2026/6/7
高岡吉久の格子窓「さまのこ」が語る在郷町の歴史

高岡の吉久の歴史について詳しく知りたい。ここも重要伝統的建造物群保存地区になっている。
キュリオす
高岡市吉久は、江戸時代に御蔵が置かれ米の集散地として栄えた在郷町です。小矢部川沿いの格子窓「さまのこ」が特徴的な町並みは、米商と農家の二つの顔を持つ歴史から生まれました。2020年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された吉久の成り立ちと、現代の町づくりについて紹介します。
高岡市吉久の通りに立つと、切妻屋根の町家が連なり、その多くに細やかな格子窓が見られる。この格子は地元で「さまのこ」と呼ばれ、通りを行き交う人々の視線を柔らかに遮りながら、町の歴史を静かに物語っているようだ。なぜこの地で、このような独特の町並みが形成され、そして現代まで受け継がれてきたのか。その背景には、加賀藩の経済を支えた米の流通と、近代以降の町の変遷が深く関わっている。2020年12月23日、吉久が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは、単に古い建物が残っていたからではない。この町並みが持つ、他にはない歴史的・建築的価値が評価された結果である。
吉久の町並みの起源は、江戸時代前期に遡る。承応4年(1655年)、加賀藩は越中最大の年貢米収納庫である「御蔵」をこの地に設置した。小矢部川と庄川に挟まれた河口部に位置する吉久は、伏木港から北前船で米を大坂や江戸へ出荷するための重要な集散地となったのである。
これに伴い、放生津往来沿いに「吉久新村」が町立てされ、周辺の村々から人々が集住した。当初は農業を基盤としつつ、御蔵の業務を兼業する「在郷町」として発展していく。近世の吉久は、米などの物資の集散地であると同時に、御蔵の機能を軸として、その役目を担う人々や様々な商売に携わる人々が行き交う、都市的な性格を持つ地域であった。
明治時代に入ると、大きな転換期を迎える。明治4年(1871年)の廃藩置県により吉久の御蔵は「御県蔵」と改称され、一時的に米や魚肥の倉庫として利用されたものの、明治6年(1873年)の地租改正条例発布によって年貢米の流通システムは崩壊する。そして明治8年(1875年)、吉久の御蔵は取り壊された。
しかし、吉久の繁栄は終わらなかった。御蔵の廃止後も、米の流通に精通していた地元の有力な町民、通称「米商」や「蔵仲間」と呼ばれる人々が、その経験を活かして共同で米穀売買や倉庫業に進出し、成功を収めたのである。彼らの活動は、昭和17年(1942年)に食糧管理法が制定され、米穀流通が政府の管理下に置かれるまで続いた。この明治以降の米商の発展が、現在の吉久の町並みを形成する上で決定的な役割を果たしたと言える。
吉久の町並みが今日まで残されてきた背景には、いくつかの要因が複合的に作用している。まず、その地理的条件が挙げられる。小矢部川と庄川に挟まれた河口部に位置し、かつては高岡市街地からやや離れた立地であったことが、大規模な開発から町並みを守る結果となった。
次に、米の集散地としての歴史が、独特の建築様式を生み出した点である。吉久の町家は、江戸時代後期から昭和初期にかけて建てられたものが多く、切妻造平入を基本とする。一般的な町家に見られる通り土間を持たず、敷地の幅いっぱいに部屋を設ける平面構成が特徴的だ。
特に目を引くのは、2階正面部分に窓を設けず、閉鎖的な表構えを持つ「アマ」と呼ばれる収納空間である。これは稲わらや農機具などを保管するために使われたとされ、吉久の町が米商であると同時に、地域に根ざした農家としての性格も兼ね備えていたことを物語る。京町家のような商家風の意匠を持ちながらも、雪深い北陸の気候を意識した深い軒や、農家としての実用性を追求した空間構成が両立しているのだ。
さらに、1階に設けられた「さまのこ」と呼ばれる格子も吉久の町並みを特徴づける要素である。市内の他の町家に見られる格子に比べて桟が細く、間隔も密であるため、繊細な印象を与える。この「さまのこ」は、吉久の町並みの愛称としても親しまれている。
これらの建築的特徴は、吉久が単なる商業地ではなく、農村と都市の性格を併せ持つ「在郷町」として発展した歴史を色濃く反映している。米の備蓄と流通、そして地域住民の生活に密着した農業という二つの機能が、この地の町並みを形作る上で重要な役割を果たしたと言えるだろう。
