2026年5月16日
豊後八藩七領:各藩の特徴と現代に繋がる地域性
豊後国が「八藩七領」と呼ばれる複雑な領地支配に至った背景を解説。関ヶ原の戦い後の徳川幕府による小藩分立政策と、豊後国の地形がその要因となった。岡藩、臼杵藩、佐伯藩など主要七藩の特徴と、日田天領や飛び地領などの多様な領地の存在、そして現代に繋がる地域文化について詳述する。
大友氏の衰退から小藩分立へ
豊後国が「八藩七領」と称されるような複雑な支配構造に至ったのは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての激動期に端を発する。中世を通じて豊後一国を支配したのは大友氏であったが、その勢力は戦国末期には衰えを見せていた。特に、キリシタン大名としても知られる大友宗麟の晩年には、薩摩の島津氏による侵攻(豊薩合戦)を受け、豊臣秀吉の九州征伐によってようやく滅亡の危機を脱したものの、秀吉の怒りに触れて大友義統が改易されるに至り、豊後における大友氏の支配は終焉を迎えることになる。
豊臣秀吉は九州平定後、強力な外様大名が多い九州において、自身の家臣や子飼いの大名を分散配置する政策を採った。これにより豊後国には、細川氏、毛利氏、太田氏など、複数の豊臣系大名や代官が入り、領地が細分化される兆しが見え始める。
決定的な転換点となったのは、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いである。この戦いの結果、西軍に与した大名は改易され、東軍に与した大名には所領が安堵されたり、加増移封されたりした。豊後国においてもこの動きは顕著であり、多くの領主が入れ替わった。関ヶ原の戦い後、徳川家康は九州の要衝である豊後国に譜代大名や外様大名を配置し、その領地を細かく区切ることで、特定の大藩が強大な力を持つことを防ごうとした。これは、幕府が全国的に採用した小藩分立政策の一環であり、特に九州のような外様大名が多い地域では、幕府の統制を強化するために有効な手段であったと考えられる。
結果として、豊後国には大小様々な藩が林立し、さらに幕府直轄領である「天領」や、他国の藩が飛び地として所有する「飛び地領」が入り組むことになった。これらの領地は、山がちで複雑な地形を持つ豊後国の地理的条件とも相まって、互いに隣接しながらも異なる支配体制と経済基盤を持つこととなり、後の「八藩七領」と呼ばれる状況を形成していったのである。この時代、全国に約270の藩が存在したが、豊後国のように狭い地域に多数の藩や領地が集中する状況は、全国的に見ても珍しいものではなかったものの、その複雑さは特筆すべきものであった。
豊後を彩る七つの藩とその性格
豊後国に存在した「八藩七領」の「八藩」は、時代によって変動があったものの、主に以下の七つの藩が主要な勢力として長く存続した。これらに加え、日田天領や他藩の飛び地などが複雑に絡み合ったのが豊後の実態である。ここでは、主要な七藩それぞれの特徴を見ていく。
岡藩(おかはん)
現在の竹田市一帯を領した岡藩は、豊後国内では最大の7万石の外様藩であった。 1594年(文禄3年)、中川秀成が入封して立藩し、以降、中川家が明治維新まで一度も移封されることなく支配を続けた珍しい藩である。 岡城(臥牛城)は堅固な山城として知られ、藩内には直入郡、大野郡、大分郡にまたがる広大な領地を持っていた。 歴代藩主は教育熱心な者が多く、藩校「由学館」や武道修練所「経武館」、医師養成所「博済館」を設けた。 また、江戸時代後期には文人画家の田能村竹田を輩出するなど、文化的な人材に恵まれた。 キリシタン文化が3代目藩主まで色濃く残っていた側面も持つ。 しかし、度々火災や飢饉、干ばつといった天災に見舞われ、藩財政は常に逼迫していた。
