2026/7/5
平安・鎌倉時代の家族は「婿取り」と「分割相続」でどう変わったのか?

平安・鎌倉時代の家族形態はどのようなものだったのだろう?婚姻関係は?
キュリオす
平安時代の貴族社会では妻方居住を基本とする「婿取り婚」が、鎌倉時代には武士の土地所有を巡り「分割相続」が女性の地位を支えていた。両時代の家族形態の変遷を辿る。
妻問婚を支えた財産と居住の論理
平安時代の恋といえば、几帳の陰で和歌を交わし、男が夜な夜な女の元へ通う「妻問婚(つまどいこん)」のイメージが定着している。教科書や物語が描き出すその光景は、どこか浮世離れした、情熱的で自由な男女の関係を想起させがちだ。しかし、歴史の解像度を上げていくと、そこにはロマン主義的な恋愛観だけでは説明のつかない、冷徹なまでの「財産と居住」の論理が浮き彫りになる。
一方で、続く鎌倉時代になると、武士の台頭とともに「家」の概念が強まり、女性の地位は一気に転落したと考えられてきた。だが、初期の鎌倉幕府が編纂した法典や譲状(ゆずりじょう)を読み解けば、そこには現代の私たちが想像する以上に、自立し、力強く土地を支配する女性たちの姿が読み取れる。
平安から鎌倉へ。この二つの時代を跨ぐとき、家族のあり方は劇的な変容を遂げたと語られてきた。だが、それは単に「通い婚から同居へ」という形式の変化だったのだろうか。あるいは「母系から父系へ」という単純な権力の移動だったのだろうか。当時の記録が示すのは、私たちが「日本の伝統的な家族」と信じている形とは全く異なる、生存と継承をめぐる切実な試行錯誤の跡が残る。
土御門殿の道長と母方居住の構造
平安時代の婚姻形態を語る際、長らく定説とされてきたのは、高群逸枝が提唱した「招婿婚(しょうせいこん)」の枠組みだ。これは、夫が妻の家に通う、あるいは妻の家族と同居する形態を指す。現代の感覚では、結婚といえば「嫁に行く」のが一般的だが、この時代の貴族社会においては、文字通り婿を「取る」のが基本であった。
例えば、藤原道長が源倫子の土御門殿(つちみかどどの)に入った例は象徴的だ。道長は婿として妻の実家に入り、その財力と人脈を背景に権力を掌握していった。当時の貴族にとって、邸宅や生活物資を用意するのは妻側の家系であり、夫はそこへ「寄居(ききょ)」する立場に近かった。子供もまた、母方の実家で育てられる。藤原氏が外戚政治、すなわち天皇の母方の祖父として権力を振るえたのは、この「母方居住」という社会構造が強固な基盤となっていたからに他ならない。
しかし、近年の研究では、この「招婿婚」という言葉だけでは捉えきれない実態も指摘されている。平安中期の『大和物語』や『今昔物語集』を精査すると、結婚当初は夫が通う形であっても、数年後には夫婦で独立した邸宅を構えたり、夫の家に妻が移ったりする事例が少なからず見出される。つまり、生涯にわたって妻方の実家に留まる「純粋な婿取り」ばかりではなかったのだ。
ここで重要なのは、当時の居住形態が非常に流動的であったという事実だ。清少納言は『枕草子』の中で、親の家や舅(しゅうと)の家、あるいは知人の受領の留守宅などに住むことを「仮住まい」として肯定的に記している。自分にふさわしい地位を得て、立派な邸宅を手に入れるまでは、あちこちを転々とするのが当時の貴族の日常であった。
婚姻もまた、その流動性の中にあった。初期の「通い」から、妻方での「同居」へ、そして経済力が備われば「新所(しんじょ)」での独立へ。このプロセスは、個人の出世や実家の経済状況によって左右される、極めて現実的な選択の連続だったのである。平安時代の家族とは、固定された「家」という箱の中に閉じ込められたものではなく、血縁と経済的便宜を軸に結びついた、ゆるやかなネットワークのようなものだったといえる。
また、一夫多妻制についても再考が必要だ。文学作品では華やかな多股恋愛が描かれるが、法制史や記録の面から見れば、当時の貴族社会は実質的に「一夫一妻制」に近い運用がなされていた。複数の女性と関係を持つことはあっても、公的に認められた「正妻」の座は一つであり、その地位は儀式の有無や、何よりも「どちらの家で生活の基盤を置いているか」によって決定された。男が通うのをやめれば、それは直ちに離婚を意味する。この簡潔すぎるほどの関係性は、家制度が未成熟であったがゆえの、個人の意思(あるいは経済的損得)が直結した形態だったのである。
