豊後八藩七領:各藩の特徴と現代に繋がる地域性

大友氏の衰退から小藩分立へ
豊後国が「八藩七領」と称されるような複雑な支配構造に至ったのは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての激動期に端を発する。中世を通じて豊後一国を支配したのは大友氏であったが、その勢力は戦国末期には衰えを見せていた。特に、キリシタン大名としても知られる大友宗麟の晩年には、薩摩の島津氏による侵攻(豊薩合戦)を受け、豊臣秀吉の九州征伐によってようやく滅亡の危機を脱したものの、秀吉の怒りに触れて大友義統が改易されるに至り、豊後における大友氏の支配は終焉を迎えることになる。
豊臣秀吉は九州平定後、強力な外様大名が多い九州において、自身の家臣や子飼いの大名を分散配置する政策を採った。これにより豊後国には、細川氏、毛利氏、太田氏など、複数の豊臣系大名や代官が入り、領地が細分化される兆しが見え始める。
決定的な転換点となったのは、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いである。この戦いの結果、西軍に与した大名は改易され、東軍に与した大名には所領が安堵されたり、加増移封されたりした。豊後国においてもこの動きは顕著であり、多くの領主が入れ替わった。関ヶ原の戦い後、徳川家康は九州の要衝である豊後国に譜代大名や外様大名を配置し、その領地を細かく区切ることで、特定の大藩が強大な力を持つことを防ごうとした。これは、幕府が全国的に採用した小藩分立政策の一環であり、特に九州のような外様大名が多い地域では、幕府の統制を強化するために有効な手段であったと考えられる。
結果として、豊後国には大小様々な藩が林立し、さらに幕府直轄領である「天領」や、他国の藩が飛び地として所有する「飛び地領」が入り組むことになった。これらの領地は、山がちで複雑な地形を持つ豊後国の地理的条件とも相まって、互いに隣接しながらも異なる支配体制と経済基盤を持つこととなり、後の「八藩七領」と呼ばれる状況を形成していったのである。この時代、全国に約270の藩が存在したが、豊後国のように狭い地域に多数の藩や領地が集中する状況は、全国的に見ても珍しいものではなかったものの、その複雑さは特筆すべきものであった。
豊後を彩る七つの藩とその性格
豊後国に存在した「八藩七領」の「八藩」は、時代によって変動があったものの、主に以下の七つの藩が主要な勢力として長く存続した。これらに加え、日田天領や他藩の飛び地などが複雑に絡み合ったのが豊後の実態である。ここでは、主要な七藩それぞれの特徴を見ていく。
岡藩(おかはん)
現在の竹田市一帯を領した岡藩は、豊後国内では最大の7万石の外様藩であった。 1594年(文禄3年)、中川秀成が入封して立藩し、以降、中川家が明治維新まで一度も移封されることなく支配を続けた珍しい藩である。 岡城(臥牛城)は堅固な山城として知られ、藩内には直入郡、大野郡、大分郡にまたがる広大な領地を持っていた。 歴代藩主は教育熱心な者が多く、藩校「由学館」や武道修練所「経武館」、医師養成所「博済館」を設けた。 また、江戸時代後期には文人画家の田能村竹田を輩出するなど、文化的な人材に恵まれた。 キリシタン文化が3代目藩主まで色濃く残っていた側面も持つ。 しかし、度々火災や飢饉、干ばつといった天災に見舞われ、藩財政は常に逼迫していた。
臼杵藩(うすきはん)
現在の臼杵市を拠点とした臼杵藩は、5万石の外様藩で、稲葉家が関ヶ原の戦い後に入封して以来、明治維新まで支配を続けた。 臼杵城は海に面した平山城(海城)として知られ、その堅牢さから「難攻不落」と評された。 藩祖・稲葉貞通は関ヶ原で東軍に寝返って武功を挙げたことで加増移封された経緯を持つ。 臼杵藩も財政難に苦しむことが多く、天保年間には家老の村瀬通吉による徹底した緊縮財政と新田開発、さらには「御手段」と称する借財の踏み倒しや返済猶予交渉といった強硬な改革が断行された。 幕末には佐幕派の立場を貫き、豊後諸藩の中では最も遅い上洛であったが、版籍奉還は比較的早く行ったという記録が残る。
