2026/6/12
愛知県の古代史、熱田神宮や朝日遺跡にみるその成り立ち

愛知県の歴史について詳しく知りたい。古代から平安時代まで。
キュリオす
愛知県の古代から平安時代にかけての歴史を、遺跡や伝承を元に辿る。弥生時代の環濠集落、古墳時代の巨大古墳、そして尾張国と三河国の成立と律令制下の統治、さらには国司への抵抗や窯業の発展について紹介する。
海辺の森と巨大集落の記憶
愛知県域の旧石器時代は、犬山市の入鹿池遺跡などでナイフ形石器や木葉形尖頭器といった石器が出土しており、狩猟採集の生活が営まれていたことがわかる。縄文時代に入ると、県内では約110か所の貝塚が確認されており、全国的に見てもその分布密度は高い地域である。名古屋市瑞穂区の大曲輪貝塚は、今から約6,000年前の縄文時代前期から約3,000年前の晩期ごろを中心とする遺跡で、当時はすぐ目の前まで海が迫っていたという。東部の丘陵地帯や濃尾平野の洪積台地を中心に、多くの集落が形成されていたことがうかがえる。
弥生時代になると、農耕文化の到来とともに集落の規模は飛躍的に拡大する。愛知県清須市から名古屋市西区にまたがる朝日遺跡は、東西1.4km、南北0.8kmにも及ぶ広大な範囲に広がり、日本最大級の環濠集落として知られている。最盛期の人口は約1,000人と推定され、幾重もの環濠に囲まれた防御性の高い集落であったことが発掘調査から明らかになっている。この集落では、竪穴住居が営まれ、石器や金属器が使われ、稲作や畑作、漁労、狩猟が行われていた。銅鐸の鋳型や玉作りの道具も出土しており、専門的な工人集団が存在した可能性も指摘されている。矢作川下流の沖積平野に位置する西尾市の岡島遺跡も、弥生時代中期前葉から後期にかけての集落跡であり、竪穴住居跡や方形周溝墓が確認されている。これらの遺跡は、愛知県の地が弥生時代にはすでに豊かな生産力を持つ地域であり、大規模な共同体が形成されていたことを示している。
大和王権と二つの国の成り立ち
古墳時代に入ると、地域ごとの有力者が力を蓄え、巨大な古墳が築造されるようになる。愛知県では、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、安城市の矢作川西岸に桜井古墳群が形成された。この古墳群には、全長68.2mの前方後方墳である二子古墳や、全長65mの前方後円墳である姫小川古墳など、合計18基の古墳が含まれている。これらの古墳の被葬者は、隣接する鹿乗川流域遺跡群に住んでいた有力者と推測されている。また、名古屋市守山区の東谷山周辺には志段味古墳群が分布し、前方後円墳2基、帆立貝式古墳5基、円墳50基など、計66基の古墳が確認されている。特に白鳥塚古墳は墳長115mの前方後円墳であり、愛知県下で3番目の規模を誇る。これらの古墳群は、この地の有力者が大和王権と密接な関係を持っていたことをうかがわせるという。
大和王権の支配が確立される中で、愛知県の地は「尾張国」と「三河国」という二つの令制国へと分かれていく。この区分は、地理的条件と古くからの豪族の勢力範囲を反映したものと考えられる。尾張国は現在の愛知県西部にあたり、三河国は東半部を占める。尾張国は「上国」、三河国も「上国」に分類されていた。
尾張国においては、天火明命を祖神とする尾張氏が古くから勢力を持っていた。彼らは大和王権の天皇家と婚姻関係を結ぶことでその支配を確立していったとされる。例えば、尾張氏の遠祖である奥津余曾の妹である世襲足媛は第5代孝昭天皇の皇后となり、その子は第6代孝安天皇となったと伝えられている。また、日本武尊の妃となった宮簀媛は尾張氏の出身であり、日本武尊が伊勢神宮から授かった草薙神剣を熱田の地に祀ったのが熱田神宮の始まりとされている。熱田神宮は古代から国家鎮護の宮として篤い崇敬を集め、延喜式神名帳では名神大社に列せられたという。
一方、三河国は、大化の改新後に穂国造と参河国造の支配領域を合わせて成立したと考えられているが、確証はないという見方もある。律令制の成立以後には確実に存在したとされ、最初の三河国造は成務天皇の時代に物部氏の生まれと伝えられる知波夜命であったと言われている。
律令国家の地方統治と反発
飛鳥時代から奈良時代にかけて、中央集権的な律令制度が導入され、愛知県の地にもその統治機構が築かれていく。7世紀後半には、地方行政単位としての「尾張国」と「三河国」が誕生した。尾張国には海部、中島、葉栗、丹羽、春部、山田、愛智、智多の8郡が設けられた。三河国もまた、8郡が置かれたとされる。