地頭職を担った女性たちの分割相続
鎌倉時代に入ると、家族の風景は一変する。その最大の要因は、社会の主役が「位階」を重んじる貴族から、「土地」に命を懸ける武士へと交代したことにある。武家社会において、婚姻や家族の形態を規定したのは、ロマンチックな情愛でも洗練された儀式でもなく、一所懸命(いっしょけんめい)に守るべき所領の維持と防衛であった。
武士にとって、土地は一族の生存そのものである。そのため、平安貴族のような「婿が妻方に入る」形態は、武士の論理とは相容れなかった。自分の領地を離れて妻の実家へ移ることは、領地の管理を放棄することを意味するからだ。こうして、武士の間では早い段階から、妻を自分の本拠地へ呼び寄せる「嫁入り(嫁取婚)」が一般化していく。
しかし、ここで見落としてはならないのは、嫁入り婚への移行が即座に女性の権利剥奪を意味したわけではないという点だ。鎌倉時代初期から中期にかけて、武士の家では「分割相続」が基本であった。親の遺産は、嫡男だけでなく、庶子(次男以下)や女子にも分け与えられたのである。
当時の譲状には、娘に対して地頭職(じとうしき)や田畑を譲る文言が頻繁に登場する。女性が「御家人」として鎌倉殿(将軍)に直接仕え、軍役や公事(くじ)の負担を条件に、自らの名義で土地を支配することも珍しくなかった。例えば、北条政子が「尼将軍」として幕府を差配できた背景には、彼女個人のカリスマ性だけでなく、当時の女性が法的に財産権を持ち、一族の中で重きをなすことが可能な社会構造があった。
この時代の女性の地位を支えていたのは、彼女たちが持つ実質的な経済力である。結婚して夫の家に入っても、実家から譲り受けた所領の所有権は女性本人の手に残った。夫が勝手に妻の財産を処分することは法的に禁じられており、もし離婚すれば、妻は自分の所領を持って実家へ帰ることができた。平安時代の「通い婚」が消滅しても、自立した財産権という形を変えた強さが、鎌倉の女性たちには備わっていたのである。
だが、この均衡は鎌倉時代後期、元寇(蒙古襲来)という未曾有の危機を経て崩れ始める。度重なる軍役負担と、世代を重ねるごとの細分化によって、武士たちの所領は限界まで小さくなっていた。一族の没落を防ぐためには、もはや土地を切り分けて配る余裕はなくなっていたのだ。
幕府は、所領の流出を防ぐために「一期分(いちごぶん)」という制度を推奨し始める。これは、女性に財産を相続させる際、彼女が生きている間だけその権利を認め、死後は一族の嫡流(惣領)に返還させるという仕組みだ。かつては娘が産んだ子供(他氏の血を引く孫)にまで継承できた財産が、一代限りで実家へ回収されるようになった。この変化こそが、日本における「女性の地位低下」の決定的な転換点となったのである。
家族のあり方を決めたのは、道徳心や文化の変遷ではない。限られた土地という資源を、いかに確実に次世代へ繋ぐかという、切実な経営戦略の結果として、日本の家族は「嫁が家に入る」父系的な形へと収斂していった。鎌倉時代とは、その過渡期において、女性たちが地頭として馬を駆り、土地を差配した、最後の自立の時代でもあった。
明治民法が創り出した「家」の虚像
私たちが今日、日本の「伝統的な家族」として思い浮かべる明治以降の家制度は、実は平安や鎌倉の実態とは大きくかけ離れている。明治民法が制定される際、政府は武士の家父長制をモデルにしつつ、西洋のキリスト教的な道徳観や、国家統治のための戸籍制度を接ぎ木して「家」という概念を創り出した。そこでは、長男がすべてを継ぎ、女性は法的な能力を制限される存在として描かれたが、歴史を遡れば、それは日本古来の普遍的な姿ではないことがわかる。
