2026/6/5
前橋の白井屋ホテル、廃墟からアート空間への大胆な転身

前橋の白井屋ホテルについて教えて欲しい。リノベされた空間だった。
キュリオす
300年以上の歴史を持つ前橋の旧白井屋旅館が、田中仁財団と建築家・藤本壮介氏のタッグで生まれ変わった。旧躯体を活かしつつ大胆な改修とアート作品で彩られた空間は、地域に新たな文化と賑わいをもたらしている。
前橋の市街地を歩くと、見慣れた国道沿いに突如として現れる、あの白い建物に目を奪われる。無機質なコンクリートの塊のようでありながら、そのファサードには鮮やかなタイポグラフィが踊り、内部からは予想だにしない光が漏れ出す。それが「白井屋ホテル」だ。かつて旅館として栄え、一度は廃墟寸前まで追い込まれたと聞けば、この現代的な建築が持つ「リノベーション」という言葉の裏に、ただの改修では片付けられない物語が潜んでいることに気づかされる。なぜ前橋という地方都市の、それも中心部に、このような大胆な建築が生まれたのか。そして、その再生は単なる流行に終わらず、どのようにして街の新たな顔となり得たのだろうか。
白井屋の歴史は江戸時代に遡る。創業は300年以上前とも言われ、旧宮内庁御用達の格式高い旅館として、その名は前橋の地に深く刻まれてきた。乃木希典や森鴎外といった明治の文人、軍人にも愛されたという記録が残されている。絹産業で栄えた前橋の近代化を背景に、白井屋は街の迎賓館としての役割を担ってきたと言えるだろう。しかし、時代が移り変わる中で、旅館は1970年代にホテルへと業態を転換する。鉄筋コンクリート造の4階建ての建物は、その時代の新しい息吹を宿していたに違いない。
だが、前橋市の中心市街地が衰退の一途を辿る中で、白井屋もまたその影響を免れることはできなかった。2008年、300年以上の歴史に幕を閉じ、廃業に至る。この出来事は、前橋の街にとって一つの時代の終わりを告げる象徴でもあった。建物はその後、マンション業者に売却される危機に瀕し、取り壊しも検討されていたという。
この廃業から再生プロジェクトが始動する2014年までの約6年間は、白井屋の歴史における空白期間と言える。しかし、この空白があったからこそ、旧旅館の建物は単なる過去の遺物ではなく、未来の可能性を秘めた「器」として見直される余地が生まれたのかもしれない。かつての栄華を知る者にとっては寂寥感の漂う風景であっただろうが、この期間が、後の大胆な変革に向けた静かな準備期間となったことは想像に難くない。
白井屋ホテルの再生は、地元前橋市出身のアイウエアブランド「JINS」創業者である田中仁氏が設立した田中仁財団の活動の一環として、2014年に始まった。田中氏がこのプロジェクトに乗り出した背景には、廃業した白井屋旅館が東京のマンション業者に売却され、街の景観が失われることへの強い危機感があったと言われている。彼は「ビジョンがなければ地域創生はできない」と語り、単なる商業施設ではなく、前橋の未来を担う新たな文化の拠点を目指したのだ。
この再生プロジェクトの核となったのが、建築家の藤本壮介氏である。藤本氏は、1970年代に建てられた旧白井屋のコンクリート躯体を活かしつつ、大胆な改修を施すことを提案した。その象徴が、ヘリテージタワーの1階から4階までを貫く、巨大な吹き抜け空間である。既存の床をすべて抜き去ることで、力強い柱や梁がむき出しになり、まるで屋内広場のような開放的な空間が生まれた。この吹き抜けは、かつての旅館の記憶と現代の建築デザインとが交錯する、ホテルの「顔」となっている。
さらに、旧白井屋の隣接地には、利根川の旧河川の土手をイメージしたという新築棟「グリーンタワー」が建設された。建物全体が緑の小山のように見えるこのタワーは、前橋市の都市ビジョン「めぶく。」の象徴とも位置づけられている。ヘリテージタワーの歴史的な重みと、グリーンタワーの自然との融合が、白井屋ホテル全体の建築的な特徴を形作っている。
この建築的な挑戦に加え、白井屋ホテルはアートデスティネーションとしての性格を強く打ち出している。藤本氏の建築空間に、アルゼンチン出身のレアンドロ・エルリッヒによる光のアート作品「ライティング・パイプ」が吹き抜けを縦横に走り、レセプションには現代美術作家・杉本博司の「海景」シリーズが飾られている。ジャスパー・モリソン、ミケーレ・デ・ルッキ、そして藤本壮介自身がデザインしたスペシャルルームを含む全25室の客室には、それぞれ異なる国内外のアーティストの作品が点在し、ホテル全体が美術館のような様相を呈している。
これらの要素は単独で存在するのではなく、互いに補強し合っている。田中氏の「前橋を元気にしたい」という地元への強い思いと、藤本氏の大胆な建築思想、そして世界的なアーティストたちのクリエイティビティが、偶然ではなく必然的に重なり合い、白井屋ホテルという唯一無二の空間を生み出したと言えるだろう。
