2026年5月14日
北上・江刺はなぜ二つの藩に分断されたのか?境塚と北上川が語る歴史
戦国時代以降、北上川流域の北上・江刺地域は南部藩と仙台藩の境に位置し、境塚が築かれた。北上川の舟運と金の産出が経済を支え、岩谷堂箪笥などの文化も育まれた。鉄道開通で舟運は衰退したが、現代も進取の気風が地域に根付いている。
分断された北上川の記憶
岩手県南、北上と江刺の地を歩くと、時折、二つの異なる文化の気配が混じり合っていることに気づく。北上川が悠然と流れるこの地は、かつて東北の要衝であり、激動の時代を経て異なる勢力に分断された歴史を持つ。なぜこの豊かな土地が、戦国時代以降、その境遇を大きく変え、異なる藩の支配下に置かれることになったのか。その問いは、今も残る街道の跡や、土地に残されたわずかな痕跡の中に、静かに息づいている。
境塚が示す藩境の重み
戦国時代の終焉、豊臣秀吉による奥州仕置は、東北地方の勢力図を大きく塗り替えた。それまで葛西氏や大崎氏といった在地領主が支配していた岩手県南部から宮城県北部一帯は、小田原征伐に参陣しなかったことを理由に所領を没収されることになる。そして、この広大な旧領は、出羽国米沢から転封となった伊達政宗に与えられ、後の仙台藩の礎となった。一方、北上川上流を本拠としていた南部氏は、豊臣秀吉から「南部内七郡」を安堵され、近世大名としての地位を確立する。
こうして、現在の北上市域は、南部氏が治める盛岡藩と、伊達氏が治める仙台藩の藩境に位置することになった。寛永19年(1642年)には、この明確な境界を示すために「南部領伊達領境塚」が築かれた。この境塚は、奥羽山脈の和賀駒ヶ岳から太平洋側の唐丹湾まで、およそ130キロメートルにわたって築かれ、現存する唯一の藩境を示すものとして国の史跡に指定されている。北上川の西側では、現在の和賀町岩崎地区や上鬼柳地区が旧南部領、相去町の三十人町地区や成沢地区が旧伊達領とされた。東側でも立花地区が旧南部領、稲瀬町地区や口内町地区が旧伊達領と明確に区別されていた。
特に北上川を挟む胆沢郡と江刺郡は仙台藩領となり、その北辺警護の軍事的拠点として要害が置かれた。岩谷堂城(現在の奥州市江刺区岩谷堂)もその一つであり、万治2年(1659年)には伊達家一門の岩城宗規が入城し、「岩谷堂要害屋敷」として明治維新まで機能した。こうした藩境の存在は、単なる行政上の区切りに留まらず、人々の生活や文化にも影響を与え続けたのである。
北上川が結ぶ経済と、金が育んだ文化
北上と江刺の地が、戦国時代以降に辿った歴史は、北上川の存在と、そして金という資源に大きく影響されている。
江戸時代に入ると、南部藩と仙台藩はともに稲作を藩財政の基盤と捉え、北上川流域の新田開発を積極的に進めた。特に仙台藩では、伊達政宗の家臣である後藤寿庵による寿安堰の開削などにより、胆沢扇状地の開田が進み、仙台藩屈指の穀倉地帯へと変貌した。こうして収穫された米を江戸へ送るため、北上川の舟運が重要視されるようになった。
伊達政宗は、北上川下流部の河川改修を進め、寛永3年(1626年)には北上川の河口を石巻に付け替える大掛かりな工事を川村孫兵衛重吉に命じた。これにより、盛岡から石巻までの舟運路が完成し、石巻は北上川舟運の起点かつ終点、そして海上交通の中継点という二重の性格を持つ河口都市となった。一方、南部藩も盛岡城下や花巻城下で北上川の付け替え工事を行い、舟運の便を図った。黒沢尻(現在の北上市)には北上川最大の河港が設けられ、上流と下流の中継地として、南部藩から石巻への年貢米の積み替えが行われた。ひらた舟と呼ばれる川舟が、石巻から黒沢尻まで148キロメートルを上り10日、下り3日で運航し、黒沢尻から盛岡まではおぐり舟がさらに上流へと荷を運んだ。