高岡市内には、吉久の他にも二つの重要伝統的建造物群保存地区が存在する。「山町筋」と「金屋町」である。これら三つの地区を比較することで、吉久の町並みが持つ独自性がより明確になる。
まず「山町筋」は、加賀藩主・前田利長が高岡城下町を開いた当初からの商人町を起源とする。明治時代の大火後に再興された町並みは、重厚な土蔵造りの町家や赤レンガ造りの洋風建築が特徴的だ。ここは純粋な商業都市としての性格が強く、火災からの復興という明確な歴史的転換点と、それに対応した防火建築が町並みの骨格を形成している。
一方、「金屋町」は高岡鋳物発祥の地として知られる鋳物師町である。石畳の通りに真壁造りの町家が軒を連ね、鋳物産業の歴史と深く結びついた景観が特徴である。金屋町では、国による選定以前から住民が自主的に憲章を定め、町並み保存に取り組んできた経緯がある。
これらに対し、吉久は「在郷町」としての性格が際立つ。山町筋が純粋な商業、金屋町が職人町であるのに対し、吉久は米の集散地としての商業機能と、地域に根ざした農業の二つの顔を持っていた。この二重性が、通り土間を持たず、2階に「アマ」を設けるといった、吉久独自の建築様式を生み出したのである。他の二地区が特定の産業や都市機能に特化して町並みを形成したのに対し、吉久は米の流通という特定の物資と、それに付随する農的営みが一体となった結果、現在の姿に至ったという点で、その成り立ちは異なっている。
また、保存への意識にも違いが見られる。山町筋や金屋町が比較的早期から住民による保存活動が活発であったのに対し、吉久では長らく「町並みに価値がある」という認識が住民間で浸透していなかったという側面も指摘されている。2020年の重要伝統的建造物群保存地区選定は、外部からの評価が、住民自身の価値認識を再構築するきっかけになったとも言えるだろう。
今日、高岡市吉久の町並みを歩くと、江戸後期から昭和初期にかけて建てられた町家が、緩やかに湾曲する放生津往来沿いに並ぶ風景が見られる。登録有形文化財に指定されている能松家住宅主屋をはじめ、往時の米商の繁栄を伝える建物が点在する。
しかし、この歴史的な町並みも、現代社会が抱える課題と無縁ではない。地区内では高齢化や空き家の増加が顕著であり、貴重な伝統文化の継承やコミュニティの維持に不安が生じている。また、昭和30年代から40年代にかけては、周辺の工業化に伴う公害問題に直面し、「公害のまち」という負のイメージが住民の意識に強く残っていた時期もあった。
こうした状況に対し、地域住民は積極的に動き出している。平成10年(1998年)には「吉久の伝統的町並みを考える会」が発足し、平成23年(2011年)には「吉久まちづくり推進協議会」が設立された。さらにNPO法人「吉久みらいプロジェクト」が空き家活用や地域活性化に向けた活動を展開している。富山大学の学生たちも「吉久まちづくりプロジェクト」として地域住民と協働し、空き地や空き家の活用、通りや軒下利用の企画立案に取り組むなど、若い世代の視点を取り入れた試みが始まっている。
毎年10月には、豊作への感謝を込めて獅子舞が吉久神明社に奉納され、地区外からも多くの見物客が訪れるなど、伝統行事は今も地域に息づいている。
高岡の吉久が重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことは、単に過去の遺産を保護するだけでなく、その歴史が現代に問いかけるものを再認識する機会となる。純粋な城下町や職人町とは異なる「在郷町」としての吉久の歴史は、米の流通という具体的な経済活動が、いかに人々の暮らしや建築、そして町の景観を形作ってきたかを鮮やかに示している。
特に、農家と米商という二つの顔が融合した結果生まれた独特の「アマ」や「さまのこ」といった建築要素は、この地の自然条件と経済構造、そして生活様式が織りなす必然の形であったと言える。それは、地域に特化した機能が、やがて普遍的な価値を持つ文化景観へと昇華していく過程を示唆する。吉久の町並みは、特定の時代や産業の制約の中で、人々がどのように環境に適応し、独自の文化を築き上げてきたかという、その具体的な手触りを現代に伝えているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。