2026/6/8
輪島塗と朝市、千年の歴史を支えた海の道

輪島の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
輪島は、能登半島の地理的条件と大陸・日本海交易の要衝として、千年以上続く朝市と輪島塗の漆器文化を育んできた。地の粉を用いた堅牢な漆器と、塗師屋による全国行商がその隆盛を支えた。2024年の能登半島地震からの復興が課題となっている。
能登半島の北西端、日本海に深く突き出た輪島に立つと、まずその地形の厳しさに目を奪われる。荒々しい海岸線と、すぐ背後に迫る山々。平野部は限られ、容易にアクセスできる土地ではない。このような辺境とも言える場所で、なぜ千年以上続く朝市が営まれ、世界に名を知られる漆器文化が育まれたのか。輪島の歴史を紐解くことは、単なる年表の追跡ではなく、この土地が持つ固有の条件と、そこに生きる人々の選択の連続を見つめることに他ならない。
輪島の歴史は、遠く縄文時代にまで遡る。隣接する七尾市の三引遺跡からは、約6800年前の漆製品が出土しており、この地域一帯で古くから漆器作りが行われていたことがうかがえる。輪島という地名自体も、太古に大陸から渡来した人々が能登半島先端を「倭の島」と呼んだことに由来するという説がある。
平安時代には、輪島を含む鳳至郡に大市駅などの交通の要衝が置かれ、地域の行政の中心地として機能していた。さらに中世に入ると、現在の輪島港は「大屋湊」あるいは「親の湊」と呼ばれ、日本海遠隔地交易の重要な中継基地として繁栄した。室町時代には、日本を代表する「三津七湊」の一つに数えられるほど栄え、多くの物資と文化がこの港を通じて行き交ったのである。
輪島塗の本格的な歴史は、室町時代中期に重蔵権現本殿の朱塗扉(1524年作)が現存する最古の輪島塗とされ、この頃にはすでに塗師が存在していたことが確認されている。漆器技術の伝播については、和歌山県の根来寺の僧侶が輪島に技術をもたらしたという説や、輪島の住民が根来で習得した技術を持ち帰ったという説など諸説ある。また、輪島朝市の起源も古く、平安時代初期には鳳至比古神社の祭礼日に生産物を持ち寄って物々交換する市が立っていたと伝えられている。これが、千年以上の歴史を持つとされる輪島朝市の始まりとされているのだ。
輪島がその後の隆盛を築く上で、特産品の変遷は重要な要素だった。江戸時代中期以降に盛んになった素麺製造が衰退すると、輪島塗が主要な産業として台頭する。輪島塗が他の漆器産地と一線を画し、全国にその名を轟かせることになった決定的な要因の一つは、寛文年間(1661〜1673年)に発見された「地の粉」の利用にある。これは珪藻土を焼成した粉で、漆に混ぜて下地として塗ることで、漆器に比類ない堅牢さを与えた。この「地の粉」を用いた下地技法は、輪島塗の耐久性を飛躍的に高め、他の産地の漆器との差別化を可能にしたのである。
さらに、江戸時代から明治時代にかけて日本海を往来した北前船が、輪島塗の販路拡大に大きく貢献した。輪島は北前船の寄港地として栄え、各地の物資や文化が流入するとともに、輪島塗が全国へと運ばれていった。漆器の販売は、単に港で流通するだけでなく、塗師屋と呼ばれる行商人が商品見本を背負って全国各地を巡り、直接顧客と対面して販路を拡大していったという。この「塗師屋」による直販体制は、顧客の要望を直接製品に反映させ、品質向上に繋がったと考えられている。18世紀からは「講組織」と呼ばれる割賦販売の仕組みも加わり、需要の拡大と品質の安定に貢献した。
また、輪島塗の堅牢さを支えるのは地の粉だけではない。木地の外側や損傷しやすい箇所に漆で麻布を貼る「布着せ」の技法や、下地が剥離しやすい上縁に生漆を塗る「地縁引き」といった独自の技法も、漆器の品質と堅牢度を高めている。これらの技術は、日本海沿岸の湿潤な気候と、アテ(ヒノキアスナロ)やケヤキといった漆器の材料となる木々が群生する地理的条件の中で育まれたもので、漆器製作に適した環境が輪島には存在したのである。加賀藩が元和2年(1616年)に能登の七木保護の制を布き、寛永年間(1624-1643年)には漆の木の植林を奨励したことも、漆器産業の基盤を強化した一因だろう。