臼杵藩(うすきはん)
現在の臼杵市を拠点とした臼杵藩は、5万石の外様藩で、稲葉家が関ヶ原の戦い後に入封して以来、明治維新まで支配を続けた。 臼杵城は海に面した平山城(海城)として知られ、その堅牢さから「難攻不落」と評された。 藩祖・稲葉貞通は関ヶ原で東軍に寝返って武功を挙げたことで加増移封された経緯を持つ。 臼杵藩も財政難に苦しむことが多く、天保年間には家老の村瀬通吉による徹底した緊縮財政と新田開発、さらには「御手段」と称する借財の踏み倒しや返済猶予交渉といった強硬な改革が断行された。 幕末には佐幕派の立場を貫き、豊後諸藩の中では最も遅い上洛であったが、版籍奉還は比較的早く行ったという記録が残る。
佐伯藩(さいきはん)
現在の佐伯市一帯を領した佐伯藩は、2万石の外様藩であった。 1601年(慶長6年)に毛利高政が日田から転封して立藩し、毛利家が幕末まで支配した。 藩庁は佐伯城(鶴屋城)に置かれ、城下町が整備された。 山間部から海岸部まで多様な自然環境を抱え、水産業収入を軸とした経済力を持ち、比較的安定した治世が続いた。 近世を通じて藩主家の交代がなく、藩政史料や毛利家資料が豊富に残されている。 幕末には財政難の中で軍備の近代化を進め、火薬や大砲の製造、佐伯湾内の砲台築造を行った。 最後の藩主・毛利高謙は早くから尊皇派の立場を示し、新政府軍に恭順した。
杵築藩(きつきはん)
現在の杵築市を拠点とした杵築藩は、3万2千石(初期は4万石)の譜代藩であった。 1632年(寛永9年)に小笠原忠知が入封し立藩、その後1645年(正保2年)に松平英親が移封されて以来、能見松平家が明治維新まで支配した。 平地が少ない領地であったため、新田開発や工芸作物、特に藺草の栽培を奨励することで藩財政を支えた。 1712年(正徳2年)には、幕府から与えられた朱印状の誤記により「木付」から「杵築」へと表記が変わったという逸話が残る。 享保の大飢饉以降、財政は悪化し、8代藩主・松平親賢は学者・三浦梅園を登用して財政再建に取り組んだ。 幕末には藩主親良が幕閣に加わり佐幕派と目されたが、子の親貴は新政府派であり、戊辰戦争では会津に出兵するなど、親子で藩論が割れるという複雑な状況も見られた。
府内藩(ふないはん)
現在の大分市中心部を領した府内藩は、2万~2万2千2百石の藩であった。 藩主は竹中家、日根野家と変遷し、1658年(明暦4年)に大給松平家が入封して以降、明治維新まで支配した譜代藩である。 豊後国の中心地であり、府内城を藩庁とした。 初代藩主の竹中重利は城下町や港の整備を行い、現在の大分市発展の基礎を築いた。 しかし、2代藩主の竹中重義は密貿易の嫌疑で改易・切腹となり、竹中家は断絶する。 その後に入った日根野吉明の時代には、干ばつや水害、寛永の大飢饉に見舞われたが、吉明は井路(水路)を開発して多くの人命を救ったという。 天災に多く見舞われた藩としても知られる。
日出藩(ひじはん)
現在の速見郡日出町一帯を領した日出藩は、2万5千石(当初3万石)の外様藩であった。 藩祖は豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の兄である木下家定の三男、木下延俊で、関ヶ原の戦いの功績により1600年(慶長5年)に入封。 木下家は江戸時代を通じて一度も移封や減封されることなく、16代にわたって支配を続けた。 豊臣家と血縁を持つ藩としては、全国でも数少ない存在であった。 2代藩主・木下俊治の時代に弟への分与により5千石を分領し、石高は2万5千石となった。 この分領には、木下延由が豊臣秀頼の子・国松ではないかという興味深い生存説も絡む。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。