2026/6/5
前橋のだるま市、なぜ高崎だるまが並ぶのか

前橋のだるま祭りについて教えて欲しい。だるまが有名なのか?
キュリオす
前橋初市まつり(だるま市)では、高崎だるまが多数販売される。その背景には、浅間山噴火後の飢饉からの復興、からっ風と養蚕業、そして開港による顔料の入手が重なり、だるまの一大産地となった歴史がある。願いを託すだるまは、人々の決意表明ともなっている。
冬の終わり、前橋の街角に立つと、どこからともなく熱気を帯びたざわめきが聞こえてくる。毎年1月9日に開催される「前橋初市まつり」は、別名「だるま市」とも呼ばれ、国道50号線を中心に多くの露店が軒を連ねる新春の風物詩である。通りを埋め尽くす赤や金のだるまは、訪れる人々の願いを受け止めるかのように力強く、その存在感を放つ。
この祭りの活気を目にすると、自然と一つの疑問が浮かぶ。なぜ前橋で、これほどまでに「だるま」が主役を張るのだろうか。だるまといえば、群馬県高崎市が全国生産の約8割を占める一大産地として知られているが、隣接する前橋の地で、だるまがこれほど深く根付いた背景には、どのような歴史や風土があるのだろうか。
前橋のだるま文化を語る上で、隣接する高崎市、そしてそこにある少林山達磨寺の存在は不可欠である。高崎だるまの起源は、今から二百十数年前、江戸時代後期の寛政年間(1789年〜1801年)に遡るとされている。
この時期、群馬一帯は天明3年(1783年)の浅間山の大噴火をはじめとする天変地異に見舞われ、深刻な大飢饉に苦しんでいた。 困窮する農民たちの生活を救うため、少林山達磨寺の九代目住職である東嶽和尚が立ち上がる。和尚は、開山僧である心越禅師が描いた達磨像をもとに木型を彫り、張り子だるまの製法を地元の豊岡村(現在の高崎市豊岡地域)の山縣友五郎に伝授したと言われているのだ。
友五郎は、若い頃に武州(現在の埼玉県)の人形店で修行した経験があり、その技術と和尚から伝授された製法、そして当時江戸で疱瘡(天然痘)除けとして人気を集めていた「江戸だるま」の要素を融合させ、1800年頃に「高崎だるま」の原型を確立したと考えられている。 こうして作られただるまは、正月の七草大祭で縁起物として売られるようになり、農閑期の副業として地域に広まっていった。
前橋の初市まつりの起源は、毎月4と9の日に開かれていた日用雑貨や生糸の「六斎市」にあるとされ、城主・酒井重忠の時代から続く伝統的な行事であった。 この市に、だるまが加わり「だるま市」と呼ばれるようになった明確な経緯は定かではないが、文化年間にはすでに前橋藩領であった少林山達磨寺と、だるま作りが盛んになった豊岡村との結びつきが、前橋の初市にだるまを呼び込む要因となったのだろう。
高崎だるまがこの地域で発展し、全国的な産地となった背景には、複数の要因が重なっている。まず、群馬特有の気候条件がある。冬から春にかけて赤城山から吹き下ろす、冷たく乾燥した「からっ風」は、紙を何層にも貼り重ね、色を塗るだるま作りの工程において、乾燥に適した環境をもたらした。 この自然の恵みが、だるまの品質を安定させ、大量生産を可能にする土台を築いたと言えるだろう。
次に、養蚕業の隆盛が挙げられる。群馬県は古くから養蚕が盛んな地域であり、蚕が古い殻を破って脱皮することを「起きる」と表現した。 「七転び八起き」のだるまが、何度転んでも起き上がる姿と、元気に「起きる」蚕の姿が重なり、養蚕農家は豊作の願いを込めてだるまを守り神として祀るようになった。 こうしてだるまは、単なる縁起物としてだけでなく、地域産業の守り神として人々の生活に深く浸透していったのだ。
さらに、1859年の横浜港開港も、だるまの生産拡大に拍車をかけた。海外から「スカーレット」という鮮やかな赤色の顔料が輸入されるようになり、それまで入手が困難だった質の高い赤色が容易に手に入るようになったことで、だるまの生産はさらに盛んになったという。 飢饉からの復興を願う人々の内職として始まり、地域の気候風土、主要産業、そして国際的な流通という三つの偶然が重なり、高崎はだるまの一大産地へと成長していったのである。