輪島が日本海海運の要衝として栄えたことは、他の港町との比較においてその特異性を浮き彫りにする。鎌倉時代末期に定められた海の古法「廻船式目」に記された「三津七湊」の一つであった輪島港は、単なる物資の集散地にとどまらなかった。例えば、より大規模な商業港であった堺や博多とは異なり、輪島は能登半島という海の難所に位置し、荒天時の避難港としての役割も大きかった。この地理的条件が、単なる交易だけでなく、地域固有の文化や技術が育まれる土壌となったのである。
漆器産地としての輪島塗も、他の地域とは異なる道を歩んできた。例えば、会津塗や山中漆器など、日本には多様な漆器産地が存在するが、輪島塗の最大の特徴は、前述の「地の粉」を用いた堅牢な下地技法と、塗師屋による全国行商という販売戦略にある。これは、他の産地が問屋制や分業化を進める中で、輪島が職人と顧客の直接的な関係性を重視し、品質と信頼を積み重ねてきた姿勢を示す。山中漆器が近代化を図る一方で、輪島塗は高度経済成長期においても伝統的な生産・販売体制を維持し、独自の「塗師屋文化」を形成してきたという指摘もある。椀講のような割賦販売の仕組みも、単なる金融システムに留まらず、塗師屋と講員との交流を通じて各地の文化情報を伝え、輪島に持ち帰る役割を果たしたとされる。
また、輪島朝市も「日本三大朝市」の一つに数えられるが、その起源は平安時代にまで遡り、千年以上の歴史を持つ点は特筆に値する。千葉県勝浦市や岐阜県高山市の朝市と比較しても、輪島朝市は売り手のほとんどが女性であり、近郊の農家や漁師町の「おばちゃんたち」が方言で「買うてくだぁ〜」と呼びかける、独特の対面販売文化を長く維持してきた。これは単なる市場の機能を超え、地域コミュニティの交流の場としての役割を果たし続けてきたことを示している。
現代の輪島は、その長い歴史と伝統文化を背景に、多くの人々を惹きつけてきた。輪島塗は1977年(昭和52年)に国の重要無形文化財に指定され、その堅牢さと優美さは今も高く評価されている。漆器の製作工程は、下地から上塗り、そして沈金や蒔絵といった加飾に至るまで、75から124回にも及ぶ丁寧な手作業を経て完成される。輪島市内には、観光客が輪島塗の製作工程を見学したり、体験したりできる「輪島工房長屋」のような施設も整備されている。
輪島朝市もまた、年間80万人以上の観光客が訪れる能登半島随一の観光スポットとして賑わいを見せてきた。NHKの連続テレビ小説「まれ」(2015年)の舞台となったことで、さらに多くの観光客が訪れ、活気を取り戻した時期もあった。しかし、現代の輪島は、全国の地方都市と同様に、人口減少と高齢化という課題に直面している。
そして、2024年1月1日に発生した能登半島地震は、輪島に甚大な被害をもたらした。特に、輪島朝市が立つ河井町一帯は大規模火災に見舞われ、約5万平方メートル、約300棟の家屋が焼失した。この災害は、千年以上の歴史を持つ朝市にも大きな影響を与え、再開の目処が立たない状況が続いている。しかし、それでもなお、被災した露店主たちは「出張輪島朝市」を全国各地で開催するなど、伝統の灯を消さないための努力を続けている。輪島空港(のと里山空港)の開港や能越自動車道の整備など、交通インフラの改善は進むものの、地域経済の再建と文化の継承は喫緊の課題となっているのだ。
輪島の歴史を辿ると、この地が常に厳しい自然環境と向き合いながら、外界との交流を通じて独自の文化を育んできたことがわかる。能登半島という地理的な突出は、大陸との接点となり、また日本海海運の要衝としての役割を与えた。しかし、その一方で陸路の不便さや冬期の気候は、地域に閉鎖性をもたらし、結果として「地の粉」の発見や「塗師屋」による行商といった、輪島独自の工夫を生み出す土壌となった。
漆器という手仕事が千年以上も途切れずに受け継がれてきた背景には、単なる技術の継承だけでなく、それを支える経済活動と、地域コミュニティの強固な結びつきがあった。朝市に立つ女性たちの活気や、塗師屋が行商に出て顧客と直接向き合う姿勢は、単なる商売を超えて、人と人との信頼関係を築き、文化を広める役割を担ってきた。輪島の歴史は、困難な状況下で、いかにして地域固有の資源と知恵を活かし、外部とのバランスを取りながら、自らのアイデンティティを確立してきたかを示す好例と言えるだろう。その営みは、現代の災害からの復興においても、静かながらも確かな力として息づいている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。