2026/7/5
平安・鎌倉時代の庶民は狭い竪穴住居でどう家族を営んでいたのか?

平安・鎌倉時代、庶民の家族携帯はどうだったんだろうか?婚姻制度も含め
キュリオす
平安・鎌倉時代の庶民は、貴族とは異なり、狭い竪穴住居での同居を前提とした労働ユニットとしての結婚生活を送っていた。鎌倉時代には土地所有の概念から嫁入り婚が定着したが、分割相続により女性の地位は保たれていた。
掘立柱の向こう側にある家族の風景
平安時代の結婚と聞けば、多くの人は『源氏物語』に描かれるような優雅な「通い婚」を思い浮かべるだろう。夜の闇に紛れて男が女の屋敷を訪れ、夜明けとともに和歌を残して去っていく。あるいは、女の家が婿を養う「招婿婚(しょうせいこん)」の風景。しかし、こうしたイメージはあくまで、広大な寝殿造に住み、労働を免除されていた一握りの貴族階級の特権にすぎない。当時の人口の圧倒的多数を占めていた庶民にとって、夫婦の形はもっと泥臭く、物理的な制約に縛られたものだった。
その制約を象徴するのが、発掘調査によって明らかになった当時の庶民の住居、すなわち「竪穴住居」のサイズである。平安時代を通じて、地方の農民たちの多くは依然として、地面を掘り下げて床とした四方形の竪穴に住んでいた。その面積は平均して15から16平方メートル程度、わずか5坪ほどである。この狭い空間に、煮炊きをするカマドがあり、寝床があり、農機具が置かれていた。ここに家族がひしめき合って暮らしていたのである。
考えてみれば、これほど狭い住環境で、貴族のような「通い婚」が成立するはずもない。男が夜な夜な訪ねてくる余地もなければ、女の親が婿を養い続ける経済的余力も乏しい。では、教科書が教える「平安・鎌倉の婚姻」という枠組みの中で、名もなき庶民たちはどのような家族を営んでいたのだろうか。その実態を探ると、雅な王朝文学の背後に、驚くほど実利的で、現代の「家」の概念とは異なる流動的な人間関係が見えてくる。
労働という鎖がつなぐ夫婦の同居
平安時代の庶民にとって、結婚はロマンチックな情事である以上に、生存のための「労働ユニット」の結成であった。貴族階級であれば、夫が妻の家に通う間も、それぞれの実家が生活を支えてくれる。しかし、農民や都市の小市民にとって、男女が別々に暮らすことは労働力の分散を意味し、極めて効率が悪い。そのため、庶民の婚姻は早い段階から「同居」を前提としていたと考えられている。
当時の庶民の婚姻形態として指摘されるのが、一定期間の「足代(あしだい)」や労役を経て同居に移行する形である。男が女の家へ通う期間があったとしても、それはあくまで儀礼的な通過点にすぎず、すぐにどちらかの家(多くは夫の家、あるいは二人で新しく構えた家)で寝食を共にする生活が始まった。これを裏付けるのが、12世紀頃の説話集『今昔物語集』に登場する庶民たちの姿である。
『今昔物語集』巻三十には、京に住む貧しい夫婦が生活に困り、泣く泣く別れて再出発を図る物語が収められている。ここでの夫婦は、常に「共に住み、共に苦労する」存在として描かれる。夫が妻の元へ通うのではなく、狭い家の中で一つのカマドを囲み、共に飢えをしのぐ。この「共食」の事実は、当時の家族を定義する最も重要な要素であった。家族とは血縁の繋がりである以上に、同じ火で煮炊きしたものを食べる「カマドを共にする集団」だったのである。
こうした小規模な家族形態は、現代の核家族に近いようにも見えるが、その内実はもっと不安定で流動的だった。平安時代の庶民社会において、離婚や再婚は驚くほど容易に行われていた。生活が立ち行かなくなれば解消し、また別のパートナーと組んで労働に従事する。そこには後世の「不義理」という概念よりも、生存のための合理性が優先されていた。女性もまた、単なる「守られる存在」ではなく、機織りや農作業、市場での商売を通じて自立した稼ぎ手であったため、夫に依存しきる必要がなかったのである。
土地という重力が男を繋ぎ止める
鎌倉時代に入ると、この流動的な家族の形に大きな変化が訪れる。その主因は、武士階級の台頭と「土地所有」の概念の定着にある。平安時代の貴族が「位」や「官職」を富の源泉としていたのに対し、鎌倉武士にとっての生命線は、先祖伝来の「所領(一所懸命)」であった。この変化が、日本の婚姻制度を「婿入り」から「嫁入り」へと大きく舵を切らせることになる。