また、江刺地域は古くから金の産地として知られていた。平泉文化を築いた藤原氏の時代には、すでにこの地で金が採掘され、その黄金文化を支えていた歴史がある。江戸時代に入ると、具体的な鉱山業の記録は減少するものの、北上高地には広範に金を含む鉱脈が埋まっていることが知られている。この地の豊かな自然資源は、直接的な経済活動だけでなく、岩谷堂箪笥のような工芸品の発展にも寄与した。岩谷堂箪笥は、天明年間(1780年代)に岩谷堂城主・岩城村将が米に頼らない経済を模索し、家臣に製作や塗装の研究をさせたのが始まりとされる。漆塗りと手打の金具が特徴で、明治時代には北上川の下川原港から出荷され、東北各地に広まっていった。
他の藩境都市と異なる北上の姿
日本の歴史において、藩境に位置する都市は少なくない。例えば、九州の豊前国中津(現在の大分県中津市)は、細川氏と小笠原氏、そして奥平氏と複数の藩主が入れ替わり、城下町としての性格を保ちながらも、その時々の支配者の政策によって異なる発展を遂げた。また、奥州街道の宿場町であった白河(現在の福島県白河市)は、陸奥国と下野国の境に位置し、江戸時代には老中を輩出した阿部氏が治める白河藩の城下町として栄え、軍事的要衝としての性格も強かった。
これらの藩境都市と比較すると、北上や江刺の状況には特異な点がある。北上川を境に二つの大藩が隣接し、その境界が明確に「境塚」という物理的な形で築かれたことは、他の地域ではあまり見られない。多くの場合、藩境は山や川といった自然の地形を利用することが主であり、これほど大規模な人工の境界が設けられることは稀である。これは、南部藩と仙台藩という東北地方の二大勢力が、互いの勢力範囲を明確にし、紛争を避けるための強い意思の表れと解釈できるだろう。
また、北上が単なる藩境の町に留まらず、北上川舟運の重要な中継地として経済的役割を担った点も注目される。他の藩境都市が軍事的拠点や宿場町としての性格を強く持つ一方で、北上は物流の要衝として、両藩の経済活動を支える役割を担っていた。黒沢尻の河港には両藩の舟が集まり、米や物資の積み替えが行われた。この地の舟運が、江戸の米消費の約2/3を占めるほどであったという記録は、その経済的影響力の大きさを物語っている。藩境という制約がありながらも、北上川という自然の恵みを最大限に活用し、広域経済圏の中で独自の地位を築いたのである。
鉄道と近代化がもたらした変容
明治時代に入り、廃藩置県によって藩境は消滅し、北上と江刺の地は新たな行政区画のもとに統合されていく。しかし、藩政時代に培われた地域の特性や経済基盤は、容易には消えなかった。
北上川の舟運は、明治期に入っても一時的に川蒸気船の就航などで賑わいを見せるが、明治23年(1890年)の東北本線全線開通により、その役割を鉄道に奪われ、徐々に衰退していった。かつて米や物資がひらた舟で行き交った北上川は、その経済的な活気を失い、人々の生活の中心は鉄道沿線へと移っていく。
一方で、江刺地域では、岩谷堂箪笥の生産が近代化の中で新たな局面を迎えた。一時は洋風家具の普及により需要が低迷するものの、昭和40年代には東京での展示会を契機に都市生活者の需要を開拓し、伝統工芸品としての価値を再認識されるようになった。昭和57年(1982年)には経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受け、現在も数軒の製造業者が伝統技術を守り続けている。現代の住宅様式に合わせたオーダーメイドや、端材を利用した小物など、新たな商品開発にも取り組んでいる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。