例えば、鎌倉時代の「分割相続」と、後の「単独相続」を比較してみると、その落差は激しい。鎌倉初期、親は自分の子供たちの器量を冷静に見定め、女子も含めて細かく遺産を配分した。これは現代の民法に近い感覚ですらある。ところが、室町時代から戦国時代にかけて、戦乱が日常化し、軍事集団としての結束が最優先されるようになると、土地を分散させることは自殺行為となった。その結果、「最も能力のある一人にすべてを継がせる」単独相続が定着し、選ばれなかった兄弟姉妹は惣領(家督)に従属する「家子(いえのこ)」や「家人(けにん)」へと転落していった。
この「単独相続への移行」は、ヨーロッパの封建制における長子相続制とも共通する現象だ。しかし、日本では「家」という概念が、血縁以上に「その土地の支配権を維持する機能」として発達した点に特徴がある。江戸時代になると、この傾向はさらに極まり、武士のみならず農民や町人の間でも、家の存続こそが至上命令となった。
一方で、平安時代の「双系制(そうけいせい)」的な性格も、完全に消え去ったわけではない。双系制とは、父方・母方両方の血筋を等しく重んじる考え方だ。現代でも、私たちが父方の親戚も母方の親戚も同じように「親族」として扱う感覚は、この時代の名残りと言えるかもしれない。中国の律令制度を導入しながら、日本が徹底した父系社会(姓を重んじ、同姓不婚を貫く社会)になりきれなかったのは、平安時代までに培われた、母方の繋がりを重視する土着の感性が根強かったからだろう。
また、江戸時代の商家などで見られた「婿養子」の慣習も、平安時代の婿取り婚の変奏曲として捉え直すことができる。血の繋がりよりも、その商売や家名を継承することに重きを置く。優秀な若者を外部から招き、娘と結婚させて家を継がせるというシステムは、かつて藤原氏が有力な婿を迎えて権力を維持した構造の、経済版とも言える。
こうして比較してみると、平安から鎌倉にかけての変容は、単なる「進化」や「退化」ではなく、その時々の生存条件に適応するための「最適化」であったことが浮き彫りになる。平安貴族は政治的コネクションのために母方を活用し、鎌倉武士は軍事業的防衛のために父系へと舵を切った。私たちが「伝統」と呼んでいるものの多くは、こうした激動の時代に生き残るために選ばれた、便宜的な仕組みの集積に過ぎないのである。
長谷のやぐらと尼いくわんの譲状
現代の私たちが、当時の家族の姿を物理的に感じ取れる場所は、意外にも身近なところに点在している。鎌倉の街を歩けば、山を削って作られた「やぐら」と呼ばれる横穴式の墳墓が数多く見つかる。これらは当時の武士たちの墓所だが、そこから出土する骨や供養塔の調査からは、一族の女性たちが男性と同等、あるいはそれ以上の厚遇で葬られていた形跡が確認される。
特に鎌倉市長谷付近や、幕府の中枢であった雪ノ下周辺の遺跡からは、当時の武家屋敷の広大な跡が発掘されている。そこには、主人が住む正寝(せいしん)のほかに、独立した複数の建物が配置されていたことがわかっている。これは、嫁いできた妻や、隠居した親、あるいは分割相続によって独立した生活を送る庶子たちが、同じ敷地内にいながらも、それぞれにある程度の独立性を保って暮らしていた様子を物語っている。
また、各地の古い寺院に残る「寄進状(きしんじょう)」や「譲状」といった古文書は、当時の女性たちの肉声を今に伝えている。例えば、伯耆国(現在の鳥取県)の地頭であった「尼いくわん」という女性が残した譲状には、彼女が父から譲り受けた広大な領地を、自らの意志で養子に譲る様子が、力強い平仮名で記されている。彼女たちは、誰かの所有物としてではなく、一人の「経営者」として、自分の死後もその土地がどうあるべきかを真剣に考えていた。
こうした文書の多くは、現代の私たちが使う「苗字」の成り立ちとも深く関わっている。武士たちは、自分が支配する土地の地名を苗字とした。女性もまた、自分の所領の地名を冠して呼ばれることがあった。彼女たちにとって苗字とは、単なる家族のラベルではなく、自分が支配する「土」との契約の証だったのである。
現在、多くの地方自治体が公開しているデジタルアーカイブや、博物館の特別展では、こうした名もなき御家人たちの家族の記録が次々と掘り起こされている。教科書に載るような英雄たちの影で、自らの土地を必死に守り、次世代へと繋ごうとした女性たちの譲状が、これほどまでに多く残されているという事実は、私たちの歴史観を静かに、しかし根本から揺さぶる。
