2026/6/7
高岡大仏はいつから?火災を乗り越えた青銅像の歴史

高岡の大仏について詳しく知りたい。いつからあるのか?
キュリオす
高岡大仏は鎌倉時代に木造で始まったとされる。その後、二度の火災で焼失し、高岡の鋳物技術を結集して現在の青銅製大仏が昭和初期に完成した。炎に試された技術と信仰の歴史を辿る。
富山県高岡の町中に足を踏み入れると、どこか懐かしい、しかし確かな重みを感じさせる空気が流れている。道の先に突如として現れる高さ約16メートルの巨大な阿弥陀如来坐像は、その町の歴史を凝縮したかのようだ。端正な顔立ちから「日本一の美男」と称されることもあるこの高岡大仏は、いつ、どのような経緯でこの地に鎮座するに至ったのか。その問いは、単なる年代記を超え、この地の産業と人々の願いの変遷を辿ることになる。
高岡大仏の起源は、現在の青銅製大仏が建立されるはるか昔、鎌倉時代にまで遡ると伝えられている。承久の乱(1221年)を避けて越中に入ったとされる源義勝が、高岡市北西に位置する二上山の麓に、高さ約4.8メートルの木造大仏を造立したのが始まりとされる。この初代の仏像は、1609年に加賀藩二代藩主・前田利長が高岡城を築城し、町を開いた際に現在の場所へと移されたという。しかし、この木造大仏は後に焼失している。
次に現れるのは、延享2年(1745年)のことだ。坂下町の極楽寺第15世等誉上人が発願し、弟子の良歓が勧進に奔走して、高さ約9.7メートルの金箔塗りの木造阿弥陀如来坐像が再建された。これが、今日の大仏へと繋がる直接的な「初代」と見なされることが多い。しかし、この木造大仏もまた、文政4年(1821年)の高岡大火によって惜しくも焼失してしまう。
20年の時を経て、天保12年(1841年)には極楽寺第26世謙誉上人の尽力により、木造の大仏が再興された。高さは約4.8メートルで、光背に千体仏を配した荘厳な姿であったという。だが、この二代目の大仏も明治33年(1900年)の高岡大火で再び焼失する運命を辿った。二度にわたる大火による焼失は、人々に「火に強い大仏を」という強い願いを抱かせた。この願いが、現在の青銅製大仏の建立へと繋がる決定的な転換点となったのである。
二度の大火で木造大仏が失われた後、高岡の人々は、今度こそ燃えない大仏をという強い意志を抱いた。その実現に向けて立ち上がったのが、篤志家である松木宗左衛門と極楽寺第31世良禅上人であった。明治40年(1907年)に大仏再興の計画が発願され、高岡の地場産業である銅器製造技術の粋を結集した青銅製大仏の建立が決定される。この壮大な計画は、原型師である中野双山がデザインを手がけ、中川原町の荻布宗四郎らの財政的な支援も得ながら進められた。
高岡は江戸時代初期、加賀藩二代藩主・前田利長が、現在の高岡市戸出西部金谷から7人の鋳物師を金屋町に招き、税の免除や家賃無償といった好待遇で産業振興を図った歴史を持つ。これにより、金屋町は鋳物産業の中心地として発展し、建築工具、日用品、農具などの鉄器から始まり、やがて寺社の鐘や灯籠、仏具といった銅器へと生産品目を広げていった。銅は鉄に比べて複雑で繊細な形状を表現しやすく、加工性も高い特性を持つ。この地で培われた高度な鋳造技術と職人の技が、新たな大仏建立の基盤となったのだ。
原型製作から完成までには26年もの歳月が費やされ、途中には資金難による中断もあったという。明治44年(1911年)には頭部の鋳造が先行して完了し、その後、御尊体(体部)の鋳造が進められた。そして、昭和8年(1933年)に現在の青銅製「三代目高岡大仏」が開眼供養を迎える。この大仏は、鋳造から着色までの全工程を高岡の銅器職人が担った、まさに高岡の技術の結晶である。
日本には古くから様々な大仏が存在するが、中でも奈良の大仏と鎌倉大仏は広く知られている。高岡大仏もまた、これらと並び「日本三大仏」の一つに数えられることがある。しかし、その歴史と背景には明確な違いが見られる。