律令制下では、中央から国司が派遣され、地方豪族が郡司に任命されて統治の実務を担った。尾張国の国府は尾張平野の中央部、現在の稲沢市に置かれ、国分寺・国分尼寺もその近くに建立された。三河国の国府は宝飯郡、現在の豊川市白鳥町総社付近に比定されており、発掘調査によって国庁跡が検出されている。国庁は正殿・後殿・脇殿がコの字型に配置される典型的な構造を持ち、9世紀初頭から10世紀中頃まで機能したと推定されている。国府からは硯や印、墨書土器、瓦などが出土しており、行政の中心地としての性格を物語っている。
しかし、平安時代に入ると律令制度に緩みが生じ、国司の不正な徴税や私利私欲が問題となる。特に10世紀から11世紀にかけては、郡司や百姓が国司の暴政を中央政府に訴える事件が頻発した。永延2年(988年)には、尾張国の郡司や有力農民(田堵負名)が、当時の国守であった藤原元命の非法失政を31か条にわたって朝廷に訴え出た「尾張国郡司百姓等解文」が有名である。この解文には、元命が田の地代と称して麦を不当に徴収したり、私腹を肥やすために過剰な課税を行ったりした実態が詳細に記されている。この訴えを受けて、元命は翌年の除目で解任されたという。この事件は、地方における国司の権限拡大とそれに伴う弊害、そして地方住民による抵抗の実態を示す貴重な史料として知られている。
また、この時代には窯業も発展した。愛知県瀬戸市・豊田市周辺に広がる猿投窯は、古墳時代に須恵器の生産が始まり、その後、灰釉陶器や緑釉陶器、山茶碗と、古墳時代から鎌倉時代にかけて製品を生産し続けた古窯群である。猿投窯の全盛期は奈良時代から平安時代にかけてで、大陸の陶磁器を模倣した精巧な灰釉陶器が都の貴族層に利用されたという。
畿内と東国をつなぐ地の特異性
愛知県、すなわち古代の尾張国と三河国の歴史は、畿内の中央政権と東国を結ぶ要衝として、また独自の文化を育む地域として特異な様相を呈してきた。他の地域と比較することで、その特徴はより鮮明になる。
例えば、畿内周辺の国々が比較的早期から大和王権の直接的な支配下に組み込まれ、その文化的な影響を強く受けていたのに対し、尾張・三河は畿内から東国への玄関口という地理的条件から、両文化圏の要素が混在し、独自の発展を遂げた面がある。弥生時代の大規模環濠集落である朝日遺跡は、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)に匹敵する規模と防御性を持つとされるが、畿内周辺の集落が比較的早期に防御性を弱めていくのに対し、東海地方ではそのような防御的な集落が長く存続した可能性も指摘されている。これは、畿内と東国の間で交易や人の往来が活発であった一方で、地域間の緊張関係も存在したためかもしれない。
また、律令制下の地方統治において、国司の不正が問題となるのは全国的な傾向であったが、「尾張国郡司百姓等解文」のように、郡司や百姓が連携して国司を罷免に追い込むほどの大規模な訴訟が記録として残されている例は、その具体性と詳細さにおいて特筆される。これは、尾張国が「上国」として多くの租税負担を課せられていたこと、そして畿内に近いがゆえに中央への訴えが届きやすかったという地理的・政治的条件が重なった結果とも考えられる。東国の国々では、中央への距離が遠く、訴えが届きにくい、あるいは届いても影響力が限定的であった可能性も指摘できるだろう。
さらに、猿投窯に代表される古代窯業の発展も特徴的である。古墳時代に朝鮮半島から須恵器の技術が伝わると、猿投窯では1,000基を超える古窯が築かれ、高温で焼成する硬質な須恵器を生産した。奈良時代から平安時代にかけては、都の貴族層が用いる灰釉陶器の主要な生産地となり、その技術水準は極めて高かった。これは、畿内周辺にも陶邑窯(大阪府堺市周辺)のような大規模な須恵器生産地は存在したが、猿投窯が都からの需要に応え、独自の技術革新を進めた点で、単なる模倣に留まらない生産拠点としての役割を担っていたと言える。良質な粘土と燃料となる森林、そして水陸の交通の便に恵まれたこの地の条件が、他には見られない窯業の発展を促した。
古代の痕跡を訪ねて