私たちが今日、当たり前のように名乗る苗字、当たり前のように行っている墓参り。そのルーツを辿れば、必ずと言っていいほど、鎌倉時代の「土地と一族」の激しいせめぎ合いに行き着く。その風景は、決して男たちだけで作られたものではなく、自らの名義で土地を握り、時には夫と対等に渡り合った女性たちの、生々しい意志によって形作られたものだったのである。
生存資源を次世代へ繋ぐ経営戦略
平安から鎌倉への変遷を辿って見えてくるのは、家族というものが、常にその時代の「最重要資源」を管理するための装置であったという事実だ。平安貴族にとっての資源は「天皇との血縁的距離」であり、それを最大化するために婿取り婚という母方重視のシステムが選ばれた。一方、鎌倉武士にとっての資源は「土地」であり、その散逸を防ぐために、嫁入り婚と父系的な惣領制へと社会を組み替えていった。
この視点に立つと、平安時代の「自由な恋愛」も、鎌倉時代の「厳格な家制度」も、それぞれが生存のための合理的な帰結であったことがわかる。平安の女性が謳歌したと言われる自由は、彼女たちが実家の庇護の下で「次世代の権力者」を産み育てるという、極めて政治的な機能を担っていたからこそ許容されたものだった。逆に、鎌倉後期の女性の地位低下は、個人の能力不足によるものではなく、土地という資源が物理的に枯渇したことによる、社会構造の「目詰まり」の結果だったのである。
私たちが「伝統的な家族の崩壊」を嘆いたり、逆に「古き良き絆」を懐かしんだりするとき、その前提となっている「家」という形は、実は日本の歴史全体で見れば、室町から江戸にかけて形成された、比較的新しい形態に過ぎない。平安や鎌倉初期の家族が持っていた、あの流動的で、財産権に裏打ちされた個の強さは、むしろ現代の個人主義的な家族観に近いものさえ感じさせる。
歴史を学ぶ醍醐味は、このように「今、ここにある当たり前」が、かつては全く別の形をしていたことを知る点にある。平安貴族の婿取り婚が外戚政治を生み、鎌倉武士の分割相続が独立独歩の武士道を作った。そして、それらが行き詰まった果てに、私たちは「嫁」や「家督」という、資源を一点に集中させるための窮余の策を、いつしか「日本の伝統」と思い込むようになった。
家族とは、静止した不変の理想像ではない。それは、土地や権力、あるいは現代における情報や資本といった、その時代を動かす資源をいかに繋いでいくかという、切実な問いに対する、その都度の回答なのである。鎌倉の「やぐら」に眠る女性地頭たちの存在は、土地の支配権をめぐる制度の変遷と、譲状に平仮名で綴られた生存への執念を今に伝えている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 結婚の形態の歴史|婚礼の知識|冠婚葬祭の知識|結婚式・ご葬儀・互助会のユウベルグループ(平安閣)公式サイト|広島・東広島・三次・庄原・福山・鳥取・米子・島根・松江・福岡・熊本・八代・鹿児島・霧島u-b.jp
- 結婚の歴史と婚姻数の推移 | stak.techstak.tech
- 【歴史】婚姻形態の転換と日本社会の構造―古代から中世への制度史的考察|折々の記note.com
- 「女は結婚したら実家を離れる」は日本古来の伝統ではない…男が家を継ぐようになった歴史的理由 かつては「新婚家庭の経済は妻方が担う」が常識だった (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)president.jp
- 日本結婚史town1.jp
- 結婚の歴史〜鎌倉時代編〜 - エースブライダルacebridal.net
- 「性・恋愛・結婚」を日本の社会構造から考える | 社会・ライフ - Meiji.net(メイジネット)明治大学meiji.net
- Kyoto University Research Information Repositoryrepository.kulib.kyoto-u.ac.jp