日本全国には様々なだるま市が存在するが、群馬の高崎だるま市は、東京の深大寺だるま市、静岡の毘沙門天大祭だるま市と並び、「日本三大だるま市」の一つに数えられる。 それぞれのだるま市には独自の歴史と特色がある。
例えば、深大寺のだるま市は、天台宗の古刹である深大寺で毎年3月3日・4日に開催され、関東最大級の規模を誇る。 蕎麦が名物としても知られ、寺の境内には多くの蕎麦屋も並ぶ。また、静岡の毘沙門天大祭だるま市は、旧正月の7日、8日、9日の3日間に開催され、全国各地からだるまの店が並ぶことで「日本最大のだるま市」とも称される。 富士市は製紙業が盛んであったため、その半端紙でだるまを作り始めたという歴史も持つ。
これらと比較して、高崎だるま、そして前橋初市のだるまは、その顔立ちに明確な特徴がある。高崎だるまは、眉毛が鶴、髭が亀を表現しており、「鶴は千年、亀は万年」という吉祥・長寿の動物が描かれていることから「縁起だるま」「福だるま」とも呼ばれる。 さらに、お腹には「福入」、両肩には「家内安全」「商売繁盛」「大願成就」「目標達成」といった願いが金文字で書き込まれることが多い。 このように願い事を具体的に文字で書き込むだるまは、全国的に見ても珍しいとされている。
他の地域のだるまが、それぞれの寺社の信仰や地域の産業と結びついて発展してきたのに対し、高崎のだるまは、飢饉という切迫した状況下での農民救済という側面から生まれ、養蚕業の発展、そして特有の気候がその生産を後押しした。その上で、具体的な願いを託しやすい意匠が凝らされ、人々の生活に深く根差していった点が特徴的だ。単なる縁起物というよりは、願いを「形」として可視化し、目標達成への決意を促す役割を強く持っていると言えるだろう。
現代において、高崎だるまは年間約90万個が出荷され、全国の張り子だるまの生産量の約8割を占める日本一の産地であり続けている。 選挙の際に立候補者が左目を入れて当選後に右目を入れる「選挙だるま」のほとんども、高崎で生産されているという。 1970年代頃からは、生地づくりの機械化が進み大量生産が可能になったが、顔の描画や文字入れなど、多くの工程は今も職人の手作業で行われている。
前橋の初市まつりでは、毎年1月9日、前橋八幡宮で1年間の役目を終えた古だるまを感謝の気持ちを込めて燃やす「だるま供養(お焚き上げ)」で幕を開ける。 その後、「市神様」の渡御や、だるまや縁起物を求める人々で国道50号線が賑わいを見せる。露店には伝統的な赤いだるまだけでなく、干支だるまやカラフルなだるま、その場で名入れをしてくれるサービスもあり、多くの人がお気に入りの一体を求めて列を作る。
かつては農閑期の副業であっただるま作りも、今では年間を通して行われる産業となり、地域団体商標にも登録され、そのブランドと品質が公的に認められている。 高崎だるまは単なる工芸品に留まらず、願いを託し、目標に向かう人々の心の支えとして、現代社会においてもその存在感を保っている。
前橋の初市まつりでだるまがこれほどまでに有名になったのは、隣接する高崎がだるまの一大産地であるという地理的・歴史的背景に加え、前橋の初市が持つ「商いの始まり」という性格が、だるまの「縁起物」としての役割と強く結びついた結果と言えるだろう。市神様の渡御に始まり、だるまを買い求める人々の活気は、単なる購買行動を超え、新たな一年への決意表明のようにも見える。
だるまが私たちに問いかけるのは、その空白の目ではないか。片目を入れ、願いを託し、その成就をもって初めて両目が開かれるという習わしは、願いを神仏任せにするのではなく、自らの手で道を切り開くという、この土地の人々の堅実な精神性を映し出している。 からっ風が吹き荒れる厳しい冬を乗り越え、養蚕に勤しんできた人々の暮らしの中で育まれた「七転び八起き」の精神は、現代においても、だるまの静かな眼差しの中に息づいている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。