佐伯藩(さいきはん)
現在の佐伯市一帯を領した佐伯藩は、2万石の外様藩であった。 1601年(慶長6年)に毛利高政が日田から転封して立藩し、毛利家が幕末まで支配した。 藩庁は佐伯城(鶴屋城)に置かれ、城下町が整備された。 山間部から海岸部まで多様な自然環境を抱え、水産業収入を軸とした経済力を持ち、比較的安定した治世が続いた。 近世を通じて藩主家の交代がなく、藩政史料や毛利家資料が豊富に残されている。 幕末には財政難の中で軍備の近代化を進め、火薬や大砲の製造、佐伯湾内の砲台築造を行った。 最後の藩主・毛利高謙は早くから尊皇派の立場を示し、新政府軍に恭順した。
杵築藩(きつきはん)
現在の杵築市を拠点とした杵築藩は、3万2千石(初期は4万石)の譜代藩であった。 1632年(寛永9年)に小笠原忠知が入封し立藩、その後1645年(正保2年)に松平英親が移封されて以来、能見松平家が明治維新まで支配した。 平地が少ない領地であったため、新田開発や工芸作物、特に藺草の栽培を奨励することで藩財政を支えた。 1712年(正徳2年)には、幕府から与えられた朱印状の誤記により「木付」から「杵築」へと表記が変わったという逸話が残る。 享保の大飢饉以降、財政は悪化し、8代藩主・松平親賢は学者・三浦梅園を登用して財政再建に取り組んだ。 幕末には藩主親良が幕閣に加わり佐幕派と目されたが、子の親貴は新政府派であり、戊辰戦争では会津に出兵するなど、親子で藩論が割れるという複雑な状況も見られた。
府内藩(ふないはん)
現在の大分市中心部を領した府内藩は、2万~2万2千2百石の藩であった。 藩主は竹中家、日根野家と変遷し、1658年(明暦4年)に大給松平家が入封して以降、明治維新まで支配した譜代藩である。 豊後国の中心地であり、府内城を藩庁とした。 初代藩主の竹中重利は城下町や港の整備を行い、現在の大分市発展の基礎を築いた。 しかし、2代藩主の竹中重義は密貿易の嫌疑で改易・切腹となり、竹中家は断絶する。 その後に入った日根野吉明の時代には、干ばつや水害、寛永の大飢饉に見舞われたが、吉明は井路(水路)を開発して多くの人命を救ったという。 天災に多く見舞われた藩としても知られる。
日出藩(ひじはん)
現在の速見郡日出町一帯を領した日出藩は、2万5千石(当初3万石)の外様藩であった。 藩祖は豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の兄である木下家定の三男、木下延俊で、関ヶ原の戦いの功績により1600年(慶長5年)に入封。 木下家は江戸時代を通じて一度も移封や減封されることなく、16代にわたって支配を続けた。 豊臣家と血縁を持つ藩としては、全国でも数少ない存在であった。 2代藩主・木下俊治の時代に弟への分与により5千石を分領し、石高は2万5千石となった。 この分領には、木下延由が豊臣秀頼の子・国松ではないかという興味深い生存説も絡む。
森藩(もりはん)
現在の玖珠郡玖珠町に陣屋を構えた森藩は、1万4千石(後に1万2千5百石)の外様藩であった。 瀬戸内海で活躍した来島水軍の後裔である来島長親(康親、後に久留島と改姓)が1601年(慶長6年)に入封し、久留島家が明治維新まで支配した。 藩領は玖珠郡の他、日田郡、速見郡にまたがっていた。 藩の重要な財源の一つとして、飛び地である速見郡鶴見村(現在の別府市)の明礬温泉で生産される「明礬(ミョウバン)」があった。 この伝統的な明礬製造技術は、後に国の重要無形民俗文化財に指定されている。 幕末には藩論が勤王倒幕で統一され、日田の西国筋郡代代官所警備を任されるなど、新政府に与する姿勢を明確にした。
藩と領が織りなす豊後の土地利用