古代から平安時代にかけての愛知県の歴史は、現代に暮らす我々にもその痕跡を伝えている。名古屋市熱田区に鎮座する熱田神宮は、今も年間約650万人が訪れる大社であり、その起源は日本武尊と草薙神剣の伝承に遡る。境内では平安時代の宮中行事を伝える「踏歌神事」が執り行われるなど、古代からの信仰の形が連綿と受け継がれている。
また、かつての国府や国分寺の跡地も、その存在を静かに示している。尾張国府跡や尾張国分寺跡は現在の稲沢市に位置し、三河国府跡と三河国分寺跡は豊川市白鳥町に確認されている。発掘調査によって、当時の役所や寺院の伽藍配置、出土品が明らかになり、往時の地方統治と仏教文化の中心地の様子を窺い知ることができる。豊川市にある三河天平の里資料館では、三河国府跡の出土品や関連情報が展示され、古代の地方行政に触れる機会を提供している。
さらに、猿投窯の広大な古窯群は、瀬戸市や豊田市を中心に1,000基以上が確認されており、日本の陶磁器文化の源流の一つとしてその重要性が認識されている。これらの窯跡は、現代の瀬戸焼や常滑焼といった愛知県を代表する陶磁器産業へと続く、長い歴史の始まりを示していると言えるだろう。
大規模な環濠集落であった朝日遺跡は、現在「あいち朝日遺跡ミュージアム」として整備され、弥生時代の集落の様子を復元展示や出土品を通じて見学できる。環濠や竪穴住居が復元され、当時の人々の暮らしを体感できるようになっている。志段味古墳群も「歴史の里しだみ古墳群」として公開されており、古墳の墳丘や出土品を見ることができるほか、古代体験も可能である。これらの施設は、遥か昔の愛知県の姿を現代に伝える貴重な場所となっている。
畿内と東国、交錯する境界
愛知県の古代から平安時代にかけての歴史を辿ると、この地が単なる一地方に留まらない、重要な役割を担っていたことが見えてくる。畿内の中央政権から見れば、東国への門戸であり、その支配を広げる上での戦略的要衝であった。同時に、東国の文化や技術が畿内へと伝わる中継点でもあったと言える。
尾張氏が大和王権と婚姻関係を結び、熱田神宮が国家鎮護の宮として重んじられた事実は、この地域が中央と密接な関係を持ち、その影響力も小さくなかったことを示唆している。しかしその一方で、「尾張国郡司百姓等解文」に見られるように、中央から派遣された国司の支配に対して、地方の郡司や百姓が結束して抵抗する気風も存在した。これは、畿内の統治が直接的に及ぶ地域とは異なる、独自の自立性や地域共同体の強さがこの地にあったことを物語る。
猿投窯の発展もまた、この地の特性を象徴している。都の貴族が用いるような精巧な陶器を生産しながらも、その技術は朝鮮半島からの渡来技術を基盤とし、地域の豊富な資源を活かして独自の発展を遂げた。畿内文化の影響を受けつつも、それにのみ込まれることなく、自らの手で新たな価値を生み出す力がこの地にはあったのだ。
愛知県の古代史は、中央と地方、異なる文化圏の境界で、人々がどのように適応し、抵抗し、そして創造していったのかという問いを投げかける。その答えは、現代の愛知県が持つ多様性や進取の気性に、静かながらも確かに息づいているのかもしれない。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 犬山市入鹿池遺跡の石器|名古屋市博物館museum.city.nagoya.jp
- 考古1 旧石器・縄文 | 愛知県史研究(全24号) | 愛知県史について | 愛知県公文書館 Aichi Prefectural Archiveskobunshokan.pref.aichi.jp
- 史跡 大曲輪貝塚の紹介|名古屋市公式ウェブサイトcity.nagoya.jp
- 朝日遺跡 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 朝日遺跡 弥生の大集落遺跡|名古屋市博物館museum.city.nagoya.jp
- 謎多き弥生時代の暮らしを体感する 「あいち朝日遺跡ミュージアム」突撃レポート! | 特集 | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Nowaichinow.pref.aichi.jp
- 岡島遺跡|西尾市公式ウェブサイトcity.nishio.aichi.jp
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