2026/6/5
桐生新町重要伝統的建造物群保存地区の謎解き

桐生の重要伝統的建造物群保存地区について詳しく知りたい。
キュリオす
桐生が1300年にわたる織物の歴史を持つ産地となった背景には、豊かな水資源、技術革新への積極性、そして産業クラスターの形成があった。特に、のこぎり屋根工場は、その合理性と職人たちの実直な姿勢を象徴している。
桐生の織物の歴史は古く、約1300年前の奈良時代にまで遡る。和銅7年(714年)には「黄あしぎぬ」と呼ばれる織物が朝廷に税として納められた記録が残されているという。 平安時代には、宮仕えの男性と結ばれた白瀧姫がこの地に養蚕と機織の技術を伝えたという伝説も語り継がれてきた。
その後、織物は武将たちの戦にも関わるようになる。元弘3年(1333年)には新田義貞が鎌倉倒幕の際に桐生で織られた絹で旗を立てたとされ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康の要請により、わずか一日で2410疋もの旗絹が織り出されたという逸話も残る。 この縁起の良い出来事から、桐生は江戸時代を通じて「御吉例之地」として幕府の保護を受け、織物産業の発展を後押しされた側面がある。
桐生新町の町立ては天正19年(1591年)、徳川家康の代官、大久保長安の手代である大野八右衛門の指揮のもと、桐生天満宮を起点として計画的に進められた。 江戸時代後期には手工業生産が分業化され、マニュファクチュア制度が確立されることで、織物産業はさらに活発化していく。 明治時代に入ると、桐生は西洋式の織機をいち早く導入し、近代化の波に乗る。1887年(明治20年)に設立された日本織物株式会社は、撚糸・製織・染色・整理を一貫して行う大規模な工場を建設し、水力発電を導入するなど、日本の近代織物業を牽引する存在となった。 このような歴史的経緯から、桐生は京都の西陣と並び称され、「西の西陣、東の桐生」と謳われる織物の一大産地として名を馳せることになる。
桐生が織物産地として発展した背景には、複数の要因が重なり合っていた。まず、地理的条件として、赤城山などの山々に囲まれ、渡良瀬川と桐生川という二つの清流に挟まれた盆地に位置する点が挙げられる。 この豊富な水資源は、染色や洗浄に不可欠であり、また山間部は養蚕に適した環境を提供し、絹織物の原料となる生糸の安定供給を可能にした。 耕作地の少ない痩せた土地であったため、農業以外の副業として養蚕や機織が定着したという側面もある。
次に、技術革新への積極的な姿勢が挙げられる。明治期にはジャカード織機や力織機といった当時の最先端技術を積極的に導入し、生産効率を向上させた。 この力織機工場に適したのが、今日桐生の象徴ともなっている「のこぎり屋根」建築である。のこぎり屋根は、イギリスの産業革命期に繊維工場で考案された屋根構造で、日本では明治10年代後半から導入が始まった。 その最大の特徴は、屋根の片側に設けられた大きな採光窓が北向きになっていることだ。これにより、直射日光を避けつつ、工場内に一日中安定した自然光を取り込むことができた。 織物の色合いを正確に判断する必要がある繊維産業において、この均一な光は製品の品質を保つ上で極めて重要であった。また、自然光の活用は人工照明への依存を減らし、エネルギーコストの削減にも繋がった。
さらに、桐生では織物産業に関連する企業や職人が集積し、原材料の調達から製品の加工・販売までの一貫した生産体制、いわゆる産業クラスターが形成された。 小規模な機屋が多く、それぞれが異なる品種の織物を作る分業体制が確立されていたため、共同企業的な大工場よりも、小規模なのこぎり屋根工場が数多く建てられる経済的理由があったとされる。 これらの複合的な要因が、桐生を独特の産業景観を持つ織物の町へと発展させたのである。
日本の織物産地を比較する際、「西の西陣、東の桐生」という表現がしばしば用いられる。京都の西陣は、都に職人が集まり、海外の技術が流入しやすい「都市型」の産地として発展した。 それに対し桐生は、大名が常駐せず、交通の要衝でもない地域で、農家の副業として織物が発達した「農村型」の産地と位置付けられる。 この違いは、桐生の産業が民間主導で自生的に発展した性格を色濃く反映している。
