徹底的な観察眼」が存在したからこそ、幕末から明治にかけて西洋の近代植物学が導入された際、日本の学者たちはそれを即座に理解し、自国の植物相の解明へと応用することができたのである。明治時代の植物学者・牧野富太郎が全国を歩き回り、膨大な採集を行って方言や和名を整理したスタイルも、その根底には蘭山たちが作り上げた採薬と名実同定の伝統が脈々と流れていた。
今日、日光の山裾や京都の古い薬草園の跡地を訪れると、かつて蘭山や採薬使たちが歩いたであろう小道が今も残されている。東京大学小石川植物園(旧幕府小石川御薬園)には、享保の改革期に全国から集められ、移植された植物の子孫たちが今も緑をたたえている。
蘭山らが残した図譜や押し葉標本、そして『本草綱目啓蒙』に記された膨大な各地の方言の記録は、現在では単なる植物学の資料を超えて、過去の日本の自然環境や言語の分布を知るための貴重な歴史的文化遺産となっている。彼らが泥にまみれて書きとめたノートの文字は、二百年以上の時を経てもなお、その精密さによって現代の研究者を驚かせている。
言葉と実物が重なり合う場所
貝原益軒の『大和本草』から小野蘭山の『本草綱目啓蒙』に至る江戸本草学の100年は、一見すると「中国の学問からの自立」や「近代科学への一歩」という単純な進歩の物語に見えるかもしれない。
しかし、その実態はより複雑で、かつ屈折したプロセスであった。学者たちは中国の『本草綱目』という絶対的な古典を棄て去るために野山に向かったのではない。むしろ、その絶対的であるはずの書物を真に理解し、正しく解釈しようと誠実に追求した結果として、書物の外へ出ざるを得なくなったのである。
書物に書かれた文字と、目の前の山野に咲く一輪の花。その二つの間にある絶望的なほどの「ずれ」を埋めるために、学者たちは全国の方言を拾い集め、足を棒にして深山を巡り、生きた植物の形態を丹念に観察し続けた。
採集方法が身近な観察から広域なフィールドワークへと広がり、分類の基準が利用価値から厳密な形態と同定へと深まったのは、彼らが「言葉」と「実物」を一致させようとした愚直な格闘の成果であった。
文献という権威を深めようとした情熱が、結果として文献の限界をあばき、観察者自身の眼と足を最大の根拠へと押し上げていく。江戸の本草学者たちが歩んだこの軌跡は、人間が知識を得るとはどのような営みであるのかを、具体的な草木の姿を通して静かに物語っている。
旅と食が好き。どこにでもいます。