2026/6/5
上尾宿から工業・住宅都市へ、鉄道が変えた街の歴史

上尾の歴史について教えて欲しい。
キュリオす
埼玉県上尾市の歴史を、旧石器時代から現在まで辿る。中山道宿場町として栄えた時代から、鉄道開通による工業・住宅都市への変貌、そして現代に至るまでの都市構造の変化と人々の営みを、土地の特性や社会的な出来事と共に紹介する。
埼玉県の中東部に位置する上尾は、東京から約35キロメートル圏内にあり、その地理的な近さから、現代においては首都圏のベッドタウンとしての顔が強く認識されている。高崎線に乗って駅に降り立つと、再開発された駅前広場やペデストリアンデッキ、そして高層マンション群が目に飛び込む。この都市的な風景の奥に、上尾がどのような歴史を重ねてきたのか、その変遷の道筋をたどることは容易ではないかもしれない。しかし、この地には、旧石器時代から連綿と続く人々の営みの痕跡が、何層にもわたって刻まれている。
上尾の歴史は、約2万年前の旧石器時代にまで遡る。市内には250箇所以上の遺跡が確認されており、畔吉の殿山遺跡からは、関東地方では珍しい「国府型」と呼ばれるナイフ形石器が出土しているという。約1万2千年前に始まる縄文時代には、土器や石器が多数発掘され、貝塚の存在からは、当時の上尾周辺にまで海が入り込んでいたことが示唆されている。弥生時代には水稲栽培が伝わり、農耕を基盤とした集落が形成され、古墳時代には荒川流域などで方形周溝墓が造営された。特に江川山古墳からは2面の銅鏡が出土しており、大和政権との関係を裏付けるものとされている。
中世に入ると、武蔵国にも武士集団が台頭する。鎌倉時代には源頼朝の配下であった足立遠元がこの地を含む足立郡の支配権を認められ、その後は足利尊氏の所領となった。この時代には「菅谷村」といった現在の地名に通じる村名が文献に見え始め、人々の生活が定着していった様子がうかがえる。また、中世の信仰を示すものとして、約750基もの板碑が市内各地に現存している。これは秩父地方で産出される緑泥片岩を材料としており、古道や河川を利用して運び込まれたと考えられている。
近世、江戸時代に入ると、上尾の地は大きくその性格を変える。五街道の一つである中山道が整備され、上尾は日本橋から数えて5番目の宿場「上尾宿」として栄えることになる。慶長8年(1603年)に伝馬制が施行されて以降、上尾宿は中山道を行き交う旅人や物資の中継点としての役割を担った。宿場としては比較的小規模であったものの、日本橋から1日行程の約10里(約40キロメートル)地点に位置したため、多くの旅人が最初の宿泊地として上尾を選んだ。そのため、本陣1軒、脇本陣3軒に加え、41軒もの旅籠が軒を連ね、飯盛女も多く存在したという記録が残されている。
上尾宿の他にも、荒川舟運の要衝として栄えた「平方河岸」や、中世から市場町として賑わい、幕府公認の六斎市が開かれた「原市」といった集落が市域には存在した。特に原市は、元禄15年(1702年)には上尾市域で最高の村高を誇り、一時期は上尾宿よりも賑わっていたとも伝えられている。 また、江戸時代後期の上尾地域で特筆すべきは、紅花の栽培と取引である。市域の在郷商人が京都や江戸の大商人とも紅花の取引を行っていたことが資料に残されており、当時の上尾地域は山形と並ぶ紅花の特産地であったという。 しかし、安政7年(1860年)の大火をはじめ、幕末から明治初期にかけて相次いだ大火により、宿場の歴史的建造物の多くが焼失し、当時の面影を伝える遺構はほとんど残されていないのが現状である。
明治維新後、上尾の地は再び大きな転換期を迎える。明治政府による地方制度改革が進められ、複雑に入り組んでいた幕府領、旗本領、寺社領などの領有関係が整理されていった。宿町村の整理統合も進み、明治22年(1889年)には上尾町、平方村、大石村、大谷村、上平村が成立し、原市町と瓦葺村が組合村となるなど、現在の市域の基礎となる町村の枠組みが形成された。