また、群馬県には世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」があるが、桐生市はその構成資産には含まれていない。富岡製糸場が官営模範工場として日本の近代化を象徴する一方で、桐生は民間の力で発展し、世界に製品を輸出した繊維産業都市として対比される。 桐生市内には、群馬県が認定する「ぐんま絹遺産」が県内最多の18カ所存在し、また「かかあ天下-ぐんまの絹物語-」として日本遺産にも認定されている文化財の約半数を占める。 これは、桐生が近代日本の絹産業において、富岡とは異なる、しかし極めて重要な役割を担っていたことを示している。
のこぎり屋根工場自体は、明治時代以降、全国の繊維・紡績工場で普及した建築様式である。 しかし、桐生の特徴は、戦災を免れたことで、200棟を超える木造の小規模なのこぎり屋根工場が今日まで数多く現存している点にある。 これは他の地域では見られない特異な集積であり、個々の機屋が独自の技術を磨き、多様な製品を生み出した桐生ならではの産業構造を物理的に示している。愛知県の一宮市なども同様ののこぎり屋根工場が見られる地域だが、桐生のそれは、その規模と密度において独自の景観を形成しているのだ。
桐生新町重要伝統的建造物群保存地区は、江戸後期から昭和初期にかけて建てられた商家や土蔵、そしてのこぎり屋根工場が一体となった歴史的な町並みを今に伝えている。 桐生市は1992年(平成4年)に「近代化遺産拠点都市」を宣言し、これらの貴重な建築物の保存と活用に積極的に取り組んできた。
現在、保存地区内では、空き家となった歴史的建造物が修理・修景事業を経て、新たな店舗や工房として生まれ変わる例が増えている。 かつて酒や味噌・醤油を醸造していた11棟の蔵群は「有鄰館」として、現在はイベントスペースや文化交流の拠点として活用されている。 また、かつて織物工場で働く女工たちの浴場であった「一の湯」は、公衆浴場として地域に愛され続けている。 旧日本織物株式会社の発電所跡や群馬大学工学部同窓記念会館(旧桐生高等染織学校本館)など、近代化を象徴する洋風建築も保存され、一部はドラマや映画のロケ地としても利用されている。
しかし、保存地区外に点在する歴史的建造物、特にのこぎり屋根工場の一部は、所有者の高齢化や修理費用の負担、伝統工法の技術者不足などから解体が進み、減少傾向にあるという課題も抱えている。 伝統的な和装需要の低迷や海外製品の流入といった産業構造の変化も、地域の織物産業に影響を与えている。 こうした状況に対し、桐生市は「桐生市工房推進協議会」を通じてのこぎり屋根工場の活用促進を図り、新たな役割を見出す動きを支援している。 また、電線の地中化など、景観整備も進められてきた。
桐生の重要伝統的建造物群保存地区を歩くと、その町並みが単なる過去の遺産ではないことが理解できる。そこには、約1300年にわたる織物の歴史が、商家の町屋、土蔵、そしてとりわけ無数ののこぎり屋根工場という形で、重層的に刻まれている。特に、のこぎり屋根の密集は、中央集権的な大規模工場ではなく、個々の機屋が工夫を凝らし、自立的に発展を遂げた桐生独自の産業史を物理的に示している。
この地域の景観は、豊かな水資源と養蚕に適した地理的条件を背景に、人々が新たな技術を積極的に取り入れ、厳しい農業条件の中で副業としての織物業を基幹産業へと育て上げた、その合理的な選択と粘り強さを物語る。のこぎり屋根の北向き窓がもたらす均一な光は、織物の品質を追求する職人たちの実直な姿勢を象徴しているかのようだ。
現代において、かつての工場がカフェやアトリエへと姿を変えるのは、機能は変われども、この土地に根差した「ものづくり」の精神が、形を変えて受け継がれている証左だろう。桐生の町並みは、産業の興隆と変遷、そしてそれに対応してきた人々の知恵と努力を、静かに、しかし確かに伝え続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。