奈良の大仏(東大寺)は聖武天皇の発願により天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われ、像高約14.98メートルと日本最大級の規模を誇る。また、鎌倉大仏(高徳院)は13世紀中頃に造立されたとされ、像高約11.32メートルの青銅製坐像である。これら二つの大仏が古代から中世にかけての国家や武士の権威、あるいは広範な民衆の信仰を背景に造られたのに対し、高岡大仏は近代、特に明治から昭和初期にかけて、二度の大火で失われた木造大仏の再建を願う地域住民の熱意と、地元の鋳物技術によって生まれたという点で特異だ。
奈良や鎌倉の大仏が歴史的建造物としての重厚さをまとう一方で、高岡大仏は比較的「新しい」大仏でありながら、その背後には度重なる災禍からの復興という、より切実な物語が横たわる。高岡大仏の像高は7.43メートル(総高約16メートル)で、奈良大仏の約半分ほどのサイズである。しかし、その存在感は決して劣らない。歌人の与謝野晶子が「鎌倉大仏より一段と美男」と評したという逸話も、その端正な顔立ちと、市民に愛される親しみやすさを物語っている。
また、高岡大仏の特徴である「円光背」は、建立から25年後の1958年(昭和33年)に後付けされたもので、頂点には阿弥陀如来の仏徳を表す梵字「キリーク」が配されている。これは、当初十二光仏を配する予定だったが、加重の理由から変更された経緯があるという。このような細部の変遷も、高岡大仏が常に人々の願いと技術の進歩の中で形を変えてきた証左と言えるだろう。
現在、高岡市大手町の大佛寺境内に鎮座する高岡大仏は、高さ約16メートルの青銅製阿弥陀如来坐像として、市民から「だいぶっつぁん」と親しみを込めて呼ばれている。1981年には「銅造阿弥陀如来坐像」として高岡市の指定有形文化財にも指定された。
大仏が鎮座する台座の内部は回廊になっており、地獄絵などの仏画13作が飾られている。さらに奥には、1900年の大火で焼失した二代目木造大仏の頭部が安置されており、その焼け焦げた痕跡は、高岡大仏の受難と再建の歴史を静かに伝えている。この回廊は、訪れる人々に、大仏が辿ってきた道のりを視覚的に体験させる場となっているのだ。
大仏は、1980年には約11メートル後方に移動されて修理が行われ、その前には公園が整備された。さらに2007年には「平成の大修理」として全体的な保存修理が実施されるなど、現在も大切に維持管理されている。周辺には、高岡銅器の技術を活かした土産物店や、大仏をモチーフにしたグルメを提供するカフェなども見られ、地域経済の一翼を担っている。
高岡大仏の歴史を辿ると、「いつからあるのか」という問いは、単一の開始点ではなく、幾重にも重なる過去の層として浮かび上がる。鎌倉時代に端を発し、江戸時代に現在の場所で再建され、そして二度の大火を経て青銅製となったその姿は、単なる仏像の系譜ではない。それは、富山県高岡という土地が持つ、鋳物技術への誇りと、度重なる苦難にも屈しない人々の信仰の厚さが形になったものだ。
奈良や鎌倉の大仏が、その時代の権力や広範な民衆の願いを背景に、単一の壮大なプロジェクトとして立ち上がった側面が強いのに対し、高岡大仏は、火災という具体的な災禍に直面し、それを乗り越えるために、地域の産業技術と市民の浄財が結集して再建されたという点で、より「生々しい」歴史を持っている。木造から青銅への素材の転換は、単なる耐久性の追求に留まらず、高岡の職人たちが培ってきた技術への信頼と、未来への希望を込めた選択だったと言えるだろう。
高岡大仏は、その「美男」の容姿だけでなく、炎に試されながらも、その都度、地域の技術と人々の願いによって再生を遂げてきた、その連続性の中にこそ、真の存在意義がある。それは、失われたものへの追慕だけでなく、常に新しい時代の中で、いかにして信仰の形を継承していくかという問いを、静かに投げかけてくる存在でもあるのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。