武士は、自分が管理し防衛しなければならない土地に縛られている。結婚したからといって、妻の実家へ移り住むことは、自らの所領を放棄することに等しい。そのため、必然的に「女が男の家に来る(嫁入婚)」というスタイルが定着し始めた。これが後に庶民の間にも広がり、日本の伝統的な「家」のイメージの原型となっていく。坂東武者たちの荒々しい生活の中から、土地を守るための「父系的な家」が形作られていったのである。
しかし、この時期の「嫁入り」は、江戸時代以降のそれとは決定的に異なる点があった。それは、女性が結婚後も自分の姓を名乗り続け、自らの財産権を保持していたことである。源頼朝の妻である北条政子が、結婚後も「北条」の姓を保ち、実家である北条氏の政治力や財産を背景に発言権を持っていたのは、当時の女性の地位を象徴している。
この傾向は、有力な武士だけでなく、中堅の御家人や地方の有力農民層にも共通していた。女性は結婚しても「婚家の一員」として完全に吸収されることはなく、実家との繋がりを維持したまま、自立した人格として扱われていた。鎌倉時代の法典『御成敗式目』には、女性が親から譲り受けた所領を、夫が勝手に処分することを禁じる条文がある。また、夫と死別した「後家(ごけ)」が、亡夫の所領を管理し、家長として振る舞うことも珍しくなかった。鎌倉時代の家族は、土地を守るという強固な目的を持ちながらも、男女のパワーバランスにおいては、まだ多分に「双系的な(男女双方の家系を重視する)」特徴を残していたのである。
分割相続が支えた女性の矜持
なぜ鎌倉時代の女性は、これほど強い権利を持ち得たのか。その鍵は「分割相続」という仕組みにある。平安時代から鎌倉時代中期にかけて、親の財産(土地や家屋、召使など)は、息子だけでなく娘にも分け与えられるのが一般的だった。これを「諸子分割相続」と呼ぶ。娘が結婚する際、親は持参金代わりに土地を譲り、娘はその土地から上がる収益を自分の裁量で使うことができた。
この経済的自立こそが、女性の地位の源泉であった。夫が浮気をしたり、不当な扱いをしたりすれば、妻は自分の財産を持って実家へ帰る、あるいは新しい生活を始めることができた。当時の史料には、女性が自らの名義で土地を売買したり、寺院に寄進したりする記録が数多く残されている。庶民のレベルでも、女性が商売の元手を持って自立して立ち回る姿は、『一遍上人絵伝』などの絵巻物の中に、市場で力強く働く女性たちの姿として活写されている。
だが、この「自由な相続」は、時代の進展とともに限界を迎えることになる。分割相続を繰り返せば、代を追うごとに一族の所領は細分化され、一軒あたりの経営規模は縮小していく。特に鎌倉時代後半になると、元寇などの対外危機や貨幣経済の浸透により、武士たちの生活は困窮し始めた。細分化された土地では、幕府から課せられる軍役や公事を果たすことができなくなったのである。
ここで登場するのが「一期分(いちごぶん)」という、ある種妥協的な相続形態である。これは、女性に対して「あなたが生きている間だけは土地を持たせてあげるが、死んだ後は実家の一族(惣領)に返しなさい」という条件付きの譲与である。かつては娘に譲った土地は、その娘の子へと永代にわたって受け継がれていくものだったが、一族の財産が他家へ流出することを防ぐために、女性の権利は「一代限り」へと制限され始めた。この「一期分」の普及こそ、女性が家の中心的な主体から、家を繋ぐための「一時的な預かり手」へと転落していく、長い歴史の分岐点であった。
惣村という共同体が溶かす個の境界
鎌倉時代から室町時代へと向かう過渡期、庶民の家族形態にさらなる変容を迫ったのが、村落共同体「惣村(そうそん)」の形成である。それまでの農民は、領主や豪族に個別に支配される存在だったが、この時期、自衛と自治のために村全体が団結する動きが強まった。この共同体の強化が、家族のあり方にも影響を及ぼしていく。