「八藩七領」という表現のうち、「七領」は特定の七つの行政単位を指すわけではない。これは、豊後国が七つの藩以外の、様々な形態の領地に細分化されていた状況を総称する言葉である。具体的には、幕府直轄領(天領)、他藩の飛び地、そして社寺領や旗本領などが含まれる。これらの領地が藩領と複雑に入り組み、豊後国の統治をより多層的なものにしていた。
日田天領(ひたてんりょう)
豊後国における代表的な天領が、日田郡に置かれた「日田天領」である。幕府は九州の政治・経済の要衝である日田に西国筋郡代(後に日田代官)を置き、西国筋の天領支配と同時に九州諸藩の監視を行った。日田は九州の交通の要衝でもあり、物資の集散地として栄え、豊かな商人が多く育った。幕府は、日田の豊かな財力と地理的優位性を利用し、九州における影響力を維持しようとしたのである。
島原藩の飛び地領
肥前国島原藩(現在の長崎県島原市)は、豊後国に広大な飛び地領を持っていた。 寛文9年(1669年)に島原藩主・松平忠房が豊前・豊後の3万石を兼領することになり、豊後国国東郡や豊前国宇佐郡にまたがる地域が島原藩の領地となった。 この飛び地は「豊州御領」と呼ばれ、その石高は島原藩全体の約40%を占めるほどであった。 飛び地支配のための役所として「高田御役所」が現在の豊後高田市芝崎村に置かれ、本藩から交代で役人が派遣された。 飛び地領では独自の法令が施行され、本藩の藩札の流通が禁止されるなど、隣接する中津藩や杵築藩の藩札が使用されるなど、経済的な独自性も持ち合わせていた。 高田や長洲には米蔵や会所が置かれ、瀬戸内海を通じて京阪との交易拠点として栄えた。
肥後藩の飛び地領
肥後国熊本藩(現在の熊本県)も、豊後国に飛び地領を有していた。 関ヶ原の戦いの功績により加藤清正が肥後藩主となった際、天草の代わりに豊後の鶴崎や佐賀関を所領として求めたことが始まりである。 具体的には直入郡(久住・白丹)、大分郡(鶴崎・野津原・三佐)、海部郡(佐賀関・大在)の3地域にまたがっていた。 清正が天草を辞退し豊後の飛び地を求めたのは、天草が島嶼部で管理や防衛が難しい一方で、鶴崎や佐賀関は瀬戸内海・豊後水道に面した海上交通の要衝であり、経済的な発展が見込めたためとされる。 清正はこれらの地域で治水事業、農地開発、港湾整備などを行い、地域の基盤を築いた。 熊本藩主の参勤交代は、陸路の豊後街道で九州を横断し、鶴崎の港から瀬戸内海路を使って大阪へ向かうルートが最短であったため、これらの飛び地は戦略的に重要であった。
その他の領地
上記の主要な天領や飛び地の他にも、豊後国には幕府の旗本領、宇佐神宮などの社寺領、そして他の小藩が一時的に預かった「預所」などが点在していた。これらの多様な領地が複雑に入り組み、豊後国の支配地図はまるでモザイクのようであった。
九州の他国と異なる豊後の小藩分立
江戸時代の日本において、藩が細かく分立する現象は豊後国に限ったことではない。しかし、九州という広域で見ると、豊後国の小藩分立はいくつかの点で特徴的であった。例えば、隣接する肥後国(熊本県)には熊本藩という54万石の大藩が存在し、その周りに宇土藩、人吉藩などの支藩や小藩が配置されていた。 筑前国(福岡県)には黒田藩(福岡藩)、肥前国(佐賀県・長崎県)には鍋島藩(佐賀藩)といった大藩が存在し、それぞれが広大な領地を支配していた。
これに対し、豊後国には岡藩の7万石が最大であり、他の藩は2万から5万石程度の小藩がほとんどであった。 このような状況は、徳川幕府の九州統治戦略が色濃く反映された結果と言える。幕府は、西国に位置し、外様大名が多い九州において、特定の大藩が強大な力を持つことを警戒した。そのため、豊後国を細かく分断し、複数の小藩や天領、他藩の飛び地を配置することで、権力の集中を防ぎ、幕府の統制を強化しようとしたのである。
