2026/6/8
七尾城下町から北前船へ、湾が紡いだ能登の中心

七尾の歴史について詳しくりしたい。
キュリオす
奈良時代に能登国府が置かれた七尾は、畠山氏の山城と城下町、そして北前船の寄港地として発展。天然の良港・七尾湾を基盤に、政治・軍事・文化・経済の中心として能登の中心であり続けた歴史を辿る。
七尾の歴史は、遠く奈良時代にまで遡る。718年(養老2年)に能登国が立国された際、現在の七尾に国府と国分寺が置かれ、能登の政治・文化の中心地となった。これは、古墳時代にこの地を治めた有力豪族である能登臣(のとのおみ)氏の存在と、天然の良港である七尾湾の地理的条件が大きく影響したと考えられている。748年(天平20年)には、越中国司として能登を巡行した大伴家持が、この香島津の情景を詠んだ歌を万葉集に残しているほどだ。
中世に入ると、七尾は軍事的な要衝としての性格を強める。室町時代、能登国の守護となった畠山氏が、15世紀前半(1408年以降、諸説あり)に松尾山に七尾城を築いた。城郭が七つの尾根にまたがっていたことから「七尾」の名が生まれたと伝えられ、その規模は南北約2.5km、東西約1.0kmに及ぶ、日本屈指の山城であった。本丸からは七尾湾を一望でき、その堅固さから上杉謙信をして「難攻不落」と言わしめたほどだ。
畠山氏の支配が安定した3代畠山義統(よしむね)や7代畠山義総(よしふさ)の頃には、七尾城下は京から戦火を逃れてきた公家や文化人を受け入れ、「能登畠山文化」と呼ばれる独自の文化が開花した。この時期の七尾は「小京都」と称されるほどに賑わったという。しかし、16世紀に入ると、一向一揆との対立や家臣団の内紛が続き、畠山氏の支配力は次第に弱体化する。1566年(永禄9年)には、有力家臣である遊佐続光(ゆさつぐみつ)ら「畠山七人衆」によるクーデターが勃発し、主君は城を追われる事態となった。
そして1576年(天正4年)、越後の上杉謙信が能登に侵攻。七尾城は堅固な守りを見せたものの、翌年の再侵攻では城内で疫病が発生し、さらに親上杉派の重臣の裏切りによってついに落城した。約170年にわたる能登畠山氏の支配はここに終止符を打たれたのである。その後、上杉謙信の死後、織田信長の家臣である前田利家が能登国を拝領し、七尾城に入城。利家は大規模な改修を行ったが、政務や経済活動の利便性を考慮し、1582年(天正10年)には山麓に新しい小丸山城を築いて本拠を移転した。これにより、七尾城は廃城となり、能登の戦国時代は終焉を迎えた。
七尾の歴史が多様な形で展開された背景には、その地理的条件が深く関わっている。まず、能登半島の中央に位置し、能登島が外海からの波を遮る七尾湾は、古くから天然の良港として機能してきた。湾内は深く、風の影響を受けにくいという特徴は、大型船の停泊に適しており、古代から海上交通の拠点「香島津」として重視された。
この恵まれた港は、七尾に三つの異なる都市機能を生み出した。一つは、港湾機能を持つ「所口湊町(ところぐちみなとまち)」である。ここは古くから物資の集散地として栄え、漁業や交易の拠点となった。二つ目は、能登国の国府が置かれたことで発展した「能登府中の町」である。古くからの経済都市としての役割を担い、行政の中心地として機能した。そして三つ目は、畠山氏が築いた七尾城の麓に形成された「七尾城下町」である。守護大名の居城として、政治と文化の中心地となった。これらの三つの町はそれぞれ独立して存在したのではなく、互いに補完し合う関係にあり、一体となって「中世七尾都市圏」を形成していたと考えられている。
江戸時代に入ると、七尾港の役割はさらに拡大する。日本海を往来する北前船の主要な寄港地となり、大阪や北海道との間で米や酒、建具、藁製品などを積み出し、帰りには鰊(にしん)や〆粕(しめかす)、木材などを運ぶ交易で隆盛を極めた。御祓川沿いには多くの回船問屋が軒を連ね、現在の「一本杉通り」には昆布を扱う店や和ろうそくの製造元などが発展した。これらの産業は、北前船がもたらす北日本の産物や原料に支えられていたのである。
幕末には、加賀藩が七尾湾の戦略的重要性に着目し、1862年(文久2年)に七尾軍艦所を設けた。ここでは造船や製鉄が行われ、西洋式の軍事学問所「壮猶館(そうゆうかん)」の分校として七尾語学所も置かれるなど、近代化に向けた動きが始まった。また、英国公使ハリー・パークスが七尾港の開港を求めたこともあったが、加賀藩の抵抗により、この時は実現しなかった。しかし、明治時代に入り、七尾の人々の尽力により、1899年(明治32年)に七尾港は勅令によって開港場に指定される。当初は2年ごとの輸出入総額が5万円に達しなければ閉鎖されるという条件付きであったが、七尾貿易同盟会がウラジオストクへの定期航路誘致に奔走するなど、国際貿易港としての地位確立に努めた。