歴史的建造物を現代の用途に適合させる「コンバージョン」や「リノベーション」は、日本各地で見られる。例えば、京都の町家を改装した宿泊施設や、古い工場や倉庫を文化施設や商業空間に転用する事例は少なくない。これらの多くは、既存の建物の持つ情緒や歴史的価値を保存しつつ、新たな機能を与えることで、観光資源としたり、地域の活性化に寄与したりすることを目的としている。
しかし、白井屋ホテルの再生は、そうした一般的なリノベーションの枠を大きく超えている点が特徴的だ。多くの事例が、既存の構造や間取りを最大限に活かし、その上で現代的なデザインや設備を付加するのに対し、白井屋は旧ホテルの躯体から、床を抜いて巨大な吹き抜けを創出するという、既存の空間を根底から再構築する手法を採用した。これは、単なる「保存」や「活用」に留まらず、建築そのものが持つ可能性を問い直す行為であったと言える。
また、アートの取り入れ方も、美術館併設型ホテルやアートギャラリーを併設するホテルとは一線を画している。白井屋ホテルでは、著名なアーティストが空間全体や個々の客室を「作品」としてデザインし、建築とアートが不可分一体となっている。これは、建物自体がアート作品であり、宿泊体験そのものがアート鑑賞となる、より没入的なアプローチである。一般的なリノベーションが建物に「付加価値」を与えるのに対し、白井屋は建物そのものを「価値」として再定義したのだ。
さらに、このプロジェクトを主導したのが、地元出身の起業家である田中仁氏とその財団であった点も重要である。地域再生の文脈で、民間主導、特に地域に根ざした個人の強い意志がここまで大規模なプロジェクトを牽引した事例は、全国的にも珍しい。行政や大手デベロッパー主導の再開発とは異なり、地域への深い愛着と、既存の概念にとらわれない自由な発想が、この大胆な再生を可能にしたと言える。その意味で、白井屋ホテルは単なる建築再生の成功例に留まらず、地方都市における新しいまちづくりのモデルケースとして、他の地域に問いを投げかけている。
2020年12月12日に開業した白井屋ホテルは、前橋の街に新たな賑わいをもたらしている。ホテルは宿泊施設としてだけでなく、ミシュラン2つ星シェフが監修するレストラン「the RESTAURANT」や、オールデイダイニング「the LOUNGE」など、食の拠点としても機能している。特に「the LOUNGE」は宿泊者以外も利用可能で、地元の人々が日常的に集う「まちのリビング」として設計されているという。
その象徴的な出来事の一つが、2021年9月にホテル敷地内にオープンした「ブルーボトルコーヒー 白井屋カフェ」だろう。大都市圏以外では初の出店であり、開業日には長い行列ができたと報じられている。これは、白井屋ホテルが持つ求心力と、前橋の街が新たな文化を受け入れる土壌が育ちつつあることを示している。
白井屋ホテルは、その先進的な取り組みが国内外で高く評価されており、米国のインテリア雑誌「AD(アーキテクチュラル・ダイジェスト)」の「2021 AD Great Design Hotel Award」や、ナショナル・ジオグラフィック・トラベラー誌の「National Geographic Traveller Hotel Awards 2021」ベストデザインホテル部門に入選するなど、数々の賞を受賞している。
ホテルは、単なる宿泊施設や観光地としてだけでなく、地域と旅行者が交流するアートと食文化の発信拠点としての役割を担っている。後継者問題や観光化といった課題は、地方都市の再生プロジェクトには常に付きまとうが、白井屋ホテルは、地域出身の起業家が持つ明確なビジョンと、世界的なクリエイターたちの協力を得て、その土地固有の歴史と現代性を融合させることで、新たな価値を創造している。ホテルの周辺を散策すれば、建物が街に自然と溶け込み、そのアーティスティックな側面が徐々に地域に浸透している様子が感じられるだろう。
前橋の白井屋ホテルは、かつて栄華を誇り、一度は役割を終えた建築物が、単なる修復や再利用に留まらない、より根源的な問いを私たちに投げかけている。それは、「歴史とは何か、そして未来を築くとはどういうことか」という問いである。
旧旅館のコンクリート躯体をあえて露わにし、その内部に大胆な吹き抜けを穿つという建築家の選択は、過去を完全に消し去るのではなく、その痕跡を現代の空間に刻み込むことで、時の連続性を視覚化している。これは、古き良きものをただ懐かしむのではなく、その「強さ」や「記憶」を現代へと引き継ぎ、新しい価値を生成する試みだ。
このホテルが示すのは、地方都市の再生が、必ずしも過去の模倣や大都市の模倣である必要はないという可能性だろう。むしろ、その土地が持つ固有の歴史や、一度は失われたかに見えた物語を、現代のクリエイティブな視点で再解釈し、世界に通用する形で提示することこそが、真の地域活性化に繋がり得るという事実である。白井屋ホテルの再生は、廃墟寸前の建物が、地域を「めぶく。」起点となり得ることを、具体的に示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。