惣村においては、村の意思決定を行う「寄合(よりあい)」が重要な役割を果たす。この寄合に参加できるのは、原則として「家」を代表する男性、すなわち家長であった。共同体としての義務(年貢の納入や水利の管理)が個人ではなく家単位で課せられるようになると、家族の中での家長の権限は必然的に強化される。平安時代に見られたような、夫婦がそれぞれ独立して動き回る流動的な関係は、共同体の秩序を維持するために、徐々に「家」という固定的な枠組みの中に閉じ込められていった。
一方で、この時期の庶民の生活風景を覗くと、家族の境界線が今よりもずっと曖昧だったことがわかる。狭い竪穴住居から、少しずつ地上に柱を立てる「掘立柱建物」へと住居が進化していく過程で、家屋の中には明確な個室など存在しなかった。カマドのある土間を中心としたワンルームのような空間で、家族だけでなく、居候や使用人、時には旅人が雑魚寝をすることもあった。
当時の「家族」という言葉の射程は広く、血の繋がった親族だけでなく、同じ屋敷内に住み、同じ主君に仕える「所従(しょじゅう)」や「下人(げにん)」までをも包含する、一種の経営体であった。平安時代の庶民が「カマドを共にする」ことで家族を定義したように、中世の家族もまた、一つの屋根の下で同じ労働に従事する「運命共同体」としての色彩が強かったのである。そこには、現代人が想像するようなプライバシーの概念はなく、個人の意思よりも、その集団がいかにして明日を生き延びるかという切実な目的が、家族の絆を形作っていた。
檻に入れられる前の、剥き出しの絆
平安から鎌倉へと至る数百年の時間は、日本の家族が「個の緩やかな結合」から「家の強固な制度」へと移行していくプロセスであったと言える。私たちが現在「伝統的」だと信じている、家父長が絶対的な権力を持ち、女性が婚家に尽くすという家族像は、この時代の終わりから近世にかけて、土地所有の安定と社会秩序のために作り上げられた「完成形」にすぎない。
それ以前の、例えば平安時代の農村に生きた夫婦の姿を想像してみる。そこにあったのは、5坪の暗い竪穴住居の中で、煙に目を細めながら共に粥をすすり、明日の天気を案じる、剥き出しの生存のパートナーシップである。そこでの関係は、制度によって守られていない分、驚くほど脆く、同時に驚くほど実利的であった。生活が破綻すれば別れ、また別の誰かとカマドを構える。その流動性は、裏を返せば、個人が「家」という巨大な装置に飲み込まれる前の、野生的な自由さでもあった。
鎌倉時代の「一期分」という切ない約束は、その自由が失われていく過程で、せめて一代だけでも自らの財産を守ろうとした女性たちの、最後の抵抗の跡のようにも見える。土地を細分化してはならないという社会の要請と、娘に資財を残したいという親の情愛が、その奇妙な相続形態を生んだ。
歴史を遡ることで見えてくるのは、家族というものが不変の愛の形ではなく、その土地の生産力や、家屋の構造、あるいは税の仕組みといった、極めて即物的な条件によって絶えず作り替えられてきたという事実である。平安・鎌倉の庶民たちが、狭い家の中で肩を寄せ合い、あるいは土地を守るために嫁を迎え入れたその営みは、現代の私たちが「家」という言葉に込める重さとは、全く質の異なる、生存のための切実な熱量に満ちていた。その熱量は、制度としての家が完成する前の、混沌とした人間関係の余白にこそ宿っていたのではないか。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 鎌倉時代・室町時代のころの相続 - 【公式】大阪相続遺言相談センター|無料相談実施中!pip-souzoku.com
- 結婚の歴史〜鎌倉時代編〜 - エースブライダルacebridal.net
- 日本結婚史town1.jp
- 鎌倉時代の結婚観や結婚式はどんなものだった? | 鎌倉時代の文化と武士や庶民の生活・暮らしや出来事のまとめkamakura-jidai.com
- 結婚の形態の歴史|婚礼の知識|冠婚葬祭の知識|結婚式・ご葬儀・互助会のユウベルグループ(平安閣)公式サイト|広島・東広島・三次・庄原・福山・鳥取・米子・島根・松江・福岡・熊本・八代・鹿児島・霧島u-b.jp
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