七尾が港湾都市として発展してきた歴史は、他の地域の港町と比較することで、その独自性がより鮮明になる。例えば、横浜や神戸といった近代に開港した港は、国際貿易の進展とともに飛躍的な発展を遂げ、グローバルな都市へと変貌した。七尾港も幕末には開港候補地としてイギリスから注目され、その潜在力は高かったものの、加賀藩の拒否や明治以降の伏木港、敦賀港といった近隣の開港場との競争、さらには蒸気船への移行による北前船の衰退といった要因が重なり、横浜や神戸とは異なる道を歩んだ。七尾は国際貿易の最前線というよりも、能登という地域の物流を支える中核港としての性格を強めていくことになる。
一方で、北前船の寄港地として栄えた他の日本海側の港、例えば新潟や酒田などと比較すると、七尾はより深い歴史の層を持つ点が特徴的である。七尾が古代から能登国の国府が置かれた政治・文化の中心地であり、さらに中世には守護大名の居城が築かれた城下町であったという事実は、単なる商業港としての発展に留まらない、重層的な都市構造を形成した。前述の「中世七尾都市圏」という、港町、古くからの経済都市、城下町という三つの機能が相互に連携し、補完し合って一つの都市圏を築いた構造は、他の北前船寄港地には見られない七尾独自の発展形態である。
また、山城としての七尾城が廃され、前田利家によって小丸山城が築かれた後も、七尾が能登の経済・文化の中心であり続けたことは、加賀藩という巨大な藩の支配下にあっても、独自の存在感を保ち続けたことを示唆している。金沢が加賀藩の政治的・文化的中心として発展したのに対し、七尾は能登の玄関口として、海上交通と地域経済の要という、異なる役割を担い続けたのだ。能登島が自然の防波堤となる七尾湾の存在は、時代や為政者が変わっても変わらない、この地の根本的な強みであり続けたと言えるだろう。
現代の七尾は、歴史が育んだ多様な要素が共存する都市である。七尾港は現在も港湾法上の重要港湾に指定されており、木材や石油ガスなどの輸送拠点として能登地方の産業を支えている。湾内では牡蠣(かき)の養殖が盛んに行われ、水産加工業も主要な産業の一つだ。特に「カニ風味かまぼこ」は七尾が発祥の地と言われている。
観光面では、全国的にも知られる和倉温泉が年間100万人もの観光客を集め、能登観光の拠点となっている。和倉温泉の歴史は古く、加賀藩2代藩主前田利長が病の治療のために湯を取り寄せたことが知られ、3代利常の時代には温泉地として整備されたという。
また、かつて難攻不落を誇った七尾城跡は、現在では国指定史跡として整備され、七尾湾を一望できるハイキングコースとなっている。山城の遺構が良好に残されており、訪れる人々は戦国時代の面影を辿ることができる。城下町の面影を残す一本杉通りには、北前船交易によって栄えた歴史を伝える醤油醸造所や和ろうそく店、昆布店などが今も営業を続けている。ここでは、かつての商家の建物が活用され、伝統的なものづくり体験も提供されている。
能登の祭り文化もまた、七尾の歴史を色濃く残している。青柏祭(せいはくさい)の「でか山」や、熊甲二十日祭(くまかぶとはつかまつり)の枠旗行事などは、古くから受け継がれてきた祭礼であり、能登の豊かな文化を現代に伝えている。2004年(平成16年)には周辺町村との合併により新たな七尾市が誕生し、能登島も市域に含まれた。近年では、2023年(令和5年)にウラジオストクとの間で旅客船航路が再開されるなど、国際交流の歴史も継承されている。
七尾の歴史を辿ると、この地が常に「能登の中心」であり続けた理由が、単一の要因ではなく、複数の要素が複雑に絡み合った結果であることがわかる。天然の良港である七尾湾の存在は、古くから人々を引きつけ、能登国の国府が置かれる政治的な中心地となる基盤を築いた。さらに、守護大名の居城が築かれ、軍事・文化の中心としての役割を担い、その後の北前船交易では経済的な繁栄を享受した。
一見すると、中世の山城が廃され、近代的な開港場としては他の港に一歩譲ったように見えるかもしれない。しかし、七尾の歴史が示しているのは、ある役割が終わりを迎えても、この地が持つ本質的な価値が失われることはなかったという事実である。軍事拠点から文化交流の場へ、そして商業港から地域の物流拠点、さらには観光地へと、時代に応じてその姿を変えながらも、常に能登という地域の要であり続けたのだ。
七尾の歴史は、能登湾という地理的条件がもたらす普遍的な恩恵と、それを取り巻く人々の選択や努力が織りなす、多層的な物語である。城跡の石垣、古道の旧町名、そして港を行き交う船の姿。それら一つ一つが、この地がたどってきた長い道のりを静かに語りかけている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。