そして、上尾の近代化を決定づけたのは、鉄道の開通である。明治16年(1883年)7月28日、日本初の私鉄である日本鉄道(現在のJR高崎線)が上野・熊谷間で開業し、同時に上尾停車場(現在の上尾駅)が設置された。上尾駅は浦和駅、鴻巣駅、熊谷駅と並び、埼玉県内で最も古い駅の一つである。 鉄道の開通は、中山道の宿場町としての役割を終えつつあった上尾に、新たな発展の機会をもたらした。当初、1日平均の乗車人数は70人程度(明治18年)と少なかったものの、その後の利用者は着実に増加していく。 一方で、鉄道の開通は荒川舟運の衰退を招き、平方河岸のような水運で栄えた地域は停滞を余儀なくされた。原市もまた、上尾駅の繁栄から取り残される形となったという。
明治末期には製糸工場が建てられ、昭和に入ると機械、金物、食品工場なども操業を開始し、上尾は工業都市としての基盤を築いていった。 特に戦後の高度経済成長期には、工場誘致条例などが推進され、大規模な工場が進出。これにより、第一次産業に従事する人口は減少し、第二次・第三次産業への移行が顕著になった。
昭和30年(1955年)1月1日には、上尾町、平方町、原市町、大石村、上平村、大谷村の3町3村が合併し、新たな上尾町が誕生する。そして3年後の昭和33年(1958年)7月15日、人口要件が緩和された地方自治法の改正も追い風となり、上尾町は市制を施行し、埼玉県内で19番目の市「上尾市」が誕生した。当時の人口は約3万7千人であった。 市制施行後、上尾市は都心へのアクセスの良さと国の高度経済成長政策が相まって、急速な人口増加を経験する。昭和40年代(1965年~1974年)には、住宅難に対応するため、原市団地、尾山台団地、西上尾第一団地、西上尾第二団地といった大規模な住宅団地が次々と建設され、上尾市は住宅都市としての性格を強めていった。 この結果、市制施行時の約3万7千人だった人口は、昭和45年(1970年)には10万人を突破し、平成4年(1992年)には20万人を超える都市へと成長を遂げた。
上尾の歴史を辿ると、主要な交通路がその発展を規定してきたことがわかる。中山道の宿場町から、高崎線という鉄道の恩恵を受けた工業・住宅都市への変貌は、多くの地域に見られる近代化の典型的なパターンと言えるだろう。しかし、その過程には、他の地域とは異なる上尾固有の事情や、時に摩擦を伴う側面も存在した。
例えば、中山道沿いの他の宿場町と比較すると、上尾宿は規模こそ小さかったものの、江戸からの1日目の宿泊地という立地が多くの旅籠を集め、独自の賑わいを見せた。しかし、鉄道の開通は、宿場町の機能を一気に奪い去り、多くの宿場町が衰退の道を辿った。上尾の場合、鉄道が新たな発展軸となったことで、宿場町としての役割は終えつつも、都市としての生命力を維持し、むしろ拡大させていくことになる。これは、鉄道駅が旧街道の中心部に設けられたこと、そしてその後の工場誘致や住宅開発が積極的に行われたことが背景にある。
一方で、上尾の農業は、全国的にも珍しい特徴を持っていた。大宮台地の大部分を占める上尾市域では、麦やサツマイモを中心とした畑作が盛んであったが、谷地の低湿地では、昭和40年代まで「摘田(つみだ)」と呼ばれる水田直まき農法が伝統的に継承されてきた。これは一般的な「植田(うえだ)」、つまり田植えを行う稲作とは異なり、種籾を直接田にまいて栽培するもので、用排水の管理が難しい深い田で行われたという。この「上尾の摘田・畑作用具」は、地域の農業の特色を示すものとして国の重要有形民俗文化財にも指定されており、先人たちの知恵と工夫を今に伝えている。 このような独自の農業形態は、上尾が単なる都市化の波に乗り切っただけでなく、その土地固有の環境と向き合い、生活を築いてきた側面を物語っている。