また、豊後国の複雑な地形も、小藩分立の一因となった。豊後国は、瀬戸内海に面した平野部、豊後水道に沿ったリアス式海岸、そして内陸部に広がる山間部や火山地帯など、多様な地形を持つ。河川によって隔てられた地域ごとに、独自の経済圏や文化圏が形成されやすく、これが細分化された領地支配と結びついたと考えられる。例えば、杵築藩が平地の少なさから藺草栽培に力を入れたり、佐伯藩が水産業を経済の軸としたりしたように、各藩はそれぞれの地理的条件に適した産業を発展させていった。このような地域ごとの特化は、小藩分立という構造の中で、それぞれの藩が生き残るための戦略でもあったと言える。
八藩七領の残像が語る現代の地域性
江戸時代の「八藩七領」という複雑な領地支配の構造は、現代の大分県にもその痕跡を残している。藩境や領境は明治維新後の廃藩置県によって一元化されたが、長きにわたる分断は、人々の意識や地域文化に深く根を下ろした。
例えば、大分県民の気質として「豊後の赤猫根性」という言葉が語られることがある。これは個人主義で協調性に乏しく、他者の幸福を妬むといった、あまり肯定的ではない意味合いで使われることが多いが、この気質の背景には、小藩分立によって村落ごとに異なる支配を受け、互いに半目し合いながら生活してきた歴史があると言われる。 現代では地域間連携が重視される中で、この「赤猫根性」が時として地域間の競争意識や独立心の強さとして現れることもある。しかし、平松守彦元知事が提唱した「一村一品運動」のように、この地域性を逆手にとり、それぞれの地域が独自の強みを発揮する動きも生まれた。
また、現代の観光や地域振興においても、「八藩七領」の記憶は活用されている。各旧藩の城跡や陣屋跡は地域のシンボルとなり、歴史的建造物や資料館を通じて、それぞれの藩の歴史や文化が伝えられている。岡城跡(竹田市)、臼杵城跡(臼杵市)、佐伯城跡(佐伯市)、杵築城(杵築市)、府内城(大分市)、日出城(日出町)、森陣屋(玖珠町)などは、その代表例である。これらの城下町は、それぞれが独自の発展を遂げたため、街並みや食文化、祭礼などにもかつての藩ごとの違いが見て取れる。例えば、臼杵の武家屋敷群や、杵築のサンドイッチ型城下町などは、当時の都市計画や生活様式を今に伝える貴重な遺産だ。
さらに、日田天領の豊かな商業文化、島原藩の飛び地領であった豊後高田の港町としての歴史、肥後藩の飛び地であった鶴崎や佐賀関が海上交通の要衝として栄えた経緯なども、それぞれの地域が持つ「物語」として、現代の地域ブランディングに繋がっている。これらの歴史的背景は、地域の人々が自身のアイデンティティを形成する上で、今なお重要な要素であり続けている。
境界線が育んだ多様な豊かさ
豊後国の「八藩七領」という複雑な支配構造は、単なる行政上の分断に留まらなかった。それは、それぞれの藩や領地が、限られた資源の中で独自の道を模索し、多様な文化と経済活動を育む土壌となったことを示している。
現代の視点から見れば、かつての藩境や領境は、地域間の交流や発展を阻害する「壁」であったと捉えられがちである。しかし、この分断があったからこそ、岡藩の教育熱心な気風や文化、臼杵藩の財政改革への執念、佐伯藩の海を活かした経済力、杵築藩の藺草栽培に代表される土地利用の工夫、府内藩の度重なる困難を乗り越える知恵、日出藩の豊臣家との繋がり、そして森藩の明礬生産といった、それぞれ異なる個性や強みが育まれたとも言える。日田天領や他藩の飛び地も、幕府や他藩の統治下で独自の発展を遂げ、豊後国全体の多様性を増幅させた。
こうした歴史は、現代の地域づくりにおいても示唆に富む。画一的な発展を目指すのではなく、それぞれの地域が持つ固有の歴史、地理、文化を深く掘り下げ、その「余白」に隠された可能性を見出すこと。そして、かつては分断の象徴であった境界線が、実は多様な豊かさを育む源であったという視点を持つことで、大分県という土地の奥深さをより一層理解することができるだろう。かつての「八藩七領」は、現代に生きる私たちに、地域が持つ多様な価値を再認識する機会を与えている。
旅と食が好き。どこにでもいます。