しかし、鉄道による都市化の波がすべての人に恩恵をもたらしたわけではない。昭和48年(1973年)には、国鉄の労働組合による遵法闘争が引き起こした高崎線の遅延に怒った通勤客が、上尾駅で暴動を起こす「上尾事件」が発生した。これは、急増する通勤人口に対して、鉄道インフラが十分に対応しきれていなかった当時の社会状況と、人々の生活が鉄道に深く依存していた実態を浮き彫りにした出来事である。 この事件は、都市化の影の部分、すなわち過密化やインフラの未整備がもたらす社会的なひずみを示す一例として、上尾の歴史に刻まれている。
現在の埼玉県上尾市は、約23万人の人口を抱え、埼玉県の主要都市の一つとして機能している。 その中心は、やはりJR上尾駅周辺である。駅は橋上駅舎となり、平成23年(2011年)には東西を結ぶ自由通路が大幅に拡張され、現在の姿になった。 東西の駅前広場にはペデストリアンデッキが整備され、大型商業施設や百貨店、商店街などが立ち並ぶ。 高崎線における上尾駅の1日平均乗車人数は、大宮駅に次いで2位であり、高崎線単独駅としては最多を誇る。 この数字は、上尾が今もなお、東京圏への通勤・通学を支える重要な拠点であることを示している。
市域の景観は、駅周辺の都市的な空間から一歩離れると、かつての畑地や水田の面影を残す住宅地や、近年整備された公園などが広がっている。しかし、産業構造は大きく変化し、かつて中心であった農業は農地面積の減少が進み、代わってサービス業が主要な地位を占めるようになった。 また、製造業は現在も一定の集積を保っているものの、大規模工場の撤退や産業構造の変化により、その従事者数は減少傾向にあるという。
人口は、市制施行以来の急増期を過ぎ、近年は高齢化の進行と生産年齢人口の減少という課題に直面している。 都市の魅力を高め、持続的な発展を遂げるため、上尾道路(国道17号バイパス)の整備が進められるなど、交通インフラの拡充や企業誘致、そして地域経済の活性化に向けた取り組みが続けられている。 過去の大火で多くの歴史的建造物が失われた上尾だが、氷川鍬神社や遍照院といった古くからの社寺、あるいは「上尾の摘田・畑作用具」のような有形民俗文化財は、この地の歴史を静かに伝える存在として残されている。
上尾の歴史を振り返ると、その都市の輪郭が、常に「道」と「土地」の条件によって形作られてきたことがわかる。江戸時代には中山道という陸の幹線が、荒川舟運という水路が、それぞれ上尾宿や平方河岸の賑わいを支えた。しかし、近代に入り鉄道という新たな動脈が敷設されると、それまでの交通軸は一変し、上尾駅を中心に新たな都市の骨格が形成された。
かつての中山道は、多くの宿場町にとって生命線であったが、鉄道の登場は、その宿命を大きく変えた。上尾の場合、鉄道が旧宿場町に近い位置に駅を設けたことが、その後の工業化、そして住宅都市化への道を拓く決定的な要因となった。これは、鉄道が既存の集落構造を再編し、新たな中心を生み出す典型的な例と言えるだろう。
同時に、大宮台地という土地が持つ特性も、上尾の歴史に深く関わっている。水田の少ない台地で畑作が中心であったこと、そして谷地の低湿地で独自の摘田が営まれたことは、この地の農業のあり方を規定した。近代以降の都市化は、この広大な畑地を住宅地へと変貌させ、その平坦な地形が大規模な団地開発を可能にした。
上尾の歴史は、決して一枚岩ではない。旧石器時代から続く人々の営み、中山道の往来、紅花の栽培、そして鉄道による急速な都市化と、それに伴う社会的な摩擦。これら複数の層が重なり合い、時に衝突しながら、今の都市の風景を形作っている。上尾の街を歩くとき、現代的な建築物の間から、かつての道筋や、土地の記憶がふと顔を出すような瞬間に立ち会うことができるかもしれない。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。